当院のドクター紹介

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ドクター紹介詳細

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「子供は症状を伝えられない」というのは誤解です。子供は正直です。

12人目のドクターは、小児医療における臨床と研究に尽力している小児科の楊國昌教授です。

楊 國昌
名前 楊 國昌 (やん くにまさ)
年齢・血液型 53歳(昭和31年1月20日生まれ)・O型
趣味 クラシック鑑賞:クラシックはどれも好きですが、中学生のころから好きだったのがドヴォルザーグです。特に交響曲第9番「新世界より」が好きです。まさに、新しい世界の到来を感ずることができます。
絵画鑑賞:モネの絵が一番安心できます。モネの光の描き方が美しく、観ると元気になります。
昨年パリのオランジェリー美術館で、モネの絵を見てきました。
リタイアしたら、人生最後の趣味としてピアノと油絵を習ってみたいと思っています。そんな時間はないかもしれませんが・・・
専門 小児科学一般、腎臓病学
外来日 火曜日と金曜日の午前
木曜日の午後(腎臓外来)
所属 小児科教授
プロフィール 昭和31年 秋田県能代市に生まれる。
昭和55年杏林大学医学部卒業後、杏林大学医学部小児科にて研修。昭和57年 社会福祉法人賛育会病院小児科医員、昭和63年社会福祉法人三井記念病院小児科医員、平成5年 杏林大学医学部小児科学講座助手・病棟医長、平成 7 年杏林大学医学部小児科学専任講師を務め、平成 12 年カロリンスカ研究所招請教授(Division of Matrix Biology, Dept. of Medical Biochemistry and Biophysics, Prof. Karl Tryggvason) 平成 14 年杏林大学医学部小児科学助教授、平成20年より同教授 現在に至る。

先生は、なぜ医師になろうと思ったのですか?
 私の父が医者でしたので、なんとなく医者になるのだろうという考えでした。
父は中国北京の生まれでした。日清戦争後から中国から大量の留学生が日本へやってくるようになり、その中に医学の留学生も入っていました。医学留学生で代表的な人物は魯迅などですが、私の父も国費留学で日本にやってきたのです。父は岩手医科大学で学んでいたのですが、留学途中に第2次世界大戦が始まり日本に留学している人への国費がストップされたそうです。しかし父は留学を続け、大変な苦労をして医師になりました。苦労して医師になった人でしたから、私たち兄弟にはとても厳しく、有無を言わさず「勉強しろ」と、それしか言いませんでした。父との会話はその一言しか覚えていません。
そのおかげか、兄も弟も医者になり、今は2人とも能代市で開業しています。何故か兄弟の中で最もできの悪かった私が、未だに大学に残り医師を続けています。

それでは、医師以外の職業は考えられなかったのですね。
 いいえ、医者以外にもなりたいものがあった時期がありました。
ひとつは、芸大に行って音楽の勉強をすることです。私は中学時代に吹奏楽部に入り、クラリネットを吹いていました。そのころからクラシックに興味を持ち、父に見つからないように勉強をする振りをしてこっそり聴いていました。ですから、父は私がクラシック好きということは知りません。趣味でもあげましたが、クラシックで一番好きなドヴォルザーグの交響曲第9番「新世界より」は、すべて暗譜しています。けれど、担任の先生に私の演奏を聴いてもらったところ「君には才能がない、プロにはなれない」とはっきり言われて潔く諦めました。

それから、国語教師になりたかったこともあります。高校の教師にとても話の上手な国語の先生がいて、その人に影響されて「話をして教える仕事」というのもいいなと思っていました。もともと話をすることが好きでしたし。けれど、父が許すわけもなく、結局は医者しかないかなと思い医学部に入りました。
でも、杏林大学で学生の講義を担当していますが、私はなかなかうまく話すんですよ。学生からは「授業が面白い、わかりやすい」といってもらえます。その期待を裏切らないよう「わかりやすい授業」を心がけて、私もいろいろと努力をしています。

お父様は大変厳しい方だったのですね。お父様との思い出というと何が思い出されますか?
 本当に厳しくて怖い人でした。
父は質素な生活を求めた人でしたので、テレビや自転車を買ってもらえたのは学校の友達よりもずいぶん後になってからでした。家族旅行をしたこともありません。父との思い出というと、思い出されるのが学生時代の夏や冬休みに帰郷したときに必ず試験されたことです。
私が帰郷するごとに医学の問題を出してくるようになりました。間違えると怒られるので一生懸命勉強して帰りました。特に、父が皮膚科の医師だったので出してくる問題は皮膚科の範囲だろうといつも山をはって勉強していました。私にとって実家に帰ることはとても緊張することでした。
だけど、そのおかげでポリクリ(学生実習)で皮膚科を回っているとき、担当の教授から「君はすごく皮膚科の才能がある。絶対に皮膚科に入りなさい。」といわれたことがありました。

学生時代で一番思い出に残っているのは何ですか?
 一番はやはり大学時代にバレーボール部に入って、夢中になっていた時期のことですね。
兄が中学からバレー部だったので、私もずっとやりたいと思っていたのです。しかし、私が中学生のときにバレー部に入りたいと父に言うと「お前は心臓が悪いから駄目だ」といわれてどうしても許してくれませんでした。結局それは誤診だったのですが・・・。その時はバレー部をあきらめて吹奏楽部に入りました。

その後、東京で大学生になって父親の目も届かなくなったので、バレー部に入ってもばれないだろうと思い入部したのです。授業をサボって私一人だけでトレーニングをするくらいのめりこんでしまい、本当にバレーに燃えていました。ひたすらアタックする、守りではなく常に攻める、飛んで打つ快感がまさに私の気性にあっていたようです。兄もバレー部にいましたが、私が入るのと入れ替わりに辞めてしまいました。一緒にやるのが照れくさかったんでしょうね。部費や合宿代は、医師になり稼ぎ始めた兄が都合してくれるようになり、大変助かりました。また、私が4年生の時の東日本医科大学大会の会場は杏林の松田記念館でした。3回戦目が弟のいる秋田大学でした。私の打った強烈なアタックが、相手のブロッカーにシャットアウトされました。相手の顔を睨んだら、弟でした。結局試合は杏林が負けました。バレーボールは、我々3兄弟にとって、学生時代に渡った人生の共通の交差点としてとても意味のあるものでした。

杏林大学の卒業アルバムです。左側が私です。

これも卒業アルバムの写真です。1980年に医学部を卒業しました。

小児科医になった理由を教えてください。
候補として考えたのは皮膚科、小児科。そして小児外科でした。
皮膚科は父が皮膚科だったためですが、小児医療を候補にしたのは、ポリクリで体験した小児科実習で、子供が元気になって帰っていく姿を見てうれしさや、よかったなぁという達成感を感じていたことが理由です。その後、検討しているうちに全身を総合的に診断する診療科に惹かれ、小児科か小児外科に的を絞るようになりました。

最初は小児外科をやりたいと思うようになりました。性格的には外科向きなんじゃないかと思いますし。けれど、結局小児科にしたのは、これまた父が反対したからなんです。
父は、私たち3兄弟を能代に呼び戻して、4人で総合病院を作ることを夢みていました。小児外科は父の構想には入っていないということを私は知っていたので、最初「大人の外科医になろうと思う」と小児を隠して報告しました。そうすると父が「外科は駄目だ。お前は早く目が悪くなるはずだから手術がすぐに出来なくなるぞ」というのです。これも父が怖いので、結局「小児科医になる」と決めました。今は小児科でよかったと思っています。

医師になってうれしかった出来事は?
 うれしかった思いではたくさんあります。これまでで一番の思い出というと、15年前、私が杏林に帰ってきた翌年で、病棟医長を勤めていたときです。埼玉から送られてきた吐血患者さんがいました。小学校1年生の女の子で、すぐに診断がつき肝硬変でした。毎日毎日、血漿交換という治療を行ったのですが、当時人数が少なかった医局員が総出で一丸となって連日泊り込みで治療に当たっていました。

しかし、それは治る治療ではなく対症的なものでした。ひと月ほど続け、先が見えなくなってきたときに、当時杏林にいらした腎臓病学の北本清先生から「移植という手段も考えたほうがいい」とご意見いただいたのです。当時、まだ肝臓移植というのは一般的な治療でなく、私たち小児科スタッフの頭にはない考えでした。その提案をきいてはっとしました。そうか!と。そしてすぐに移植手術を行っている京都大学の田中紘一教授へ連絡をしたところ、すぐに連れてくるようにといっていただきました。しかし、搬送手段はヘリコプターしかありませんでした。しかし、縦割り行政の仕組みのため、東京から京都へ直行することが出来ないことがわかったのです。ところがそれを、東京都衛生局の方々が非常によく動いてくださり、東京消防庁は自治体の縦割りをうまくつないでくれて、なんとヘリが直行することが出来たのです。そして、無事に手術が終わり、その子は1ヵ月後杏林の小児科外来に歩いて来ました。その姿を見たときは、ものすごく感動しました。我々のしたことが実を結んだことがやっと実感できたと同時に、杏林大学小児科を大変誇りに思いました。

小児の患者さんは痛みやつらい症状が伝えられないので診療が難しいとよく言われますが、先生が苦労されたことを教えてください。
 それはよく言われることですが、実は誤解です。大人の方は不安がったり、気になることがあると、本当に痛いところ以外の部分も痛く感じてしまうことがあります。
けれど、子供や赤ちゃんは嘘をつけません。子供は正直で、本当に痛いところだけが痛いんです。大人よりもはるかに正直に症状が出てきますので、小児科ほどわかりやすい科はありません。確かに自分で伝えられないかもしれませんが、それはちゃんと患者さんを見ていれば小児科医には伝わるものです。

母校でもある、杏林大学病院について思うことは。
 そうですね、病院というよりも、医学生に対して思うことになってしまいますが。

私は杏林大学の5期生です。ちなみに兄は1期生です。当時の先輩や同期には勉強が嫌いな人も多かったのですが、その分とても個性が強くていろんなキャラクターの人がいて、とてもダイナミックな感じでした。けれど、ここ10数年は学生の個性が平均化されているというか、とてもおとなしい学生が多かったように思います。もう少し皆に志を高く持って、杏林ブランドを作ってほしいと思っています。
もちろん、杏林の学生さんには杏林大学病院で医師になってほしいと思いますが、ずっと杏林で成長するのではなく、外の病院に行き、外の釜の飯を食い、視野を広げて、そして杏林に戻ってきて後輩を指導して欲しいと常に思っています。
外を見ると視野が広がり、ものの見方が変わります。そうすると、隠れている個性も出てくるのではないかなと思っています。

しかし、最近になり本当は個性のある人が意外に多いのかもしれないと、思う出来事がありました。
医学部3年生から提案があり「ぬいぐるみ病院」という同好会が出来たのですが、私がその顧問になりました。ぬいぐるみ病院というのは、欧米から始まった学生のボランティア活動です。子供が注射や点滴をされるときは、押さえつけられたり非常に恐怖感がありますよね。それを、まず子供たちにぬいぐるみに採血や点滴をしてもらいます。そして「はい、今度は君の番だね」と、要するに、医者と子供とのコミュニケーションがうまくいくようにして、色々な治療に対して恐怖感を与えないようにしようという試みなのです。これは世界的な規模で始まっていて、日本でも少しずつ広がっているそうです。私は知らなかったので、このことから杏林の学生はいろいろなことを考えていて、目的をはっきり持っているのだなと思うようになりました。

今の教育システムや環境は、学生と教員の間に溝があり、昔に比べると関係が浅いように思います。そのため、私たち教員は学生がおとなしいと感じているだけなのかもしれないと思いました。教員として、これから学生とどう接するべきか、私はいま考えているところです。

留学していたころの思い出を聞かせてください。
 留学は父が勧めませんでした。そのため留学の話などは一切できなかったのですが、かといって研究は大好きなので続けていました。

腎臓のネフローゼという病気に使う副腎皮質ホルモンは、使用から40年たった今でも強い副作用が残っています。ネフローゼ自体の病気は治っても、その薬の副作用で骨がもろくなったり背が低いままだったりと、つらい副作用が残ります。私が医師になって辛かったことと言ったら、このような副作用に困っている子供たちがいることです。なので、私はその副腎皮質ホルモンにとってかわる薬の研究を続けています。

杏林大学病院へきてから、私はずっと臨床と研究に携わっています。ずっと続けてきて、ある時期学問の壁にぶつかったときがありました。そのときに「留学をしてみたらどうだ」と勧めてくださったのが松田博青理事長先生でした。1年間どっかに行ってこいと。これは私にとっては青天の霹靂でした。というのも、普通、留学はもっと若いときにいくものなのですが、当時私は44歳でした。年をとってからの留学でしたのでかなり躊躇しましたが、理事長先生の後押しもあり、2000年にスウェーデンのストックホルムのカロリンスカ研究所に留学をしました。カロリンスカ研究所というのはノーベル生理学・医学賞を選ぶところです。

留学先では、研究はもちろんのこと人生に対する考え方など様々なことを学びました。
杏林では地位も仕事も安定していて、わりと古株でしたのである程度自由に好きなことができました。しかし、留学先では医師でもないし、ただの研究員です。これまでと立場がまったく逆になってしまい、自分の思い通りにならないことがたくさんありました。けれど、そこで学んだことは「常に相手の立場になって物事を考える大切さ」でした。留学前の私は、もっと後輩に横柄であったのではないか、相手が不快に感じる態度を取っていたのではないかと考えるようになりました。44歳にして留学先で研究室の下っ端になり、やっと気がついたことです。帰国してからは、しばらくは相手のことを考える気持ちが強く、若い人たちにも優しく接するようになりました。けれど、ここ最近、もしかしたら戻ってしまったかもしれませんが・・・。

留学先で行っていた研究は今でもつながって続いています。
広い視野を持ち、様々な価値観に触れることで私は人間的にも、研究面でもとても勉強になりました。私にとって留学は本当にかけがえのない経験になりました。

留学先で出会った生涯の友Jamshid君と、研究室のテラスで。

留学先のカロリンスカ研究所の前で。

留学先の研究室のボスが日本に来たときに、一緒に食事をした写真です。

これは留学先の写真ではありませんが、韓国ソウル大学の招待講演にまねかれ講演をした後に皆で撮った写真です。

それでは最後になりますが、患者さんへのメッセージをどうぞ。
 杏林の小児科は一般診療から救急診療までこなしています。スタッフはみんな同じ情報を共有して、常に科が一丸となって診療に当たっています。臓器別(専門別)の診療単位ではないためバリアがなく、風通しのよい診療科です。それぞれの医師が専門分野を持ちながらもジェネラルに対応できます。
杏林大学病院の小児科は心の優しい人が揃っているのが自慢です。

座右の銘

大事の前の小事

大きいことをする時には、小さいことにもちゃんと用心して注意してやるように。でも同時に、大きいことをやる時には、あまり小さいことにはこだわらない方がよい、ということです。

楊先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

≪取材担当≫
企画運営室
広報・企画調査室






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