病院について当院のドクター紹介
人はそれぞれ感じ方が違います。一人一人と話して、接していくことが大切です。
今月は、3月より腫瘍内科の教授に就任し、がんセンターのセンター長も務める、腫瘍内科 古瀬純司教授の登場です。
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名前 古瀬 純司 (ふるせ じゅんじ) 血液型 O型 趣味 映画(最近は忙しくてDVDや海外出張した飛行機の中で見るのがほとんどです)。
読書(司馬遼太郎、筒井康孝などを読みます。ミステリーも好きで、浅井光彦シリーズも愛読しています)。
ジョギング(毎週日曜日には江戸川の河川敷を1時間少しかけて走っています。)専門 肝・胆・膵がん 外来日 月・木の午前中 所属 腫瘍内科 教授/がんセンター センター長 プロフィール 昭和31年 岐阜県に生まれ、長野県、北海道で育つ
昭和59年 千葉大学医学部卒業
平成4年 国立がんセンター東病院に勤務
平成11年 同院医長、平成13年から約1年間フィラデルフィア トーマスジェファーソン大学に留学
平成20年3月 杏林大学医学部教授就任し、現在に至る。
日本臨床腫瘍研究グループ(JCOG)の肝胆膵グループ代表も勤めている。
先生が、医師になろうと決めた理由を聞かせてください。
とにかく、何かの専門家になろうと思っていました。大学で学んだことがそのまま活かせるプロフェッショナルになりたいと。一時は文科系に進む道も考えていました。叔父に弁護士がいたので法学部に進学して弁護士になるとか、社会学的な専門家になろうと思いました。それから、作家になろうなんて夢をみたこともあります。趣味でも映画や読書を挙げましたが、物語が好きなんです。高校生の頃に仲間同士で小説のようなものを書いたこともありました。いろいろ考えた中で、医師になることを選んだ理由は高校の時に病気になって入院したことがきっかけでした。
その頃はなぜか病気が重なって3回も入院しました。1回は虫垂炎で入院したのですが、その時に病院のスタッフと会って医師という仕事を身近に見たことも医師を目指した理由の一つでした。けれど、一番の理由は、その次に入院したときに医師から何気なく言われた言葉にショックを受けたことが大きな理由でした。
虫垂炎の手術が終わって退院したのですが、体育の単位がぎりぎりになってしまい、何とか授業に出なくてはいけない状況でした。そのときの授業はサッカーで、走らなくてもすむゴールキーパーをやらせてもらったのですが、運悪くお腹を蹴られてしまい再び入院していた病院へ戻ることになってしまいました。その時に診察してくれた外科の先生から本当に何気なく「ああ、腎臓を取らなくて済んだな」と軽く言われました。私にとって、それはものすごくショックな言葉でした。「ひょっとして取らなきゃいけなかったのか」と思いました。2つある腎臓だからといって、臓器を取るなんて簡単なことではありません。そんなことを軽く言われてしまったことが、本当にショックでした。人はそれぞれ状況が違っていて、その人その人で受け取り方が違うもので、一人一人の話を聞いて接していくことが医療の現場では大切なのだと強く感じました。
大学時代で一番思い出に残っている出来事は?
大学時代は何かに打ち込んだりはあまりしなかったので、そこが今になっては残念に思うところですが、友達と過ごしていたのが思い出です。よく飲みに行ったり、旅行に行ったりしていました。特に旅行での一番の思い出は、坂本竜馬の軌跡を辿った旅が思い出深く残っています。私の好きな本に「竜馬がゆく」があります。当時、坂本竜馬がすごく好きでその本をよく読んでいたのですが、竜馬が辿ってきた軌跡を1 週間くらいかけて旅をしました。まずは京都からの出発で、寺田屋という竜馬が襲われた旅館に宿泊しました。その旅館は竜馬が泊まったそのままの部屋が残っており、歴史の跡を見ながらそこに一泊しました。その後は、竜馬の故郷である高知に行き、桂浜の竜馬像や武智半平太だの中岡新太郎だのを辿って室戸岬まで出ました。そして竜馬が活躍した長崎を旅して、最後は再び京都に戻ってお墓参りをしました。夏の本当に暑いお盆の時期で、今でも一番印象に残っているとてもよい旅の思い出です。
がん治療の専門医になろうと思ったきっかけは何ですか?
最初は内科か外科のどちらに進もうか悩んでいました。そんなときに、私が研修していた千葉大に肝臓を専門にしている奥田邦雄(おくだくにお)教授の第一内科がありました。当時その教室で助教授をされていた大藤正雄(おおとうまさお)先生の講義で、これまで外科手術でしか治せなかった肝がんがエタノール注入で治療できるようになったり、内視鏡で胆管結石を取り除けるようになったりと、内科でも外科的治療が出来るようになった、という話を聴いておもしろさを感じて内科に進みました。
私はもともと消化器内科に所属していて、血管造影カテーテルとか内視鏡が得意で行っていました。主に肝硬変を専門に診療していて、その中で肝臓がんも診る感じでした。けれど、ある日、大藤先生から「国立がんセンターに行って、がん治療の勉強をしてくるように」と勧められました。最初、自分は肝硬変を専門にしていてがん治療に直接携わっているわけではないので、知識もないのにいいものかと思いましたが、この際国立がんセンターなるものを見てみるのも面白いだとうと思い、飛び込みました。最初は全く違う世界で5年ももてばいいかと思っていましたが、結局15 年以上もいてしまいました。
国立がんセンターに行った頃は、有効な化学療法もなく、肝癌のエタノール注入やラジオ波焼灼療法も積極的に行っていました。数年経ってそのような内科的治療もスタンダードになってどこでもやれるようになってくると、やはり国立がんセンターでしかできないがん治療の専門医として新たなステップへ進もうと思いました。手術ができない、あるいは手術後に再発したときの治療は化学療法を行うわけですが、当時有効な抗がん剤もなく、まだまだ標準的な治療法がありませんでした。肝臓癌や膵臓癌は特に抗がん剤が効かないといわれていており、臨床試験を通じて有効な薬を見つけ出して行く、つまり治療法の有効性と安全性を科学的に立証していくMedical Oncology という世界に入り始めたのですが、それが非常に面白く感じました。ラジオ波など自分の技術を磨いてひとりひとりの患者さんにその技術が活かせることもうれしいし、ひとつの医者のあり方と思っていますが、ある治療法を科学的に開発・検証して日本や世界の医師が基本とする治療のスタンダードを築いていく面白さに夢中になったという感じです。この数年、化学療法が難しいとされる肝臓癌や膵臓癌でも有効な薬が出てきつつあります。
私が杏林に来たのは、国立がんセンターである程度仕事ができて、今度はがん治療のスタイルを地域に密着した杏林大学病院でも確立したいと思ったからです。
フィラデルフィアに留学されたと伺いましたが、留学先で学んだことや街の様子を教えてください。
最新情報はアメリカから発信されることが多く、医療においても、アメリカは先進的です。アメリカの医療現場のシステムはどうなっているのか、医者達は何を考えているのかを見てみたくて留学を決めました。
けれど、私が渡米を予定していたときはとても大変な時期にあったってしまいました。その頃のことは、今でも忘れはしません。2001年9月20日に渡米する予定でした。当時務めていた病院で、9月11日に壮行会を開いてくれたのですが、その帰りにタクシーの中で聞いたラジオから「アメリカで何か起こったらしい」ということがわかりました。その日に同時多発テロが起こっていたのです。本当に驚きました。飛行機は飛ばなくて、不要な渡米は控えるようにとの通達も来て、本当に行けるかどうかわからない状態だったのですが、思い切って9 月終わりに飛んでしまいました。でも、飛行機のシートはがらがらで、乗客はほんのわずかでした。
フィラデルフィアはアメリカが独立を宣言した場所で、のちに憲法も制定された街です。独立宣言の時に鳴り響いた自由の鐘があるのですが、その様なところも次第にセキュリティが厳しくなって、なかなか観光が出来なくなっていきました。今考えると、よくそのような時期に渡米したなぁと思ってしまいます。
留学先の大学では放射線科やメディカルオンコロジー(腫瘍内科)のグループなどで学びました。アメリカの医療は、内視鏡医だったら内視鏡治療だけ、外科医は手術しかしないなど、自分の担当する分野しか診察をしないと聞いていたのですが、それはちょっとニュアンスが違いました。がん手術後に化学療法が必要になったら、外科医にプラスして化学療法の医者が加わるなど、患者さんの治療が進むごとに、医者や医療スタッフがどんどん増えて、皆で診察をしていく感じでした。がん治療における異業種間のチーム医療が確立されていて、そのスタイルに、学ぶべきものが多くありました。アメリカのスタッフは頼まれたら嫌とは言いません。何事にもポジティブで、よくディスカッションをしていました。それもチーム医療を作るうえで大切な要素だと学びました。
留学はとても勉強になったのですが、ただ見ているだけというのはかなりフラストレーションが溜まりました。アメリカでは、何も言わなければ何もしてくれません。けれど、自分が「何を見たい」と言えば見学させてくれて、「プレゼンテーションをしたい」といえば、その機会を与えてくれます。アメリカは何でも皆に平等なわけではなく、平等にチャンスが得られる環境で、そのチャンスを生かすのは自分の意思次第でした。
なので、自分が何も言わなければ時間に余裕もありました。そんなときは、映画「ロッキー」の舞台になったことで有名な、フィラデルフィアのミュージアムで絵を見たり、オーケストラのホールでクラシックの生演奏を聞いたり、ニューヨークやボストンなども近いのでそこまで旅をしてみたりと、いろいろな経験をしました。
フィラデルフィアは、「ロッキー」だけではなく多くの映画の舞台になっています。トムハンクス主演の「フィラデルフィア」とか、最近では「シックスセンス」の舞台にもなりました。映画を見ていると知っている街の景色が映るので、それを見るのも楽しみのひとつです。
がん治療の現場での、何か心に残るようなエピソードがあったら教えてください。
患者さんの病気がよくなっていって、患者さんと一緒に喜べるのがやっぱりうれしいことです。素直にうれしいと思えます。ただ、がんという病気は皆さんもご存知のとおり、必ずよくなると決まっている病気ではありません。これはある患者さんから聞いた言葉ですが、「これまでは、『いつかやりたい』と思ったことを先延ばしにしてきたけれど、こうなった以上は『やれるうちにやりたいことをやろう』と思うようになりました。これは“時間を大切にしなさい“という神様がくれたお告げだと思っています。」とお話されていました。似たようなお話をされる方もいらっしゃいます。誰でも悪いニュースを聞いたら落ち込むものです。私だってそうです。それなのに、長く抗がん剤治療を続けて大変な思いをされているのに、そのように思えることは、その方の意志の強さでもあるし、本当にすばらしい心を持った人だと思いました。またそれを聞いて、人それぞれで思い方や感じ方が違うのだと改めて思いました。
がんセンターの組織のひとつである「がん相談支援センター」はどのようなところでしょうか。
がん患者さんの治療では、病気を告げることががん治療をしている医師にとって本当に難しいことです。患者さんの中には、知人にはもちろん家族にも知らせないで欲しいと思う方や、逆に自分自身に告知をしないで欲しいと思う方など、人それぞれです。そこには個々のキャラクターや社会的背景も関係してきます。
日本には、まだまだ不安なことや、辛いことなど、心の弱さを相談する場所が多くありません。けれど、そのニーズはものすごくあります。ちょっとした話が気軽に出来たり、身近に相談できる場所があったら、随分違うと思います。がんセンターには、杏林の患者さんに限らずがん患者さんやご家族からの相談を受け付けるがん相談支援センターがあり、専門のスタッフがお話を伺っています。今はまだ病院の一室が相談室になっていますが、いつかは、きれいなオフィスのような部屋で、スタッフもユニフォームを着ずに病院らしさを感じさせない空間を演出して、もっと気軽な思いで立ち寄ってもらえるような相談室がいいなぁ思っています。
杏林に来られて5ヶ月になりますが、杏林大学病院について思うことや期待することはありますか?
大学病院は各診療科の垣根が高いというイメージがありましたが、杏林大学病院はそんな大学病院のイメージとは違っていました。垣根がまったく無いというのではなく、ざっくばらんに何でも相談できて集まることができます。みんなが目標を持っていて、なおかつ横の連携が強くあります。
がんの患者さんは、がんの病気だけをもっているとは限りません。糖尿病もあったり、高血圧もあったりと複数の病気を抱えていることが多くあります。がん治療だけではなく、他の診療科と一緒に総合的に患者さんの病気を診て、治療をすることが大切です。杏林大学病院は、それが実現できる土俵ができています。診療科の連携のよさをこれからも伸ばして、新たに出来たがんセンターを器にして、各診療科それぞれががんセンターをうまく利用して、病院全体で力をあわせてがん治療に取り組んでいきたいと思っています。
今、消化器外科の先生方と化学療法のカンファレンスを週1回やっています。私の得意分野からと思い、実際の診療に関わっているところです。消化器癌に関わらず相談したい症例があればどうぞ参加してください。
それでは、最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします。
何でも思っていることを言ってください。心配なこと、うれしいこと、不安なこと。お互いの相互理解のもとに、信頼関係は生まれます。医師は、医師である前に社会人です。患者さんも社会人です。社会人同士、大人同士、良い関係を築くことがいい医療を作ると思います。
座右の銘
Where there’s a will, there’s a way.
意志あるところに、道は開ける。
意志を持って進んでいれば、必ず道は開けてきます。
≪取材担当≫
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