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今月は、若手医師の育成にも力を注ぐ、脳神経外科 塩川 芳昭 教授のご紹介です。
| 名前 | 塩川 芳昭 (しおかわ よしあき) |
|---|---|
| 年齢・血液型 | 51歳(昭和32年5月24日生まれ)・A型 |
| 趣味 | テレビドラマや映画の中で、脳外科に関係する場面を探すことと、学生の課外活動に携わること(ボート部の顧問をやらせてもらっています。年に2〜3回ですが、試合も見に行きます)。 |
| 専門 | 脳神経外科全般、特に脳卒中と良性腫瘍 |
| 外来日 | 火・木の午前中 |
| 所属 | 脳神経外科 教授 |
| プロフィール |
1982年 東京大学医学部医学科卒業 1982年 東京大学附属病院研修医 1983年 東京警察病院脳神経外科 研修医 1985年 富士脳障害研究所付属病院 医員 1986年 都立府中病院脳神経外科 主務 1989年 Lund 大学 (Sweden) 脳神経外科 1992年 Karolinska研究所(Sweden) 脳神経外科 1992年 富士脳障害研究所付属病院 医長 1993年 杏林大学脳神経外科 講師 1998年 同 助教授 2003年 同 教授 現在に至る |
大阪のご出身とのことですが、関西の方言は感じられませんね。
商社マンだった父親の転勤が多くてあちこち引っ越しました。幼稚園は2つ、小学校は3つ通いました。本籍は大阪ですが、本当は名古屋生まれです。子どもの頃は主に大阪府吹田市で過ごしていましたが、小学4年で東京に出てきて、代官山で過ごしていました。代官山といえば今はおしゃれなところですが、当時は下町で、違った意味でいいところでした。それ以来、ずっと東京にいるので関西弁は出なくなりました。
高校2年の頃、ちょうど東急デパートができた年に吉祥寺に来ました。以来、多摩はなじみのある土地柄となって今に至っています。
そのまま東大の医学部に進まれましたが、いつから医師を目指していたのでしょうか?
高校生の頃ですね。建築家がいいかと思った時期もありましたが、その頃は医師になること以外、思いつきませんでした。今テレビなどを見ていると、古い文化財を修理する宮大工もよかったかなぁなんて思いますが、現実に戻れば手術でマイクロ(手術用顕微鏡)を通して脳を見るたびに、脳外科医でよかったと思います。なぜ医師を目指していたのかは、身近に病気がちな人がいたからというのが一番の理由だったと思います。あとは、テレビドラマとか漫画の影響も多少あったかもしれません。ブラックジャックとか、もうかなり古いドラマですが、脳外科医が主人公だったベンケーシーというドラマが好きでよく見ていました。まだ医学部に入っていない時期でしたが、そのころから何となく外科が面白そうだなと思っていて外科医になろうと決めていました。
大学時代は、どんな風に過ごしていましたか?
大学ではボート部と障害を持った子供と関わる医療系サークルの2つに所属していました。
東大のボート部というのは、本当に厳しい部活で、肉体的にも精神的にも強くならないと続けられませんでした。
なぜボート部に所属してしまったかというと、かつて父親もボートを漕いでいたからです。中学、高校の頃は、父親とはろくに口もきいていなかったのですが、その父が「東大のボート部は、全日本でも優勝するくらい強くていいじゃないか。」などと言ってきたので、まったく考えてもいなかったのに「それなら試しにボート部を覗いてみるか」なんて思ってしまったのが運の尽きでした。医学部(鉄門と言います)のボート部に入ったつもりが、途中からは全学のボート部と一緒になっていました。
当時の東大のボート部は全日本選手権で4連覇していた黄金時代で、本当に体育会系でピリピリした厳しい雰囲気でした。他大学の選手が東大のボートが来ると威圧感があるのか、道を明けてくれるような感じでした。
ボートというのはチームプレーで、目標を決めてみんなで取り組むスポーツです。ストイックな環境で、確かに厳しくて大変なところでしたが、心も体も鍛えられました。今から思えばそれはとてもいいことだったので、杏林の学生にも何かにつけてボート部でなくても、何かサークル活動をした方がいいと言っています。
それから、医療サークルで障害を持った子供を支えるボランティアもしました。ボート部の合間に活動する感じでしたが、勉強と運動だけではなく、もっといろいろなことを学んだ方がよいと思っていたので。バザーの支援をしたり、一緒に夏のキャンプへ行ったりして、とても社会勉強になりました。
脳外科を専門に選んだ理由とその魅力を教えてください。
医学部の6年生までは、消化器外科か心臓外科に進もうと思っていました。けれども、実習などでいろいろな先生方の脳外科の手術を見て、自分に合っている科は脳外科だと感じました。実際に脳外科医になった後も、イメージの違いはなくて、何の疑問もなく脳外科医を続けてきました。その頃の指導者は、昭和ひと桁生まれや戦中派の方々で、昔の日本的スパルタ教育でした。当直も2日に1回はしていましたが、脳外科を選んだ同級生7人も、みんなそれが当たり前だと思っていました。今は違うかもしれませんが、当時はそのような感じでした。
脳外科の魅力というと、脳というのはとても綺麗で美しくて、神秘的です。手術をやるたびに、いつも新鮮な感動が生まれます。それから脳外科医は、救急もやれば、術前・術後の管理から、患者さんの社会復帰に向けてケースワーカーのような業務までやらなければなりません。技術も必要ですがまさしく全人的な医療です。患者さんの人生を手術するという気迫を持って、いつも手術に臨んでいます。
私は生まれ変わっても脳外科医になりたいです。それくらい好きですし、いつもそのように話しています。仕事として大変なこともありますけれど、よくなれば患者さんが元気になるし、命が懸かった仕事なのでストレスもありますが、やりがいがあります。
私自身の結婚式で、仲人をお願いした当時の東大教授から、スピーチでどのように紹介してもらいたいかと尋ねられて、「趣味は脳外科でお願いします。」と答えたところ、「新郎は変わった趣味をお持ちで・・・」と紹介されました。でも、最近は仕事が趣味というのはあまりよろしくないかと思い、顧問をしている杏林大学のボート部の試合を見に行ったりして、学生と触れ合うことも趣味の一つになっています。ボート部を見に行くのは、自分が昔やっていましたのでいい気分転換になります。たまにOB戦で漕がせてくれるときもあります。まぁ、今となっては体に良くないですけれどね。
今は外科医を目指す学生が少なくなっていますが、杏林大学病院ではいかがですか?
一般的に大学の外科教室というと、特殊な疾患に偏っているところもあると思うのですが、杏林大学の脳外科は昔から「common disease(よくある病気)」の診療に力を入れてきました。一般的な病気が診られるようになれば、複雑な病気にも対応できる基礎がきっちり身につきます。
そのため、我々の若手教育は脳外科1年生が最初に行う手術である穿頭術(脳に小さな穴を開ける手術)から、みんなで手術検討会を開いて、適切な場所に適切な方法で目的が達成できたかなど、ビデオ記録を見ながら検討する場を持っています。こういうことを行っている大学病院は少ないと思います。特定の病気を集めて、特殊な症例が経験できるというのも外科教室の売り出し方の一つかもしれませんが、私たちは基礎を大切にしています。
基礎の習得を重視する杏林脳外科で研修を受ければ、確かな技術を持って、どのようなものにも立ち向かっていける「侍(さむらい)」になれます。技術面では、穿頭術も開頭術も基本的なことから複雑なものまであるのですが、普通のことが確実にできるようになります。そうすれば、待ったなしで来院される頭部外傷や脳卒中など、どんな病気にもきちんと対応できるようになります。
このように、杏林では手術技術がしっかり身に付く教育を重視しているためでしょうか、今は外科医を目指す人が少ない中で、杏林大学病院の脳神経外科には毎年2〜3人の若手がコンスタントに入ってくれています。
若手が入るのは活気が保たれるのでとても重要なことです。われわれは若手のリクルートにも力を入れていており、リクルート資料としても毎年年報を作って関連施設に配布しています。診療科の紹介や実績だけではなく、院内・院外を問わず多くの医師からの寄稿も掲載しています。中にはプライベートな話で「子どもが生まれました」とか「専門医を取りました」などの話が掲載されています。納涼会について書いた人もいて、脳外科の雰囲気を感じてもらえる内容になっていると思います。
今は外科医に厳しい時代だと思います。昔はあった、おおらかさや寛容さというのが世の中に少なくなってきました。誰にでも最初の1例目の手術というものがあります。飛行機のパイロットだって料理の板前だって同じです。少しずつ練習しながらうまくなります。杏林の脳外科は若者にリスクを負わせず、患者さんにも安全な教育を指導者が徹底して行っています。杏林の若手教育は、しっかりと手順を示して、基本から教えていく、できたら褒めるという方式で教育をしています。
学生さんと話をしていると、脳外科はおもしろそうだけれどいざ自分でやるのはちょっと、という話をときに聞くことがあります。いろいろと工夫をして、これからも脳神経外科の素晴らしさを、ひとりでも多くの若者に知ってもらえるように努力していきたいと思っています。
杏林大学病院では脳卒中センターも立ち上がり、現在は様々な脳神経疾患をカバーできますが、杏林大学の脳神経外科の特徴を教えてください。
杏林大学の脳神経外科では、脳卒中と脳腫瘍の2本柱の診療体制を確立しました。
脳卒中には2種類あって、脳内出血やくも膜下出血などの血管が切れる「出血性脳卒中」と、脳梗塞や脳血栓などの血管が詰まる「虚血性脳卒中」があります。「出血性脳卒中」は、私が専門としている脳動脈瘤や脳動静脈奇形など、これまで全ての患者さんを脳神経外科が治療していたのですが、脳卒中センターができたおかげで「虚血性脳卒中」にも対応できるようになりました。いままでは「脳卒中の外科治療をする杏林」でしたが、今は「あらゆる脳卒中を治療できる杏林」となっています。
脳神経外科は脳腫瘍の分野にも力を入れています。私のもうひとつの専門である良性脳腫瘍は、手術で切除しなければいけない疾病です。手術に際しては、術者の技術が著明に現れるので手術を安全に進める様々な工夫をして治療を行っています。悪性脳腫瘍は准教授の永根先生が担当しています。悪性脳腫瘍は脳に染み込むように腫瘍が発生するので、手術では取りきれません。手術後に放射線や薬物治療が必要となります。外科医は、ともすると手術に走ってしまい、術後は系統立てて最新の知識で診療するのは難しいと言われているのですが、永根先生は腫瘍に関する幅広い知識を持っており、今では多摩地区の他病院で手術を受けた患者さんも、多数杏林の脳神経外科で治療しています。
このように脳疾患治療について杏林大学病院は、しばしばマスコミにも取り上げられており、全国の中で質も量も高く評価されてきていると思います。
また外来の特徴として、患者さんに病気のことをよく知っていただけるよう脳卒中の病状を、わかり易くまとめた冊子を作って配布しています。青い表紙の冊子が「くも膜下出血の予防のために−未破裂脳動脈瘤の治療について」、赤が「くも膜下出血について−破裂脳動脈瘤の治療」、緑が「脳梗塞について−脳梗塞の診断・治療・予防」、黄色が「脳内出血−脳内出血の治療」です。患者さんに病気のことを理解いただく手段として好評で、外来の診療時間をより有意義に使えるよう工夫をしています。
医師になって嬉しかったことは?
私はCTスキャンが出来た頃に医師になりました。その後のテクノロージーの進化はめざましく、自分が脳外科医として向上するのと合わせるようにどんどん新しいことがわかってきました。それまで行っていた患者さんに辛い検査もなくなってくるなど、医学と技術の進歩の真っ只中にいました。それを感じられたのはよかったと思っています。
期せずして「学校の先生」(医学生の指導や、医学部の授業で教鞭も執っていますので)になりましたが、当初は戸惑いもあったものの、若者が成長しているのを感じられるときもうれしいです。教育はジョウロで砂漠に水をまく感じで、いつ芽が出るかわかりません。自分がこんなに教育にエネルギーを注ぐようになるとは思いませんでしたが、杏林にきて教育の大切さを知りました。脳外科に入った若者が、いつの間にか「こんな手術ができるようになったのか」という場面に直面すると、とてもうれしいです。
まだまだ私自身も発展途上人ですので、常に目標を掲げて生きています。自分も若者と同じく、自分自身が成長していると感じられるときがうれしいです。
もちろん、患者さんが元気になることもうれしいです。手術前は歩けなかった患者さんが歩いて外来に来られたり、長期間救急センターに入院されていた方が、元気になってお化粧をして外来受診をされたりすると医者冥利に尽きます。患者さんは大変ですけれど、私にとって外来はとても励みになります。
最後に、患者さんへのメッセージをどうぞ。
手術の説明をするときは、しっかりとそのリスクを説明した上で、「私がしっかりと手術を行います」という意思を込めて患者さんと握手をします。お子さんの手術をする場合は、親御さんに「自分の子どものつもりで手術をします」と伝えています。脳外科の手術は、非常にリスクの高い手術です。その方の人生そのものを手術しているつもりで、私は手術をしています。
お気に入りの写真を持ってきて欲しいと言われて、悩みました。病棟で「活躍」していた頃の写真が全く見当たらないので、今よりやせているという理由で、数年前の学会や医局での写真を選びました。
≪取材担当≫
企画運営室
広報・企画調査室
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