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徐志摩著「再別康橋」の朗詠性について
-  徐志摩《再别康桥》的朗咏性  -

 11月8日(火)午後、杏林大学大学院国際協力研究科、2016年度秋学期第二回講演会が開催されました。中国近代詩歌の徐志摩著の「再別康橋」は世界各国の言語に翻訳されるほど注目を集めています。清和大学法学部、元教授加藤阿幸先生は「再別康橋」の朗詠性を題とし、なぜ、「再別康橋」は多くの人々に愛唱されているかという問題について、解説されました。

 以下は加藤先生のご講演を摘要してまとめたものです。

徐志摩の多彩的な一生
 徐志摩(1897年―1931年)は、中国浙江省出身で、1910年杭州府中学堂に入学、学校刊行物で「小説と社会の関係の論説」を発表、1915年上海浸信会学院に入学、在学中、父親の命に従い、軍閥の娘張幼儀氏と結婚。その後、浸信会学院を退学、1917年、また北京大学法学部に入学、法学を研究しながら、日本語、フランス語を熱心に勉強した。その時期に、維新改革派代表者梁啓超の門弟となりました。1918年、アメリカのクラーク大学へ留学、社会学を習いました。学位を取った同年、またコロンピア大学大学院に入学しました。2年後、イギリス哲学者バートランド・ラッセルに師事するため、徐志摩はイギリスへ留学することにしました。在英中、北洋政府政治部部長の林長民の娘の林徽因氏と出会い、お互い愛慕の情が生まれました。林徽音との結婚を切望する徐志摩は、中国から呼び寄せた妻張幼儀と1921年に離婚しました。実は、19歳の時に張幼儀と結婚した当初、自分は中国で初めて自由離婚をする人になると公言したのだったが、当時の世の中の習わしでは、男性は30未満、女性は25歳未満の場合は、離婚は家長の許可が要るので、両方の家庭からはとっても許しをもらえないので、ドイツで友人の立会いの下に自分の意志で、1922年、27歳で離婚したわけであり、“我要成为中国第一个自由离婚的男人”という誓いを実現したのだった。なお、林長民の紹介で知り合ったイギリスの作家G・L・ディキンスンに推薦され、ケンブリッジ大学に入学しました。ケンブリッジ大学では、当時のイギリスの前衛的な文学や芸術を謳えるブルームズベリー・グループ(Bloomsbury Group)の人々と親しく交友していたうちに、自由な思想や哲学の薫陶を受け、視野を広げ、思想と知識が開花したのである。その中で、イギリスのロマン詩派に影響され、詩歌を創作するようになりました。1922年10月、中国に帰り「新月社」を創設し、多くの外国作品を翻訳し、詩文を発表し、新月詩派の盟主と呼ばれるようになった。一方、林徽音は実はまだ母親のお腹の中にいるときから、すでに“指腹為婚”(お腹にいるときから、結婚相手を決まられるという中国古代の因襲)で、梁啓超の息子の嫁と定められたことを、帰国後の徐志摩が初めて知ることとなった。ついに、1926年、梁啓超の家長としての意向に従い、林徽因は梁啓超の息子の梁思成氏と、建築学を勉強するため、一緒にアメリカへ留学しました。1928年、林徽因は梁思成と結婚しました。結局、徐志摩の初恋は悲恋に終わり、傷心した徐志摩は、創設した新月社のメンーバである、友人の王賡氏の妻である陸小曼氏と恋愛に陥り、大変な波乱を巻き起こし、紆余屈折した末、1926年結婚しました。結婚式に梁啓超が立会人として招待されましたが、席上で、梁啓超は“前代未聞のスピーチ”をして、新郎新婦に大変な叱責をし、後世まで語り草になったのである。結婚後、陸小曼は世間の目に堪えられず、病弱な故に、アヘンを頼り、結局悲惨な結婚生活を送らざるを得なかったのである。徐志摩が結婚前に描いていたような、理想な夫婦像であるイギリスの詩人夫妻、ブラウンニング(Elizabeth Barrett BrowningとRobert Browning夫妻)夫妻のような詩文や絵画に浸る優雅な生活を得られなかったのである。
 のち、初恋の人、林徽音の北京での建築学に関する講演を聞きたい故、上海から急いで北京に帰るため乗った飛行機が事故になり、帰らぬ人となった。
 徐志摩の一連の悲恋やセンセーショナルな再婚のなかでの感情の高ぶりや悶絶な恋心が、詩作の源泉となり、熱烈な愛の叫びや繊細な感情で織りなす優美な詩歌は、現在に至って、中国語圏の若者に愛読されつづけた理由の一つになったのである。

 「再別康橋」の朗詠性については、加藤先生より頂いた論文を基に、以下のようにまとめました。
 「再別康橋」は徐志摩の詩歌の精華が鏤められていると考える。朗詠性はまさに徐志摩詩歌の特色の一つである。1928年11月16日に「再別康橋」を書くまで、徐志摩はすでに、二百數十首の詩歌実作経験を有していた。それまでの徐志摩の詩歌の特色、あるいは精華と申すか、ほぼ、この「再別康橋」に凝縮されていると言ってもよかろう。
 徐志摩の詩歌の特色を、要点のみ申せば、それは、①叙情性、②“口語入詩”③詞曲美の詞藻、④中西融和型の詩の韻律、⑤唯美主義的な詩風、などの五点である。「再別康橋」の朗詠性がこの詩を人口膾炙する要因であると考え、この朗詠性というのは、換言すれば、即ち②の“口語入詩”、詩の中に口語の要素を取り入れたこと、及び④の中西融和型の詩の韻律を用いるという音楽性の二つの要素を兼ね備わっていることであると思う。
 故に、次は、本詩の口語的要素及び中西融和型の韻律について、述べたいと思う。

「再別康橋」の口語的要素
 口語の究極的な表現は「方言」ではないだろうか。徐志摩はすでに詩作の早期から、積極的に口語及び方言を詩歌にとりいれていた。詩人朱湘(1904-1933)に、「方言で詩を書くのは、中國の民歌以外に、このようなことをする詩人は未だ嘗ていなかった」(《評徐君「志摩的诗」》)と言わせたのである。徐志摩以外にも、胡適(1891-1962)も、劉半農(1891-1934)も、沈尹黙(1883-1971)も、周作人(1885-1967)も、魯迅(1881-1936)も完全なる会話調の言葉で詩を書いたものがある。しかし、約半世紀すぎて、卞之琳(1910-2000)に、「話し言葉の音節や口語で詩を書きながら、格律を持った詩行で、簡潔かつ圓熟洗練な詩に仕上げたのは、徐志摩と聞一多の旧作に匹敵するものはいなかった」(《完成与开端:纪念诗人闻一多八十生辰》)と論評されたように、匹敵するものはいなかったのであろう。実際、徐志摩は、僅かに初期の詞曲の雰囲気を持った詩以外、ほとんどの詩は、口語の語彙と、少々詩情の潤色を施した普通の言葉で、流暢に書かれている。
 徐志摩は嘗て、《坏诗、假诗、形似诗》中で、「目下文学界で最も目障りなのは“Nammerism of description”である」と述べたことがある。“Nammerism of description”は「わざとらしさ」とでも訳すか。「例えば、“心”を言うのに、決まって“心湖”か“心琴”と言い、雨が降れば、“お空が泣いている”と表現し、夕日はいつだって“血紅”であると“血”で比喩する」と指摘している。つまり俗っぽい常套句の多用を戒めているのである。それは最も自然な、“わざとらしさ”を排斥したごく普通の話し言葉で詩を書かなくてはならないことを説いている他ならない。
 “轻轻的我走了,正如我轻轻的來。我轻轻的招手,作別西天的云彩。”(そっと静かに私は去って行く、来た時と同じように。そっと静かに私は手を振る、茜さす西空の雲に別れを告げる。)、“悄悄的我走了, 正如我悄悄的來。我挥一挥衣袖,不带走一片云彩。”(ひそやかに私は去って行く、来た時と同じように。ひそやかに私は袖を振り払い、ひとひらの雲さえ持ち去らずに。)これらの詩行はまさしく上述した「最も自然な、“わざとらしさ”を排斥したごく普通の話し言葉」で構成された詩行ではないだろうか。また、“我轻轻的招手”(そっと静かに私は手を振る)も、“我挥一挥衣袖”(私はちょっと袖を振る)も、誠に日常的な一つの動作に過ぎず、極々普通の会話に出てくる言葉である。しかし続いてくる“作別西天的云彩”(茜さす西空の雲に別れを告げる)や“不带走一片云彩”「ひとかけらの雲をも持ち去らずに」で、いきなり読者は非日常性の世界に引き込まれていく。即ち、ごく普通の会話の一コマに過ぎない言葉であるが、徐志摩の詩心の導きで、「手を振る」対象は人間ではなく、西空の雲なのであり、「袖が振り拂う」対象は、塵ではなく、儚い世の移り変わりにたいする万感の哀愁であると、読者は想像の翼が与えられてしまう。そして、「ケンブリッジの地で若き血潮を沸かした情熱も、甘いまぼろしだった希望も未練も失意もすべて振り拂って、夕雲に載せたまま、西空の夕日とともに沈ませて行き、一片の雲さえも持ち歸らない」のである。このような豊かな詩情を、ごく普通の会話で構成できるのは、やはり、卞之琳に「話し言葉の音節や口語で詩を書きながら、格律を持った詩行で、簡潔かつ圓熟洗練な詩に仕上げたのは、徐志摩と聞一多の旧作に匹敵するものはいなかった」と評される所以ではなかろうか。

中西融和型の韻律
 かねてより、筆者(加藤阿幸)が指摘してきた徐志摩の詩歌の特色は、その浪漫性と音樂性である。人々に何気なしに口ずさみにされるほど普遍化された詩歌はいずれも、読みやすさ、即ち朗詠性があるからに他ならない。朗詠性とは、筆者が申す音樂性である。
 そもそも、かの『詩經』は次のように言う。「诗者,志之所之也,在心为志,发言为诗。情动于中而形於言,言之不足故嗟嘆之,嗟嘆之不足,故歌咏之(詩は心の之所なり。心に在るを志となし、言に發するを詩と為す。情、中に動いて言に形わし言う、之不足ならば、故に之を嗟嘆す;嗟嘆、之不足ならば、故に之を詠歌す)」と述べている。つまり、詩にするためには、まず、「言」にしなければならないし、「言」にするためには、発声をしなければならない。もっと深めるためには、「詠歌」もしなければならない。音声と詩との不可分的な関係がここにあるわけである。
 実際、徐志摩自身も詩の中の音楽的要素を詩の美しさの中で一番重い位置に置いている。一言で申せば、それは、「均整の中に流動性のある英詩形」を用いつつ、「中國古典詩の韻律を配す」ことである。
 筆者(加藤)は嘗て、徐志摩こそが中国現代詩に初めて正式に英詩形を移入し、記録に残された人であると、《徐志摩与阿瑟·魏理(Arthur Waley)》(「徐志摩とアーサー・ウェリー」)の中で論証したことがある。徐志摩は1922年1月31日という日付けで、ワーズワースの詩「ルーシー・グレー」(Lucy Gray or Solitude)をほぼ原文通りに「主調」と「強勢」を譯出した。そして、彼はその詩をアーサー・ウェリーに披露した。そのことについて、たまたまウェリーは“Our Debt to China”のなかで「彼(徐志摩)は私に自分はワーズワースの詩の格律―「主調」と「強勢」などを全部訳出したと話してくれたことがある」と記述している。
 実は、1922年1月以前に中国新詩詩壇に発表された白話詩集は、わずかに1920年3月胡適の中国新詩史上初めての白話詩集《尝试集》と、1921年8月郭沫若の《女神》しかない。勿論新聞や雑誌でも、「白話文」のままで「分行」して書いただけの「無韻」の詩は數多く発表されていた。かような時期的背景のもと、1922年1月31日に、徐志摩が英詩形に模倣した中國白話詩を披露したという“公式記録”を残したのは、大変意義深いことである。
 徐志摩が西洋詩から最も学びたかったのは、「均整の中に流動性のある英詩形」であると思う。それは、徐志摩がなぜワーズワースの名高い「ルーシー詩群」(Lucy Collection)に収録されない「ルーシー・グレー」を詩形模倣の對象に選んだかと関係があると思われる。徐志摩は内容よりも、詩脚、脚韻とも完璧であるその詩の「三、四詩脚混合体のabab脚韻」に注目したからであろう。故に、大変早い時期から、聞一多が《诗的格律》を提唱する遙か前から、徐志摩はいろいろな西洋詩形を中国の新詩に導入しようとしていろいろな詩を書いたのである。それらが《志摩的诗》に収録されている。そして、聞一多や朱湘、饒孟侃たちと新詩の格律運動に唱和してから、益々詩脚(meter)、音節や押韻方式の“均整と流動性”を研究し、さらに、中国古典詩の韻律要素を配置するように努力した。《翡冷翠的一夜》(『フィレンツエの一夜』)や《猛虎集》は、このような音楽性の調和のとれた詩集である。
 徐志摩の理想とする詩歌の韻律とは、「その内なる音節の均整と流動」にあると言っても過言ではなるまい。そして、「内なる音節の均整と流動」を徐志摩は「英詩型を骨組みとして」、「中國古典詩の作詩法である“雙聲”“疊韻”“復沓”」などを積極的に取り入れたことで実現したのである。

「再別康橋」の韻律構造
 「再別康橋」は7聯(stanza)からなり、1聯4行あり、1,3行は一字ずつ頭出しの「高低型」詩形である。一行の字数は6字から9字の閒であり、外形から見れば、整った視覺的な均整の取れる美的感覚を有する。英詩型の角度から見れば、脚韻方式は、“*7abcb”式である。“*7abcb”とは、即ち7聯ともみな2、4行だけ同じ韻を用いるいわゆる「單交」の押韻方式である。ただ、首聯と尾聯はまったく同じ「開韻」の「來」と「彩」となり、大きな“回環”(回文體)になり、纏まりのある自己完結的な韻律構造となっている。
 音歩は“ほぼ”4歩格の“quartmeter”と3歩格の“trimeter”の混合型であると思われる。“ほぼ”と断ったわけは、全詩を通讀して、「雪花的快樂」のような整った拍節數がなく、1、2、7聯目だけがきれいな「3,4,3,4拍節」であり、あとは少しずつずれている。例えば4聯目は4行とも「4歩格」であり、5聯目は「4,5,3,5拍節」であり、6聯目は「3,5,4,5拍節」のように。それでも、脚韻は一聯のうち2,4行目は同韻で揃えていて、心地よい音楽性をもたらせてくれる。なお、紙幅の關係、拍節區分の表示は省略させていただく。

「再別康橋」の中國古典韻律的要素
 「再別康橋」は中國古典詩の韻律的要素:「復沓」「頂真」「双声」「叠韵」「叠字」などを多く取り入れている。首聯の“轻轻的我走了,正如我轻轻的來”と尾聯の“悄悄的我走了,正如我悄悄的來”は「復沓」である。「轻轻」と「悄悄」が入れ替われただけである。ほかは全部同じ文の構成をしている。6聯目の3,4行の“夏蟲也為我沉默,沈黙是今晩的康橋”は「頂真」である。“轻轻(qīngqīng)”、“悄悄(qiāoqiāo)”、“油油(yóuyou)”、“挥(一)挥(huīyihuī)”、“艳影(yànyǐng)”、“楡蔭(yúyīn)”、“清泉(qīngquán)”などの詩語は 「双声」である。“轻轻(qīngqing)”、“悄悄(qiāoqiao)”、“油油(yóuyou)”、“蕩漾(dàngyàng)”、“青荇(qīngxìng)”、“招搖(zhāoyáo)”、“斑斕(bānlàn)”は「叠韵」である。“甘心(gānxin)”、“寻梦(xúnmèng)”、“更青(叠字」である。
 「復沓」「頂真」「双声」「叠韵」はみな音声上の心地よさを與えてくれるのであるが、「疊字」の場合は、同じ字を二つ以上に重ね合わせて、更に、反復のように、句や行の印象を強調するために用い、視覺的にもしばしば美的感覺を添えることが多い。本詩の場合、「油」が二字重ねて、「油油的」としたため、その悠然とゆらゆらしている様がより一層強調されるのである。「油油的」には、幾つか意味があるが、本詩の場合は、水中の水草の様子を描いているわけであるので、無論「悠然とゆらゆら」としている様の方の意味を取るのである。また、「轻」が二つ重ねて、「轻轻的」としたが故に、いかにも足のつま先でそっと静かに歩く様子、足音を一つ立たさないその忍ばれる様が一層よく目に浮かぶ。同様に、「悄」が二つ重ねて、「悄悄的」としたが故に、「ひそやかに」去って往くそのわびしさが一層よく目に浮かぶ。音聲的に申せば、「轻」も「悄」も兩字とも摩擦音で、ちょうど、胡弓などの弦樂器が切なく弦を引く響きに似るので、一層その哀愁に滿ちた音樂的効果が得られるのである。
 尚、脚韻に關して言えば、5聯目以外は、どの聯にも2,4行目に押韻している。首聯と尾聯の“來(lái)”“開(kāi)”の他に、2聯目は“娘(niáng)”“漾(yàng)”、3聯目は“搖(yáo)”“草(cǎo)”、4聯目は“虹(hóng)”“梦(mèng)”、6聯目は“簫(xiāo)”“桥(qiáo)”である。5聯目の2,4行目の脚韻は“溯(sù)”“歌(gē)”であって、韻を踏んでいない。実は、5聯目は、作者の精神が最も高揚していく瞬閒で、「思い出の翼は夢がいっぱい鏤めている星空に飛んで」いて、「きらめく星の光の中で歌おうよ」と思っていたので、「韻」よりも、表現の自由を取ったのではないかと思うのである。
 上述した通り、「再別康橋」も徐志摩の他の多くの詩歌同様、西洋の作詩法を骨組みに、中国古典詩の作詩技法である雙聲、疊韻、疊字、復沓を多く織り込んだ音樂性の高い詩歌であることが判明したのである。それが「再別康橋」の朗詠性を高めた一因でもあることが首肯されよう。


(大学院国際協力研究科 博士後期課程1年・姚強)


 

 11月8日星期二下午,杏林大学大学院国际协力研究科召开了2016年度秋学期第二次演讲会。被翻译成世界各国语言的中国近代诗歌徐志摩著的《再别康桥》备受瞩目。清和大学法学部前任教授加藤阿幸老师以《再别康桥》的朗咏性为题,就其为何被世界各国吟唱至今的原因进行了解读。

 以下是加藤教授演讲的详细摘要。

徐志摩多彩的一生
 徐志摩(1897年―1931年)出生于中国浙江省,1910年考入杭州府中学堂,在校期间在校刊《友声》第一期上发表了论文—《论小说与社会之关系》。1915年考入上海浸信会学院暨神学院,同年受父亲徐申如之命,与上海宝山县巨富张润之之女张幼仪结婚。1916年,退学后,考入北京大学法学部,在钻研法学的同时,开始攻读日语和法语。在此期间,拜维新派代表者梁启超为师。1918年,留学美国,在克拉科大学开始攻读社会学。取得学位后,转入哥伦比亚大学研究院继续深造。两年后,徐志摩为了追随英国哲学家罗素从学,决定留学英国。留英期间,结识了北洋政府政治部部长林长民的女儿林徽因,并互生爱慕之情。迫切希望与林徽因结婚的徐志摩将妻子张幼仪叫到伦敦,于1921年提出离婚。其实,徐志摩在19岁与张幼仪结婚的时候,就曾公开表示要成为在中国自由离婚的第一人。只是按照当时的习俗,如果男性未满30周岁,女性未满25周岁的情况下,必须要有家长的许可方可离婚。徐志摩没有经过双方家庭的许可,只在友人的见证下由自己的意志于1922年,在德国正式离婚。当时徐志摩27岁,实现了“我要成为中国第一个自由离婚的男人”的誓言。后来,通过林长民的介绍认识了英国作家狄更生,在狄更生的推荐下,徐志摩进入了剑桥大学。在学期间结识了当时在英国倡导前卫文学与艺术的布鲁姆斯伯里团体(Bloomsbury Group)多数友人,因而得到自由思想及哲学的熏陶,开拓视野,并受欧美浪漫主义诗派的影响,使其自由主义思想得以萌生并开始创作新诗。1922年10月,徐志摩回到中国成立了新月社,翻译并发表了大量的外国文学作品和诗文,被称为新月诗派的盟主。另一方面,徐志摩在回国之后才知道,林徽因在没出生之前,其实就本与梁启超的儿子指腹为婚了。1926年,在梁启超的安排下,林徽因与梁启超之子梁思成,一起前往美国留学,攻读建筑学。最终于1928年,林徽因与梁思成结为夫妇。徐志摩的初恋以悲剧告终,伤心之余,徐志摩与新月社的成员之一,并与自己是好友的王赓的妻子陆小曼相恋。在引起了巨大的骚乱,几经周折之后,于1926年正式结婚。结婚仪式时,被邀请为证婚人的梁启超,发表了前所未闻的证婚词,严厉地斥责了两位新人,并成为了流传到后世的话题。婚后,陆小曼承受不了世俗的批评和指责,并由于本来就体弱多病,因而染上鸦片恶习,后期的婚姻生活甚是悲惨。没能得到如徐志摩婚前所描写的理想夫妻―英国诗人布朗宁夫妇(Elizabeth Barrett &Robert Browning)那如诗如画般的优雅生活。
 之后,徐志摩由于要去参加初恋情人林徽因在北京的建筑学演讲会,为节省时间乘飞机从上海匆忙飞往北京,途中遭遇飞行事故,不幸罹难。 在恋爱与婚姻不断惨遭挫折的情况下,激发出的强烈情感和苦闷的相思之情成为了徐志摩诗文创作的源泉。其优美诗文中交织融汇了对爱情的强烈呼唤与细腻感情,这是徐志摩的诗歌至今仍被中国年轻人吟唱的原因之一。

 通过拜读加藤教授的论文研究,关于《再别康桥》的朗咏性,做出以下总结。
 《再别康桥》凝聚了徐志摩诗歌的精华。高度的朗咏性是徐志摩诗歌的一个重要特色。在徐志摩1928年11月16日完成《再别康桥》之前,他就已经创作了200多首诗歌。这些诗歌的精华部分最终大致都凝结在了《再别康桥》一诗之中。
 论徐志摩诗歌的特点,可总结为以下五个要点:①抒情性、②口语入诗、③具备宋词元曲等美丽的辞藻、④中西诗歌融合的韵律、⑤唯美主义的诗风。其中②“口语入诗”和④“中西诗歌融合的韵律” 即口语性要素的引入和中西诗歌融合产生的音乐性韵律,两者兼备正是《再别康桥》拥有高度的朗咏性并成为脍炙人口的诗歌的重要原因。
 接下来就其口语要素和中西诗歌融合的韵律,进行具体阐述。

《再别康桥》的口语要素
 口语化的终极表现可以说是通过方言吧。徐志摩在创作诗歌的早期就积极地把方言引入诗歌中。诗人朱湘(1904-1933)在《评徐君〈志摩的诗〉》中,曾这样评价:“用方言作诗,除了中国的民谣以外,徐志摩还是第一人。”虽然除了徐志摩,胡适(1891-1962)、刘半农(1891-1934)、沈尹默(1883-1971)、周作人(1885-1967)和鲁迅(1881-1936)也曾以完全会话的基调的措词创作过诗歌。但是,大概过了半个世纪,卞之琳(1910-2000)在《完成与开端:纪念诗人闻一多八十生辰》中评论:“用口头语言的音节作诗的同时,又具备诗歌的结构逻辑并能游刃有余地做到简洁凝练,是没有任何作品能与徐志摩和闻一多的旧作相媲美的。”这如卞所言,徐志摩的诗可谓是前无古人后无来者的。实际上,除了初期创作的具有词曲氛围的诗歌以外,徐志摩的多数的诗歌是以口语表现和稍许带有抒情渲染的普通词汇而流畅创作的。
 徐志摩在《坏诗、假诗、形似诗》中曾说:“当下在文学界最看不顺眼的就是Nammerism of description。”Nammerism of description通常被译为“做作”。“比如说,想说“心”,就说成“心湖”或“心琴”之类,想说下雨,就说成“天空在哭泣”,想说夕阳,就说成“血红”或用“血”来作比喻。”强调要戒掉老一套的俗气表现方式。所以,要排斥掉“做作”的表达方式就是使用最为自然的普通的口语词汇。
 “轻轻的我走了,正如我轻轻的来。我轻轻的招手,作别西天的云彩。”“悄悄的我走了,正如我悄悄的来。我挥一挥衣袖,不带走一片云彩。”的诗文正是用了极为普通的口语表达方式。“我轻轻的招手”和“我挥一挥衣袖”都是只是平常的一些简单的动作,在日常的会话表现中常使用的词语。然而之后的“作别西天的云彩”和“不带走一片云彩”却瞬间将读者带入了非日常性的世界中。“招手”的对象并不是人,而是“西天的云彩”,“挥衣袖”拂去的对象也并不是灰尘,而是变幻无常、百感交织的哀愁,给读者插上了想象的翅膀。所谓“拂去剑桥之地给予的热血澎湃的满腔热情和甜美而虚幻的梦想及不遇,载着云彩与西方的夕阳一同沉落,不带走一丝的留恋。”如此感情丰富的诗文只由简单的口语方式来表达,也正是卞之琳对徐志摩高度评价的原因所在吧。

中西诗歌融合的韵律
 浪漫性和音乐性是加藤教授早先指出的徐志摩诗歌的特点。能被人们随性咏诵成为脍炙人口的诗歌都是因为其简单而能朗朗上口的原因。朗咏性即所谓加藤教授提到的音乐性。
 最初《诗经》中曾说:“诗者,志之所之也,在心为志,发言为诗,情动于中而形于言,言之不足,故嗟叹之,嗟叹之不足,故咏歌之。”就是说要以诗表达心中之志,就必须靠词语,而当词语不足以表达感情时就必须通过感慨之声音,而要使诗中融入更深厚的情感就必须“咏歌”。 因此声音与诗是不可分割的。
 实际上,徐志摩的诗歌之所以美妙其最重要的因素就是其诗中增添了音乐性元素。简单说就是匀整中带有流动性的英国诗形和中国古典诗的韵律相结合。
 加藤教授曾在《徐志摩与阿瑟·魏理(Arthur Waley)》中进行过论证,正是徐志摩首次将英国的诗形融入中国现代诗当中,成为开创先河的人。被记载为1922年1月31日的日期下,徐志摩翻译出威廉·华兹华斯的《Lucy Gray》,并诠释出大致同原文一样的基调和气势,他将其所译之诗披露给阿瑟·魏理,然后魏理又在《Our Debt to China》中记述说“徐志摩曾对我说过他将华兹华斯的诗的基调和气势全部翻译表现了出来。”
 1922年1月以前在中国新诗诗坛上发表的白话诗集,仅有1920年3月发表的胡适著的中国新诗史上最初的白话诗集《尝试集》和1921年8月发表的郭沫若著的《女神》。当然,报纸和杂志也先后刊载了大量的只以“白话文”格式分行而无韵律的诗文。在当时的时代背景下,1922年1月 31日模仿英国诗形的徐志摩的中国白话诗被以“正式记录”刊载这一点来看,是具有深远的意义的。
 加藤教授认为徐志摩从西洋诗中最想借鉴的就是匀整中带有流动性的英国诗形。这与徐志摩之所以选择没有被收录进著名的华兹华斯的《Lucy Collection》的《Lucy Gray》诗形进行模仿有重要的关系。因为徐志摩更注重内容、诗脚(meter)与韵脚都兼备完美的“三、四诗脚混合体的abab韵脚”。在早先闻一多提倡“诗的格律”的很久之前,徐志摩其实就已经将西洋诗形导入中国的新诗中了。作品都被收录在《志摩的诗》之中。闻一多,朱湘,饶孟侃等人在倡导新诗的格律运动之后,也逐渐着手研究诗脚、音节和押韵方式的匀整性和流动性,并希望能将中国古典诗的韵律元素融入其中。《翡冷翠的一夜》、《猛虎集》就是和谐地融入了音乐性元素的代表诗集。
 徐志摩追求的理想的诗歌韵律可称之为“内蕴于诗歌之中的音节的匀整和流动”。这种“内蕴于诗歌之中的音节的匀整和流动”是通过以英国诗形为骨架,并将中国古典诗中“双声”“叠韵”“复沓”的作诗方法融入其中来得以实现的。

《再别康桥》的韵律构造
 《再别康桥》共7联,1联4行,每1、3行的首字出头成高低型。每一行的字数在6字和9字之间,从外形来看,整体视觉匀称给人美的感觉。从英国诗形的角度来看,韵脚的方式为“*7abcb”式。即7联都是2,、4行押韵,即所谓“单交”的押韵方式。但是首联和尾联用相同的“来”和“彩”押韵,成大回环(回文体),形成统一一致的自我完结音律构造。
 加藤教授认为音步“大致”是四步格quartmeter和三步格trimeter的混合型。之所以说是“大致”,是因为全诗并没有如《雪花的快乐》中那样整齐的节拍,仅在1、2、7联成整齐的“3,4,3,4节拍” ,其余部分则都稍有偏离。比如第4联的四行都是四步格,第5联是“4,5,3,5节拍”,第6联是“3,5,4,5节拍”。但是,每一联中的韵脚都是2,4行同韵,给读者以愉悦的音乐性感觉。此次由于稿纸幅度的限制省略了划分节拍的表示。

《再别康桥》的中国古典韵律元素
 《再别康桥》中融合了“复沓”“顶真”“双声”“叠韵”“叠字”等多数中国古典诗的韵律元素。首联“轻轻的我走了,正如我轻轻的来”和尾联“悄悄的我走了,正如我悄悄的来”是“复沓”的表现方式。只是把“轻轻”和“悄悄”进行了词语更换,其余的诗文构成则完全一致。第6联的3、4行“夏虫也为我沉默,沉默是今晚的康桥”是“顶真”的表现方式。“轻轻(qīngqīng)”、“悄悄(qiāoqiāo)”、“油油(yóuyou)”、“挥(一)挥(huīyihuī)”、“艳影(yànyǐng)”、“榆阴(yúyīn)”、“清泉(qīngquán)”是“双声”的表现方式。 “轻轻(qīngqing)”、“悄悄(qiāoqiao)”、“油油(yóuyou)”、“荡漾(dàngyàng)”、“青荇(qīngxìng)”、“招摇(zhāoyáo)”、“斑斓(bānlàn)”是“叠韵”的表现方式。“甘心(gānxin)”、“寻梦(xúnmèng)”、“更青(gèngqīng)”是“叠字”的表现方式。
 “复沓”“顶真”“双声”“叠韵”都是在声音上给人予愉悦的心情,而“叠字”是将同样的字重叠使用,这种重复多能加深读者对诗文的句与行的印象,并能屡屡带来视觉美的感受。《再别康桥》中,“油”字两字重叠,成“油油的”来描绘的是水中水草的样子,更形象地渲染出那种悠然舒雅的气氛。还有,“轻”字两字重叠,成“轻轻的”来描绘安静地行走的样子,那种没有脚步声的悄然状立刻浮现在了眼前。同样,“悄”字两字重叠,成“悄悄的”,也将到来和离去的静默表现的淋漓尽致。从声音角度来讲,“轻”和“悄”都是摩擦音,类似于拉奏胡琴等弦乐器时放出的低沉声,正是如此,赋予了诗文充满哀愁的音乐效果。
 另外,关于韵脚,除第5联以外,每一联都是2,4行押韵。首联和尾联的“来(lái)”“开(kāi)”,第2联的“娘(niáng)”“漾(yàng)”,第3联的“摇(yáo)”“草(cǎo)”,第4联的“虹(hóng)”“梦(mèng)”,第6联的“萧(xiāo)”“桥(qiáo)”都押韵,第5联的2,4行的韵脚“溯(sù)”“歌(gē)”没有押韵。加藤教授认为,第5联可能是因为作者想象着翱翔在充满梦想的星空中,在星辉斑斓里放歌的情景,作者在精神高度振奋的瞬间,较之韵律,选择了表达情怀的自由性。
 综上所述,《再别康桥》以及徐志摩的其他的多数作品,都是通过将 “双声”“叠韵”“叠字”“复沓”等中国古典诗的作诗技法嵌入至西洋诗歌的骨架之中,而创作出的具有高度音乐性的诗歌。这也正是《再别康桥》具有高度朗咏性的原因之一。

(杏林大学研究生院国际协力研究科博士后期课程1年级 姚强 译)


2016.11.17