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溢れる情報を見聞きして、不安に苛まれるのではなく担当医とよく相談を。

新年度のドクター紹介は、腎臓内科・リウマチ膠原病内科の山田 明教授の紹介です。

山田 明

名前 山田 明 (やまだ あきら)
年齢・血液型 60歳(昭和23年8月4日生まれ)・A型
趣味 音楽鑑賞:クラシックとジャズが好きです。 最近は、今世紀初頭のロシアの作曲家、セルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲集のCDを買いました。夜遅くに帰宅するので、ヘッドフォンをつけて聴いています。
美術鑑賞:学生の時に美術サークルに入っていたので、そのときは絵を描いていたのですが、今は展覧会があったら見に行く程度です。最近はピカソ展と藤田嗣治展に行きました。

ほかにもありますが、多趣味のようで、結局は無趣味なのです。少し手を出しては、直ぐに飽きてしまうほうで長続きしないんです。
専門 慢性腎炎、ネフローゼ、リウマチ膠原病、透析、高血圧
外来日 火曜日 午前中(リウマチ外来)
金曜日 午前中(腎臓外来)
所属 腎臓リウマチ膠原病内科 教授
プロフィール 昭和23年神戸市生まれ。昭和48年 東京大学卒業後、51年東京大学第三内科入局、57年から59年 米国ノースカロライナ大学留学。第三内科医局長を経て、平成4年虎の門病院腎センター内科医長、平成7年部長。平成13年より杏林大学医学部第一内科教授、腎臓・リウマチ膠原病内科科長。
日本腎臓学会監事、日本リウマチ学会評議員、日本臨床免疫学会評議員など。

神戸市のご出身と伺ったのですが、都会の街でどのような幼少時代を過ごされたのですか?
 神戸は港町なので、当時からエキゾチックな街といわれていました。けれど、今のように観光地化しておりませんでしたので、港があって裏には六甲山がある、こじんまりとした住みやすい街でした。

いまは観光地として有名な山手の異人館などにもあまり人がおりませんでしたので、そこが私たちの遊び場でした。人の住んでいない洋館の庭で当時流行っていた少年探偵団ごっこをして、洋館に隠れて怪人二十面相を捕まえるような遊びをよくしていました。そのほか、山にハイキングに行ったり、学校の校庭で野球をしたりと都会の中でも子供らしい遊びをしていました。
こう話すと活発な少年時代だったと聞こえるかもしれませんが、どちらかというとおとなしいタイプでした。

なぜ医師の職業を選んだのですか?
 私の父が神戸で開業していたので、なんとなく私もその道に進むのだろうと思っていました。親戚にも医師をしている人が何人かいましたので、割と身近に医師が多かったのです。

私自身は子供の頃は医師になりたいとはそれほど思っていなくて、どちらかというと文科系が好きで、大学では文学部に行って歴史でも勉強できればいいなと考えていました。考古学が好きだったのです。けれど、そんな話を父にすると「そうか、それも良いな。」なんてことを言いながらも「でも医者もいいぞ。」と言ったりしていました。結局医師になったのは父の影響が大きかったのだと思います。父としては自分の跡をついで欲しかったのでしょうけれど、私は東京に出てきてしまったのでそれは出来ませんでした。
実際、医師が身近にいるというそのような環境におかれなければ、医師を目指すことはなかったかも知れませんが、いま医師になってみて、結果的には良かったと思っています。もし考古学の道に進んでいたら今はどうなっていたか・・・、まったく想像がつきません。

それから、昔から絵を描くことが好きで、小学生の頃は絵を習いに行っていました。京都市に市立の美術大学があるのですが、祖母がその学校に進学してはどうかと勧めてくれて、私もその気だった時期もありました。けれど、今となっては、まかり間違ってもその道に進まなくて良かったと思います。きっと食べていかれなかったでしょうね。

学生時代のクラブ活動を教えてください。
 私が通っていた私立灘高は中高一貫だったのですが、自由な校風でとても楽しい学校でした。中学時代は生物とか化学がかなり好きで、生物部に入っていました。夏休みには京都大学の水産研究所がある和歌山の南紀白浜へ行って、海の水を採取してプランクトンを調べたりする合宿をしていました。といっても、実験をするとかそんなレベルではなくて、顕微鏡をのぞいてプランクトンを発見して「わー」と喜ぶくらいのレベルでしたけれど、楽しい部活でした。

高校では、今度は音楽鑑賞部に入りました。鑑賞部なので自分たちで演奏するのではなくて、海外の演奏家が日本に来たら、皆で始発の電車に乗って大阪フェスティバルホールにチケットを取りに行ったり、当時はレコードが安く手に入る時代ではなかったので、たまに買えたときに皆で集まって音楽を聴いたりする部でした。

そして大学に入ったら、今度は美術サークルに入りました。このときの友人は今でも親しくしていて、同窓会などを開いています。ただ、これは昔美大の進学を考えていたほど美術が好きで、医学部に入っても美術をやりたいとかそういう熱意のあるものではなく、部室の前をふらっと通ったら先輩に「ちょっとおいで」と勧誘されてそのままズルズル入部してしまった感じなのです。それでも一応部長まで勤めたのですよ。医学部にも美術部はあったのですが、私は全学(すべての学部が入部できる部活)のほうに入部していました。当時は風景画をよく描いていて、夏になると千葉の房総半島や信州の白樺湖へスケッチ旅行の合宿に行っていました。

大学入学のため上京して、どのような生活を送っていましたか?
 昭和42年に東京大学に進学しました。当時は学生運動が始まる直前で、古き良き時代の伝統的な大学の雰囲気がありました。私も親元を離れて一人で生活することに憧れていましたので、そのうれしさを感じていた時期でした。
上京して住み始めたところは目白にある学生寮でした。そこは学生が全部で500~600人いる大きな寮で、全国から出てきた学生が集まっていて都内の大学をほとんど網羅するくらいの様々な大学生が集まっていました。もちろん学部も違います。医学部に行っているのは珍しく、私ぐらいでした。そういう寮でしたので、個性豊かな人たちとの交流がとても勉強になって、楽しかった思い出があります。今でも、その連中とはよく会います。2人部屋だったのですが、誰かの部屋に集まっては、若いときなので夜中まで議論をしたり、人生論を話しあったりしていました。そのようにして東京での生活が始まりました。

しかし、大学入学をした秋から医学部で紛争が起こって、駒場の教養学部でも翌年にはストに入ってしまいました。その後、結局10ヶ月間も再開されない状態でした。東大から始まった学生運動は全国に波及して、都内でもバリケードが張られたりと騒々しい状況でした。44年には安田講堂事件がありました。翌年には、三島事件があり、海外ではベトナム戦争が泥沼化したりと、日本だけでなく全世界が激動の時代でした。

私自身もその頃はちょうど二十歳前後で、人として成長する時期でした。いまふとその頃を振り返ると激動の時代だったと思うのですが、当時、渦中にある自分としては、私自身が変わっているときだったのであまり周りの動きの激しさを感じていなかったように思います。今となっては、本当に大変な時代だったと思います。

大学の方はというと、授業が再開されても直ぐに正常化されたわけではなかったので変則的な学生生活でした。そのため、私たちは48年3月卒業だったのを、半年遅らせた9月に卒業しました。そして何とか研修が始まったのです。あまり大きな声では言えませんが、こう書くと分かってしまうので言いますが、つまり私は大学ではあまり勉強していないのです。ストの後遺症で出席率が悪くて。いま杏林の学生を教えていて、私の頃と比べて杏林の学生はよく勉強するなぁと感心してしまいます。いま私が杏林の学生だったらきっと落第していると思います。でも、卒業してからは一所懸命勉強しましたよ。

先生は腎臓とリウマチを専門にされていすが、その2つを選んだ理由は何でしょうか?
私が専門を選ぶ過程は少し変わっていて、最初から目指すところがあったというわけではなく、あっちに行ったりこっちに行ったりふらふらしながら今の専門に辿り着いたという感じなのです。

先程話したように変則的な学生生活を送っていたため、私たちは6ヶ月送れて卒業したのですが、私の1学年上の先輩たちは1年遅れて卒業しました。そのため研修を始める時期が重なり、医者が溢れてしまったため受け持ち患者が少なくなってしまったのです。
私は内科で研修を始めていたのですが暇を持て余してしまって、内科の途中で外科もやってみるか、と思い立ったのです。
そして、外科の医局に行って「外科の研修をさせてください」とお願いしたのですが、大学の中では外科系の研修医も溢れていたため、関連病院であった栃木の獨協医科大学病院を紹介してもらい、1年間外科医をしました。なので、これもあまり大きな声では言えませんが、こう書くと分かってしまうので言いますが、内科としては充分に研修していないのです。

その研修が終わって最終的に専門を決めるとき、そのまま外科にいてもよかったのですが、外科に移ってからも東大の内科で研修をしていたときの医局長とずっと親しくさせていただいていて、その先生から「そろそろ内科にもどってきたらどうだ」とのお誘いがあり、栃木から東京に戻り東大の第3内科に入局したのです。今度は、内科の中でも何を専門にするかを決めることになるのですが、腎臓を専門にした理由は、学生の頃、免疫学に興味があったのが1つの理由です。腎臓病というのは免疫が関係する疾患で、腎臓を専門にされていた柴田整一先生に昔から色々なことを相談に乗っていただいていたのですが、その柴田先生が「うちの研究室にこないか」と誘ってくださったものですから、その誘いに乗って腎臓を専門にすることにしたのです。柴田先生のところは腎臓の研究室であると同時に、リウマチ膠原病も専門にしているグループでしたので、その2つが今でも私の専門として生きるようになったのです。

昭和55年 恩師柴田整一先生らと

実際に専門にしてみて、腎臓・リウマチ膠原病は幅の広い診療科だと思っています。といいますのも、腎臓病は様々な病気の影響を受けます。たとえば、糖尿病や高血圧などの影響もひとつの要因です。また、リウマチ膠原病の病気でも、それによる腎炎があります。様々な病気による二次性の腎障害があるので、腎臓を元に他の疾患も学ぶことができます。またリウマチ膠原病では、その影響で間質性肺炎を引き起こしたり、神経の症状が出ることがあります。
リウマチ膠原病は全身病で腎臓以外にも色々な臓器に影響を及ぼす。片や腎臓はひとつの臓器ですが、いろんな臓器が腎臓に影響を及ぼします。これは学問的な興味ですが、2つの専門を見ると両極端なところがあって、広い目を持って内科疾患を総合的に診療することができるようになるのが良いところだと思います。

昭和58年 米国留学中の学会発表

昭和59年 東大の研究室

昭和63年 来日中の留学時のBossと

医師になってうれしかったことや困った経験はありましたか?
 困ったこと・・・それはないです。こんなことなら医師にならなきゃよかった、というようなことはありません。

うれしかったことといいますと、他の先生方もインタビューでお話していることですが、やっぱり患者さんの病気が好転して喜んでくださることですね。そのときに報われたと思います。それから、私が専門にしている腎臓やリウマチの病気は、慢性的な疾患なので患者さんとの付き合いが非常に長いのです。東大で診療していたときから30年以上お付き合いのある患者さんも何人もいらっしゃいます。引っ越しなどで私の診察にこられなくなってしまった方からも、年賀状などで定期的に様子を知らせてくださる方も何人もいらっしゃいます。患者さんからしたら、長く病気と付き合うつらさはありますが、私にとってはずっと診療に携わることで親しく長いお付き合いができるのでこの道に進んでよかったなと、思います。

先生は杏林大学病院にこられて8年になりますが、初めて杏林に来たときにどんなことを感じましたか?
 杏林に来る前は、虎の門病院で9年間勤めていました。虎の門は都心にある大きな病院で、評価されている病院だったので、私もそれなりの自負がありました。ところが、杏林にきてまず感じたことは、虎の門に引けを取らないくらい医療のレベルが非常に高かったことです。医局員も真剣に一所懸命診療に当たっていました。今はATT(初期・二次救急患者対応を専門とする診療チーム)がありますが、当時は本直というのがあって、救急患者さんが自分の専門外であっても翌日専門の医師に引き継ぐまで何とか診療をしなければならない状況でした。しかし、杏林の医師たちはプライマリケアが良く訓練されていて、どんな症例にも的確に対処していました。もちろん虎の門も高度な医療を行っている病院ですが、救急医療は行っておりませんでしたので(今はやっています)、別のスキルの高さを杏林で感じたのです。私はそこに一番驚きました。

それから、スタッフ同士が良くまとまっていて、何か問題が起こっても団結して解決する姿勢がありました。これは大学病院ではなかなか出来ないことです。もちろん、このようなチームワークのよさは入職したときからずっと今でも感じているところです。

平成5年 虎の門病院で小椋部長らと

最後に、患者さんへのメッセージをどうぞ。
 今は情報化社会で、病気の本がたくさん出版されています。それからインターネットを利用して、たちどころに高度な知識にアクセスできます。そのため、患者さんのなかには「インターネットにこういうことが書いてあったのですが・・・」とおっしゃる人も随分いるのですが、情報が多すぎるのも良し悪しだと私は思っているのです。

本に「この病気ではこういう症状がでます」とか、「こういう風になります」と書かれてあると、いろいろな症状が自分に当てはまるように思えるのですよね。「私もそうだわ」と思ってしまいます。
そういうところから、やたらに不安に思ってしまう方も多くおられます。
一方、患者さんを読者対象に据えた本には、あまりがっかりされるような情報の掲載は避けているような感じもあります。

私が伝えたいことは、同じ病気でも10人いたら10通りの病気の性質があるということです。患者さんのこれまでの病歴や置かれた環境によって、病気はそれぞれ異なった症状を現します。一般的な情報だけから、ああでもない、こうでもないと不安な妄想を広げることは良くありません。病気に対する心配ごとや悩み事などを和らげるために、そのような本を読まれたりする気持ちは分かります。けれど、医師の仕事というのは、病気から来る肉体的な苦痛を和らげるだけではなく、精神的なケアをするのも仕事の一つです。そのような不安を拭うには、担当の医師に相談をして、よく説明してもらうことが一番だと思います。

座右の銘
 得意淡然 失意泰然

得意のときも、淡々としている。失意のときも目に見えてガックリしない。と、いうことです。
私がそうだというのではなくて、そういう心境になりたいと目指しているわけです。

山田先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

≪取材担当≫
企画運営室
広報・企画調査室






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