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当院のドクター紹介

常識とは単に人為的なもので、絶対に正しいわけではないのです。

今月のドクター紹介は、乳がんのセンチネルリンパ節生検を標準治療として日本に広めた一人でもある、乳腺外科の井本滋教授です。

井本 滋
名前 井本 滋 (いもと しげる)
血液型 AB型
趣味 切手集め:子供のころに好きでよく集めていました。一番好きだった切手は、葛飾北斎や安藤広重などの浮世絵を切手にした国際文通週間というシリーズのものです。
実は、切手は私が子供の頃から値段が変わっていないのですよね。子供の頃は、20年、30年たったらとても高くなっているのでは、と思っていたのですが。
読書(たまにですが):ここ2、3年は村上春樹が好きです。最近は「海辺のカフカ」を読みました。それから彼のギリシャやトルコを旅した紀行文を読むと、村上春樹の人間性が出ていて面白いなと思います。

けれど、基本的に無趣味なほうです。他の先生方のドクター紹介を読んで、皆さんかっこいい趣味をもっていてすごいな、と思います。
専門 外科腫瘍学、腫瘍免疫学
外来日 火曜日と木曜日の午前
所属 乳腺外科教授
プロフィール 1985年 慶應義塾大学医学部卒業、同大学病院外科
1986年 日本鋼管病院外科
1987年 国立大蔵病院外科
1988年 慶應義塾大学医学部一般消化器外科学教室
1991年 足利赤十字病院外科
1992年 国立がんセンター東病院乳腺外科
学位取得「2-および16α-Hydroxyestroneの乳癌増殖に及ぼす影響とヒト乳癌組織内エストロゲン水酸化酵素活性に関する研究」(日外会誌)
2001年 同病院乳腺科医長
2007年 杏林大学医学部教授外科学(乳腺)

子供のころは、どのような少年でしたか?
 ませていて、周りを仕切るような子供でした。
しっかりした面もありましたが、その反面とても悪ガキな面もあって、雪が降ったときには田んぼのど真ん中を突っ切って帰ったり、悪いこともしていました。

父は、テーラーメイドの輸入物の洋服の生地を扱っていました。私が生まれたときは東京で働いていたので生まれは東京ですが、4歳から愛知県に移りました。名古屋市にいたり、稲沢市に移ったりして、小学校から高校までを愛知県で過ごしました。小学生の頃は、もうめちゃくちゃ遊んでいました。わんぱくな少年で、缶けりやビー球遊び、最近も映画化されて人気の20世紀少年のように造成地で基地を作って遊んでいました。

私は中学校から中高一貫の東海中学・東海高校に進学することになっていたのですが、当時好きな女の子がいて、その子と別れたくないために「私立には行きたくない!」と親を困らせたこともありました。だけど、地元の中学校は丸坊主にしなければいけなかったということもあり、結局は私立に進むことにしました。

小学校6年生のときに、地元であったお祭りの写真です。皆でおそろいの法被を着ました。

先生が医師になりたいと思うようになった理由は?
 それがですね、特に医師になろうと思ったことはないんです。
これは率直にお話をする企画なので、率直に言いますけれど医者になったのは「医学部に受かったから」です。

私は、慶應の医学部と、東大の理科1類と、早稲田の理工学部を受験しました。本当に不当な考えだと思うのですが、どこも難しいから受けたというような感じでした。その中で、どうみても慶應の医学部は受かるはずはなかったのですが、たまたま受かってしまったのです。
いまちょうど入試のシーズンで、私も受験生の面接をしているのですが「君はどうして医学部を目指したの?」なんて聞いているけれども、こんな奴が聞いてしまって申し訳ない気がします。
もちろん医学に興味はあったのですが、慶應に受かるとは思っていなかったのです。

学生の頃は、実は数学者になりたいと思っていました。数学はとても魅力的な学問です。
何故かというと、人類が滅んでも数学は変わらないからです。それは真理なので、宇宙人も同じ数学や物理学を使っているはずなんですね。でも医学や経済はそうではないかもしれませんよね。まぁ、もっと不当な考えで、数学で何かを証明すれば歴史上に名前が残ると思っていたのだと思います。

私は高校1年生の時には高3で習う数Ⅲまで終えていて、大学の教科書を買ってきて解いたりしていました。今回このドクター紹介のインタビューを受けるにあたって、過去の写真を探しているときに高校の卒業文集も出てきたのですが、そこにものすごいことが書かれていて「まだ世の中で解かれていない数学を俺は解く。リーマン予想(現在でも説かれていない数学の問題)に挑戦する」なんてとでもないことを書いていてびっくりしました。7~8年前に高校の同窓会に参加したのですが、そのときに友達から「何でお前は医者になったんだ。あんなに数学者になるといっていたのに」と言われたほどです。
けれど、数学を解くことは出来るのですが、自分で発想したり作ったりするのは苦手でした。なので、数学者は難しいと薄々は感じていました。

こう話してみると、なんだか医者になったのは惰性に聞こえてしまうかもしれませんが、でも今は医師になってよかったと思っています。医学はとても興味深くて、常に勉強が必要です。私は生意気な性格なので、きっと神様が生涯勉強するようにと与えた道なのではないかと思います。

卒業アルバムの写真です。

大学時代はどのような学生生活を送られていましたか?
 これもまた大きな声では言えませんが、大学時代はよく遊んでいました。何をして遊んでいたかも、大きな声では言えません。まぁ、勉強もしていましたけれど、ダンスパーティに行ったり、都心に出て遊ぶなど、授業に出るよりそういうことの方が多かったかもしれません。

大学時代に一番の思い出というと、色々ありますが、何より一番よかったことは、さまざまな地方から来た学生と接することができたことでしょうか。
私は「1点取るためなら何でもする」というようながり勉タイプでしたが、慶應に集まる学生というのは勉強をして出来るのは当たり前で、勉強しなくても出来る人が多くいました。勉強以外のクラブを一生懸命やったり、そんなに授業に出なくても優れた発想力を発揮したり、会話の中でセンスを感じることを言うような人が周りにたくさんいて刺激になりました。

それから、私立高校によっても特色があって面白いなと思いました。たとえば、開成出身は、ダンスパーティに走るか、あるいは大学でも一番前の席で授業を聞いていたりするグループに分かれたり、麻布出身はみんなセンスがよくて、慶應高出身はがり勉型とはまた違う何か突き抜けた感じがする人が多いとか、いろんな高校の特色が個人個人から感じられて面白さを感じていました。

乳腺外科を専門に選んだ理由を教えてください。
 「くじ引きです。」
これを言うとみんな驚くのですが、からかっているわけではなくて本当にくじなんです。私たちのころは、1年目の医者をフレッシュマンと呼んで慶應で研修し、2、3年目は外の病院で学んで、4年目にまた慶應に戻ってくるようなシステムでした。
4年目で専門を決めるとき、これは医者の世界に限らずですが、いわゆる花形というところに人は集まってしまうものです。当時は外科の中でも、腹部系の食道・肝臓・大腸の手術をする診療科が人気でした。
私も最初は大腸がんの手術をする外科に行きたいと思っていました。手術がダイナミックで、新しい治療器機が開発されている最中でしたので。ところが、大腸がんの定員は3名でした。そこに私を含め4人が希望していました。そこで、上野駅の食べ放題のしゃぶしゃぶ屋さんで、あみだくじを作って引いたのですが、そうしたら自分がはずれに当たってしまいました。
その後、私と同じようにはずれたメンバーが集まって、もう一度くじを引きました。残っていた診療科は、胃と乳腺と血管で、この中なら胃がいいな、血管よりは乳腺がいいな、と思っていたのですが、私が引いたのは2番くじで、1番くじを引いた人に胃を取られてしまい、私は乳腺を専門にすることになったのです。でも、そのとき思ったのは「血管じゃなくてよかった」とそのくらいです。

今の学生さんには理解できないでしょうね。今は自分で専門を選べるわけですから。けれど、昔はなかなかそうも行きませんでした。だって、どの診療科にも医師は必要で、新人が入らなければその診療科はつぶれてしまいます。そうなると、たくさんいる患者さんも困ってしまいますし、大学としても講座がなくなってしまうのはあってはならないことです。
でも、自由な選択が出来なかったと思われるかもしれませんけれど、考えてみればフェアなんですよ。他の大学は「君はこの科にいきなさい」と強制的に決められたところもあるんです。ですから、当時のくじ引きはある意味ではフェアですよね。

ただ、今自分が教授になったので医学生を乳腺外科に勧誘しなければいけないのですが、自分がくじ引きでなったぐらいだから「ぜひ乳腺外科へ!」というのは、最初はかなり抵抗がありました。

外科を志望していた同期たちと、1年目の研修が終わるのを記念して香港旅行にきました。当時はこんなに外科系を志望していた研修医が多かったのです。

昔はとても厳しい時代だったのですね。研修自体もつらいものだったのではないでしょうか?
医師になって1年目のフレッシュマンは人間じゃないといわれました。 けれど、確かに連日の当直など大変だった思いはあったかもしれませんが、結果がすべての我々の世界は、つらいとか大変だとか思っている場合ではありません。
昨日まで普通の学生だったのがいきなり医者になるなんていうのは無理なことで、何もできません。どのような職種でも世の中で通用するには10年はかかるわけなので、辛いというよりは仕方がないという感じです。でも、それは当たり前です。世の中は甘くありません。
たとえば、当直をして次の日すぐ手術ということがよくありましたが、でもそれはしょうがないのです。人もいませんし。
自分が何も出来なければ偉そうなことは言えません。確かに「これはくだらないことなんじゃないか」と思うようなことを一晩中やらされたりしましたが、でも何でも見たり、何でもやったり、自分で経験していなければ逆に何も言えないですよね。
なので、研修時代というのはいい思い出とは言いませんが、遠回りですが学ぶものはたくさんありました。杏林大学の指導に「良医を育てる」とありますが、自分で経験して学ぶことが一番成長することです。最初から何かの専門家を目指してもいずれ飽きてしまうかも知れません。いろんな人に会って、様々な経験をして学ぶことはとても大きいことです。

「くじ引きで専門を決めた」というのはあまり聞いたことのないお話ですが、乳腺外科を専門にしてこられて今はどう思いますか?
 今は、とても面白い分野だと思います。
固形がんの中で、乳がんの治療が今一番発達しています。要するに、手術だけの時代はもう終わりました。さまざまな治療法が開発されて、薬の治療で10人に1人か2人は乳がんが消える時代になっています。医者になって辛いことは、患者さんが亡くなることです。手術は外科医としてやりがいがありますが、患者さんが治らなければ仕方がありません。
豊富な治療法があることが、とてもよいことだと思います。それから、豊富な治療法があるからこそ、逆に言うといろんなアイデアを出していけば、既存の考えを打ち破ったりできると思います。そのような面が面白いと思います。

また、研究面でも細胞レベル、動物レベルでの研究が盛んに行われています。どうみても乳がんの研究が一番進んでいます。たとえば、アメリカの大きな学会でも5分の1は乳がんに関係する演題です。

そのような中で、ある学会で私は運命的な出会いをしました。
97年の冬に、イタリアのヴェロネッシィ先生がセンチネルリンパ節生検の講演をされました。それまでの乳がん手術では、脇にあるそのリンパ節も切除して転移があるかどうかを調べていました。けれど、乳がんの患者さんの約7割には転移はないのです。脇のリンパを取ると、リンパ浮腫といって腕が張れたり痛みがでたりといった機能障害が起きます。40代で手術をしたら50年間も後遺症を抱えていかなければならないのです。

けれど、転移がないということは「リンパ節も取らなくてよかった」ということになりますよね。
「センチネルリンパ節」とは、がんがリンパ節に転移するのを見張るリンパ節のことです。「センチネルリンパ節生検」とは、センチネルリンパ節を見つけて、がんが転移しているかどうかを調べる方法で、これによって不必要な脇のリンパ節の切除がなくなります。

リンパ節を切除しなければ、後遺症もありません。実は、その方法以前の約100年間は、脇のリンパ節を取っていたのです。ヴェロネッシィ先生の発表は、これまでの治療法を180度変えるもので、これを機に、実際に様々な研究が進められるようになりました。

この講演を聴いて私は大変なショックを受けました。要するに、今常識的に思われていることや決めていることは、単に人為的なもので絶対に正しいわけではないのです。

私はこれを日本で標準治療としていこうと決めました。私以外にも、同じ思いに駆られた医師がいて、同時期に色々なところでその治療法が取られてきました。今では標準治療として浸透しています。

センチネルリンパ節生検で世界的に高名なジュリアノ先生がおられるサンタモニカのがん専門病院を見学した時の写真です。彼は赤いバンダナを巻いて手術していました。ようは髪が落ちてこなければ手術帽子でなくてもいいのですが、こういうところがアメリカ的ですよね。

2002年にセンチネルリンパ節生検の国際学会がパシフィコ横浜で行われました。そこで講演したときの写真です。

それでは、杏林大学病院について思うことを教えてください。
 杏林大学病院に来て2年になります。来た当事は新外科病棟が建った時期で、設備的に大変恵まれていました。ただ、迷路みたいで何度も迷いましたが・・・。

私が杏林にこようと思ったのは、ひとつは自分への挑戦でした。14年半、国立がんセンター東病院で医師を続けてきて、はたして自分は大学人として通用するのかどうか、それを確かめたかったということがあったのです。学生の教育・指導であったり、研究や教授としての責務であったりとか、いつか挑戦してみたいと思っていたことでした。
杏林に来た頃は、正直に言って乳腺外科はまだ組織として完成しきれていなかったと思います。技術も未熟な部分がありました。けれど、1年間、私も臨床に集中して、手術に付き添って手技の指導を行ってきて、次第にレベルが上がってきました。そして、2年目になって最近ではようやく研究にも手が付けられるようになってきました。杏林の乳腺外科はいい組織になっています。
私がここへ来るとき、「何かをまとめるには3年がかりだ」といわれましたが、本当にそのとおりだと思います。段々と落ち着いてきて、面白くなってきました。

最後に、患者さんへのメッセージをどうぞ。
 そうですね。それでは、乳腺の医師として言わせていただきます。

「マンモグラフィ検診は、2年に1回でいいので受けていただくことをお勧めします。」

アメリカは乳がんの検診率が80%であるのに対して、日本ではまだ20%いかないくらいです。アメリカは8人に1人が、日本は20人に1人が乳がんになるといわれています。自分は大丈夫と思わずに、定期的に検診を受けてください。いま、早期に発見されたがんは治る時代です。

座右の銘
 人生には3回チャンスがある。ただそれに気がつく人と気がつかない人がいる。

座右の銘とは違うかもしれませんが、ある先生から聞いた言葉です。実際にそうだと思います。意外にすごいチャンスがあっても、気づかずに過ぎてしまう。
私が「センチネルリンパ節生検」に出会ったのは、この3回のうちの1回だったと思っています。

井本先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

≪取材担当≫
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