当院のドクター紹介

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※毎月更新予定

今月のドクター紹介一覧

杏林はスタッフのチームワークがいい。それを活かして良い医療を作りたい。

今月は、杏林大学病院の産科・婦人科を支える、岩下光利教授のご紹介です。

岩下 光利
名前 岩下 光利 (いわした みつとし)
年齢・血液型 57歳(昭和25年12月27日生まれ)・O型
趣味 ドライブ(車好きで、昔はよく遠出をしていました。最近は郊外を回って景色を見て楽しんでいます。)
映画(主にSFが好きです。最近はハンコックを見に行きました。)
ガーデニング(緑を買ってきて庭に植えたりしています。)
専門 周産期医学、生殖内分泌学
外来日 火曜・金曜の午前中
所属 産科婦人科教授
プロフィール 昭和25年 神奈川県横浜市に生まれる。
昭和50年慶應義塾大学医学部卒業。南カリフォルニア大学医学部産婦人科、米国国立衛生研究所(NIH)留学後、昭和59年 東京女子医科大学母子総合医療センター講師、平成4年同助教授、平成8年同教授、平成11年より杏林大学医学部産科婦人科教授、現在に至る。

日本産科婦人科学会 常務理事、日本周産期・新生児医学会 理事、日本母性衛生学会 理事、日本産科婦人科内視鏡学会 理事、日本生殖外科学会 理事、日本受精着床学会 理事、日本生殖内分泌学会 理事、日本胎盤学会 理事、日本産科婦人科栄養・代謝研究会 理事。
厚生労働省社会保障審議会 専門委員、日本医学会医学用語委員会 委員、日本専門医認定制機構 委員、東京都地域医療対策協議会 委員、医薬品医療機器総合機構 専門委員。

幼少時代はどこで過ごされたのですか?
生まれは横浜市の中区ですが、父の仕事の関係で生まれてすぐに長野県茅野市に移りました。私の父も産婦人科医をしていましたので、大学病院関連の出張病院に異動するごとに引越しをしていました。茅野市での記憶はほとんど無くて、その後に引っ越した相模湖近くの藤野というところで3歳から5歳まで過ごした思い出が一番残っています。藤野は相模湖駅から一つ山梨よりにある駅で、湖と山に囲まれている自然あふれる町でした。小さい頃は藤野の山で虫取りをしたり、川で泳いで魚を取ったりと、相模湖の自然の中で過ごしていました。

私の父が産婦人科医という話をしましたが、私は病院ではなく自宅で生まれました。母が重い漬物石を持ち上げたとたんに破水してしまい、予定日より1月も早く生まれてしまいました。父が急いで自分の病院に分娩に必要な医療器具を取りにいっている間に生まれてしまったということで、まさに自然分娩で産婦人科医の世話にはならない出産だったそうです。

お父様が医師だったということは、先生も小さな頃から医師になりたいと思っていたのでしょうか。
父の勤務を見ていて、物心つくころから医者だけにはなりたくないと思っていました。中学・高校の頃は科学者になることを夢みていました。真実を見つけられるという興奮や、世界中で自分しか知らない自然の秘密を解き明かすということにとても魅力を感じていました。中学生の頃から研究者になりたくて大学生用の科学の教科書を読み漁っていたのですが、当時は原子物理学とか理論物理学、天文学に興味を持っていました。けれど色々な本を読んでいるうちに、今度は生物学に興味が出てきて分子生物学に夢中になりました。私は慶應の高等部にいたので、大学では慶應医学部で分子生物学を学ぼうと思うようになり、父が産婦人科医だったことも影響してか、いつしか卵から固体が発生する発生学に興味を持つようになりました。結局、産婦人科であれば発生学が勉強できるだろうということで、いつの間にか父と同じように産婦人科医になっていました。

慶応大学の医学部に進まれて、どのような学生生活を送っていたのですか?
高校まで科学に興味を持つような内気な子供だったのですが、大学ではいろいろなことに挑戦したくなって空手部に入部しました。組み手で相手を拳で突いたり、攻撃を避ける練習をしたり、巻き藁に打ち込んで手が血だらけになったりと、これまでとは一転して体育会の世界に入りました。夏合宿も早朝から稽古があって、とても厳しい練習でした。東医体(東日本医科学生総合体育大会)の試合にも出たことがあります。空手は相手の顔を攻撃するのは反則になるのですが、試合で対戦相手からおもいっきり顔を殴られてしまったことがあって、反則でこちらが勝ったのですがとても痛かったのを覚えています。

高学年になると今度は車に興味をもつようになりました。医者になってすぐに親のすねをかじって車を買い、月に1度は伊豆や山梨まで走りに行っていました。私も憧れていたのですが、当時はスーパーカーが大人気で、小学生の男の子まで夢中になる時代でした。そんなとき、車好きの友人達と、小学生を集めてチャリティーショーを開催したことがありました。スーパーカーばかりを集めて、筑波サーキットで模擬レースのようなことをしました。観客は全員子供です。そこで集まったお金を孤児院に寄付したのですが、結構な額が集まりました。

筑波サーキットで模擬レースをしたときの写真です。

産婦人科医になって、まず思ったことや感じたことは何でしょうか?
とにかく「大変」でした。夜中に呼び出されて家を出て行く父の姿を見ていたので、産婦人科医にだけはなりたくないと思っていたのですが、結局同じ道に進んでしまいその大変さを実感しました。お産は24時間いつ起こるかわからないので、徹夜に慣れる必要もありました。当時は今の研修医制度と異なって大多数は卒業した大学で研修をするのですが、私の場合「医者は臨床の腕をつけなければ駄目だ」という父の言葉もあって、分娩の多い病院で研修することを希望しました。そこは年間2000件ほど分娩がある病院で、3年間臨床の勉強をしました。当時とは出生率が違うのですが、今の杏林では分娩が年間900件程ですので、その病院は杏林の2倍以上の分娩数があったことになります。私が入職したその病院は、私を含めて1年目の産婦人科医が3名しかいなくて、3日に1回は当直がありました。当直では、多いと10人位の分娩があり、一睡も出来ずに翌日は一日中手術と、本当にハードな時期でした。3年間非常に厳しい環境で、臨床の腕を鍛えられました。でもその頃の経験が今でも自分の力になっていると思います。3年目を迎える頃、研究をやりたいという前からの希望が強くなり慶応大学に戻ることにしました。

3年間学んだ研修先の病院スタッフと。

慶応大学に戻って、高校生の時に夢みた研究者になったのですね。
大学に戻った後、3年間アメリカに留学をしました。1年目は南カリフォルニアにある大学で研究をして2年目からは2年間、ワシントンにある国立衛生研究所(NIH)に移りました。NIHは医学研究のメッカで、杏林大学の何倍もの敷地の中に40棟程の研究施設が建っており、ありとあらゆる医学研究がそこでは行なわれていて、5000もの研究室がありました。研究生活は、楽しいこともありましたが、厳しさも感じました。競争のある世界なので、自分がいくら一生懸命やってきた研究でも、ある日別の人が同じ研究内容を発表してしまったら自分がやってきたことはゼロなってしまいます。それから、研究では少しでも実験の条件が悪いと何百回行っても結果が出ません。試薬の量や温度など手探りで一つ一つ一番良い条件を探っていかなければならず、臨床とは違った苦労があります。しかし、自分の実験で次々に新しいデータが出だすと、これほど楽しいこともないのも事実です。  アメリカでの生活はとても素朴で健康的なものでした。週末には公園でバーバキューを友人や家族で楽しんだり、広大なキャンプ場の湖で釣りをしたりと、いくらでも自然のなかで人生を楽しむことが出来ました。 アメリカで研究をしていたころは臨床から離れていたので、帰国後久しぶりに臨床に携わったときは少し戸惑いました。アメリカでは中枢の内分泌学の研究をしていたのですが、赴任した大学病院では妊娠分娩を中心とした周産期医療に携わることになりました。ここでも、卒後研修を受けた病院での3年間の経験が大いに役立ち、若いうちの研修がいかに大事かを実感しました。

留学前に英語を教えに来てくれていた先生と大学で写した写真です。

◆ アメリカ留学時代の写真です。

産婦人科医になって、嬉しかったことや困ったことはありますか?
嬉しかったことは、やっぱり昔だったら生まれてすぐに亡くなったり、障害を残したであろう赤ちゃんが、周産期医学の進歩で、何の障害もなく家族の一員として家に帰れることです。お母さんやお父さんの幸せそうな顔を見ると、努力が報われた喜びを感じます。

困ったことというと、高校までは男子校でしたのであまり女性と接することも無く、女性といえば天使のようなかよわいイメージしかありませんでしたが、産婦人科医になって女性特有のたくましさを見るにつけ、自分の中にある女性に対するイメージが変わりつつあり、ますます女性の全体像を理解できなくなったことでしょうか。生物の基本はメスであり、「母は強し」が真実かもしれません。

杏林大学病院の産婦人科について思うことは?
杏林大学病院全般に言えることかもしれませんが、とてもチームワークが良く、スタッフ同士ファーストネームで呼び合ったり、家族みたいなつながりを持っています。仕事はきついですが、チームワークを活かして、これからもいい医療を行って行きたいと考えています。

それでは、最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします。
出来るだけ患者さんの気持ちに立って、病気や悩み事の相談にのってあげたいと思っています。患者さんも遠慮しないで悩みを話してください。 外来では、患者さんに「大変でしたね」とか「お待たせして申し訳ございません」とか、まず声をかけるように心がけています。そうすることで、患者さんも安心して悩みを話出してくれるように思います。医師と患者さんの間にいい関係を築くこと、それがいい医療の第一歩だと思います。

座右の銘

人は信念と共に若く  疑惑と共に老ゆる。

 人は自信と共に若く  恐怖と共に老ゆる。

  希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

サミュエル・ウルマンというアメリカの実業家の「青春」という詩の訳です。 気持ちを若く持って、常に希望と目標を持つと。そうすると人生に張りが出てきます。目標がないと、毎日毎日が、ただ過ぎるだけですからね。

岩下先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

≪取材担当≫
企画運営室
広報・企画調査室






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