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※毎月更新予定
今月は、熱い思いで患者さんの治療や学生指導にあたる、吉野秀朗教授の登場です。

| 名前 | 吉野 秀朗 (よしの ひであき) |
|---|---|
| 年齢・血液型 | 56歳(昭和27年9月23日生まれ)・A型 |
| 趣味 | 映画鑑賞
読書(主に歴史小説。司馬遼太郎、永井路子、黒岩重吾。ローマ史は塩野七生。中国ものは、宮城谷昌光) 剣道 |
| 専門 | 心臓疾病全般、特に虚血性心疾患(心筋梗塞、狭心症)、冠動脈疾患の診断と治療、急性大動脈解離の病態と解明 |
| 外来日 | 月・水曜日の午前・午後 |
| 所属 | 循環器内科教授 |
| プロフィール |
昭和52年慶應義塾大学医学部卒業 慶應義塾大学病院、済生会中央病院、足利赤十字病院、向島済生会病院を経て平成2年より杏林大学病院勤務 その間、昭和60年から62年の2年間米国ペンシルバニア州ガイジンガーホスピタル心臓研究所研究員 |
ご出身地である富山県婦負郡婦中町(ねいぐんふちゅうまち)での思い出を聞かせてください。
富山県婦負郡婦中町(町村合併により現在は富山市婦中町)は田んぼに囲まれた村で、祖父母はそこで農業を営んでいました。私も幼少時は稲刈りや田植えの手伝いをしました。稲刈りが終った田んぼは子ども達の格好の遊び場になり、私はよく野球をしました。缶けりやかくれんぼもその頃よくした遊びです。農村の集落全体に亘って隠れるので鬼になったら終いには泣きながら探すか、嫌になってやめてしまうか、大変なかくれんぼでした。冬になると一晩で1mの積雪があるので、庭に滑り台を作りスキージャンプをしたり、土手から川原へすべり降りたりと、クロスカントリースキーはお手の物でしたが、大学生になるまで一度もスキー場に行ったことはありませんでした。洗練されたスキーヤーではありませんが、雪の扱いには慣れているので安定した滑りができると自負しているところです。
ご両親は教師をされていた中で、医師を目指したきっかけは何でしょうか?
婦負郡婦中町には2人の開業医がいました。今は丈夫な私ですが、子どものころはよく体調を崩すことがあって、その先生方のおかげで命拾いをしたこともあったそうです。その先生方への感謝と尊敬の思いから中学生の頃には医師になりたいと思っていました。
そんな矢先、その2人の先生方が立て続けに亡くなり、婦中町が一時的に無医村になりました。医師のいない不便さ、不安を経験したことが医者になろうという思いを確固たるものにしたと思います。(その後は、2人の先生方のご子息がそれぞれ医院の後を継いでいらっしゃいます。)
身近にあった職業モデルは医者と教師でしたので、両親のような学校の先生に憧れていたときもありました。今、杏林大学で医学生の授業を持っていますから、教師という夢も叶ったのではないかと思っています。
一番思い出に残っている学生時代はいつですか?
どの時代もそれぞれ思い出深いのですが…母校である富山大学附属中学校は自由な校風で、生徒の運営による生徒会を中心として、学校生活の多くのことを自分達で考える学校でした。ディスカッションが盛んだったので、それぞれが自分の意見を持ち話し合う姿勢が、しっかりと身に付きました。ひたむきな生徒会活動を通じて、その頃の友人とは絆が深く今でも交流があります。(糖尿病・内分泌・代謝内科の石田均教授は富大附中の1学年下の後輩です。杏林に来てミニ同窓会ができるとは思わなかったので嬉しいです。)
高校は県立富山高校の理数科クラスに進みました。当時、全国で理科学系教育を推進しようという文部省の取組みがあり、その一環で富山高校に理数科クラスができたので、私はその1期生でした。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんの富山での講演会に、学校の禁止を振り切り授業をエスケープして出かけていったことを思い出します。「理科系進学クラスの自分たちが行かずに誰が行く!」という思いでした。クラスに残ったのは3人だけでした。
富山高校は共学なのに理数科クラスは男ばかりのクラスでした。隣のクラスの女子生徒がきれいな花を活けてくれたかと思えば、夕方には花瓶が割れている。私たちのクラスの前を通らずにわざわざ階段を下りて廊下を渡る女の子が多くて、共学とはいえ女の子との出会いのない高校時代でした(笑)。
循環器を専門に選んだ理由は?
ずばり、「尊敬するすばらしい先生がいた」からです。
専門を決めたのは医者になって6年目でした。それまでの5年間は心臓カテーテル検査ばかりでなく脳血管撮影や胃内視鏡など、診療科にとらわれない内科的な治療をたくさん学びました。もともと体をトータルで診療し、救急対応も出来る循環器内科に興味があったのも事実ですが、循環器内科に憧れの先生がいて、最終的に専門を決めました。その先生と一緒にいられたのは、医者になった1年目だけなのですが、循環器だけではなく、いろいろなことをよくご存知で、オールラウンドでどんな症例にも対応できる人でした。自分もそんな医者になりたいと、心底憧れました。
学生時代は外科系が好きだったので、臨床実習では一番に手を上げてよく手術に入らせてもらっていました。子どもが好きだったので小児科も考えていました。でも、なぜ内科を選んだかというと、「やっぱり基本を勉強しなきゃいかんな」と思ったからです。基本的な部分をしっかり身につけなければと思ったんですね。学生のときに参加していた文系のクラブでは、トータルで患者を診よう、住民一人ひとりの生活現場で「自分の健康は自分で守る」ことを援助しようという「包括医療」の実現を目指す活動をしていたので、その影響もありました。尊敬する内科の先輩ドクター2人からも勧められ、その人たちのようになりたいという思いも強かったですね。
強い影響を及ぼす人との出会い、やってみたいと思うこととの巡り合い、そして実際にやってみようと決心することが大切だと思います。何かを始めた最初の数年間の出会いは、生涯を通じて重要なものになります。
先生が「これをやってみたい!」と思った出会いを教えてください。
慶應大学で研究をしていた時の先輩が、「自分がやりたいと思うことをテーマにしろ。そうすれば、超えられない壁はない。」と教えてくれました。研究にはいろんな道具が必要になりますが、道具があるから研究をしようというのではなくて、自分がやりたいことをやるためには、何の道具が必要かと考えればいいのだと。
私の研究テーマは虚血性心疾患でした。心臓の筋肉が酸素不足になったらどういうことが起こるのか、酸素不足が起こったときにどうしたら障害を減らして元に戻せるかという研究です。
具体的には、動物の心臓の血管を縛って心臓に血液が流れないようにし、心臓の筋肉の中ではどんなことが起こるのか、それを秒単位、分単位で見る実験でした。
当時、このような研究は世界でも少しずつ始まっていたのですが、心臓の研究分野では、画像を用いて二次元的に表現するという方法や道具がまだ開発されていませんでした。私の先輩医師はそのような状況の中で、工夫して努力し続けた結果、世界で誰も作ったことのない心臓の画像を作ってしまいました。その現場に私は居合わせることができて、その研究を途中からお手伝いしたのです。しかし、誰も見たことがない画像データなので、それが本当に正しいのかどうかが分かりません。それを証明するため、「今から行こう」という先輩と一緒に日帰りで冬の北海道まで行って、医学とは違う研究グループに結果を見てもらい、「これは正しい」と言ってもらいました。それで、研究を発表しようと決まりました。もう楽しくて仕方がなかったです。
こうして結果を出すまでには4年間かかりました。そんな発想をしている人は誰もいなかったので、はじめは誰からも相手にされなかったのですが、私の先輩医師は全て一から手作りで行い、そして成功しました。世界で初めての発見で、それは感動的でした。あのときの経験は、生涯忘れません。そのような経験があるからこそ、壁に突き当たってもなんとかなるのではかと思います。
杏林大学病院に思うことはありますか?
私が杏林に赴任したての頃に一つ思い出があります。
まだ若い頃で救急を任されていたときに、患者さんの容態が悪化したことがありました。その時、現在、杏林学園の理事長になっておられる松田博青先生が救急センター長をされていて、若手医師である私の側でずっとフォローしてくださいました。なかなか私の上司と連絡がつかず、困っている私を最初から最後まで支えてくださったことがとても印象に残っています。どう対応しようか迷っていて、恐怖心もあったのですが、その時、松田先生は「怖いときこそ前に出ろ」と背中を押してくださいました。あのときのことに今でも感謝しています。
それから、これは学生に対するアドバイスかもしれませんが、既成概念に囚われずもっと自分を信じて力を試して欲しいと思います。世界中の人と交流して、ディスカッションをして見識を広げてください。そうすると、まったく違う世界が広がります。その手段の一つが、学会や研究会への参加です。都内で開催される研究会はたくさんありますが、そうした研究会に苦労なく行くことが出来るのは東京にある大学のメリットです。それをもっと活かしてください。私たち指導者側も、若者にそういう機会を利用しやすい環境を作ることが大切だとも思います。
杏林大学の医師は、患者さんにやさしい人が多いです。おそらく、親御さんたちに医師が多く、その背中を見て育ち、それを受け継いで医師を目指してきた人たちが多いからだろうと思います。ぜひ、自分の親にならどうするかと考えながら、患者さんの診療にあたって頂きたいと思います。
それでは最後になりますが、患者さんへのメッセージをどうぞ。
私は患者さんにとても感謝しています。患者さんの命を救いたいと思って医者になったのですが、毎日の診療の中で自分を助けてくれているのは患者さんです。教科書に書いてあることや教わったことは自分の知識としてありますが、実際に患者さんから教わることは経験になっています。
医者になって1年目の時に採血担当になったのですが、教科書どおりにやってもそれはうまくいくものではありません。何度も失敗して「何回も刺してすみません」と言いながら経験させてもらいました。もちろん、患者さんから怒られることもあります。それでもじっと我慢して、痛いのを耐えてくれている患者さんがたくさんいます。8ヶ月が経った頃には、どんな箇所からでも採血できるようになりました。それは患者さんのおかげです。「先生うまくなったねぇ」と言ってくれる患者さんもいました。そういう患者さんのおかげで、私たちは医者をやっていくことができるのです。
正直に言って、医者をしていると「しまった」という経験が幾度かあります。でも、その経験があって患者さんに助けられながら、役に立つ医者になれると思います。医者の成長をぐっと耐えて見守ってくださる患者さんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。だから、私も一生懸命患者さんの命と健康は守ります。技術と生死を学ぶには、患者さんに24時間付き添う気持ちが必要です。医師は臨床現場で育てられます。臨床現場にいない医者はよい医者にはなれません。医師は24時間医師です。私は医師免許を額に貼り付け、24時間医者であることのプライドを持って、患者さんの治療に当たりたいと思います。
私たちが治せる病気は限られており、懸命に治療しても治せないことがあります。それでも、最後まで一緒に付き添ってあげたい。そのような医師でありたいと思います。
座右の銘
努力して、後悔せず。
≪取材担当≫
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