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当院のドクター紹介

「患者さんとともに語り合い、その心の痛みを分かち合って病気に立ち向かう。」のが医療の本質

5月のドクター紹介は、呼吸器・甲状腺外科の呉屋 朝幸 教授の紹介です。

呉屋 朝幸

名前 呉屋 朝幸 (ごや ともゆき)
年齢・血液型 60歳(昭和24年1月7日生まれ)・B型
趣味 手術:やはり外科医ですので。昔、先輩に医師をしていて何が一番楽しいかを聞かれたときに「手術室に入るときの緊張感」と答えたら、「お前は先天的な外科医だ」と言われました。
スポーツ:何でもやります。特にゴルフやテニスが好きです。学生時代はサッカーをやっていました。今でも好きでしょっちゅうテレビで試合を見ますし、重要な試合は録画をして見ています。
自転車:多摩川沿いを走っています。
専門 臨床腫瘍学(特に肺がんの外科治療)
外来日 火曜日 午前・午後
所属 呼吸器・甲状腺外科教授
プロフィール 昭和24年 宮崎県小林市に生まれ
1974年 鹿児島大学医学部卒業
    東京大学医科学研究所付属病院外科
1976年 三井記念病院外科
1986年 国立がんセンター外科
1991年     同      外科医長
1993年 杏林大学医学部外科教授
2006年 杏林大学医学部付属看護専門学校校長
    同      付属病院副院長

■ ご出身地の宮崎県小林市はどのようなところですか?
 小林市は、宮崎県西部の鹿児島県に近いところに位置しています。近くには、日本神話にある天孫降臨の地として知られる高千穂峰があります。また、日本で一番星がきれいに見える、星降る里としても有名です。と、よく言うとこのような説明ですが、つまりは山間部の田舎町ということです。

鹿児島県は去年NHKの篤姫でも有名になりましたが、2つの大きな山があります。1つは高千穂で、もう1つは桜島です。この山々は、私にとって、とてもスピリチュアルなインパクトを与えるものなのです。2つの山ともに、単なる自然という領域を超えて人間に精神的なエネルギーを供給してくれるように思います。めげそうになると、元気をくれるものなのです。

■ どのような少年時代を過ごされましたか?
 小林市は「市」でしたが、田舎の市でしたので村落共同体とか村社会といっていいような、共同意識の強い地域でした。町全体がそうでしたし、子供たちもそのような中でお互い育ちました。町内会揃って川掃除をしたり、子供が不良になりそうだったら地域全体で監視するとか、そのようなところです。

村社会というと、構成員の自由が無いとか、昔は悪いことに使われていました。けれど、村社会はその共同体のなかにも自由はありますし、お互いが助け合っているものなのです。
私は、それこそが日本にいま一番欠けているものだと思います。

子供たちの遊びの中でも、町内会の上級生は下級生の面倒を見ます。下級生が危険な遊びをしようとすると、上級生は「止めたほうがいいよ」と教えます。その言われた下級生は、今度自分が上になったときに同じように下の子に言わなければいけないのです。もし言わなければ「6年生なのになぜ下級生の指導をしないのか」と親でなく近所のおじさんやおばさんから言われるのです。

もし遊んでいて下級生が怪我をしたら、たとえ怪我をした本人の責任だとしても上級生は責任を感じてその親御さんの所に行って謝りに行くのです。今の社会には無いことだと思いませんか?

これは東京都の地域にも無いことですけれど、私は医療社会においてもそのような村社会の精神が欠落してきていると思います。「先輩に学ぶ」「後輩は先輩の話を聞く」「先輩は適切に教える」、「そして、学んだ人は次の後輩に教えていく」これは医療や医学教育の原点だと思います。特に、次の世代に知識を伝達することは、最も大切なことだと思います。

■ 先生はどのようなきっかけで医師になろうと思ったのですか。
 そうですね・・・あまり教育的ではないのですが、たまたま医学部に受かってしまったからということです。
親戚の中に7~8人くらい医師がおりましたので身近な存在ではあったのですが、医師になる気はなくて、本当は数学か物理をする職業につきたいと思っていました。
しかし、いくつかの大学を受験したのですが1つしか通らずに、たまたまそれが医学部だったのです。
私の父は高校の教師でしたので、あまりわがままを言って浪人をするなどはできる立場ではありませんでしたので「まぁ、1つ入学できたので行こうか」という、後ろ向きの選択でした。

■ 数学者か物理の仕事につきたいと思われていたのは、やはり得意分野だったからですか。
 もちろんそれもありますが、一番は学校の先生の影響だと思います。
中学2年生のときに、とても優秀な理科の先生がいらっしゃいました。その先生が面白い話をたくさんしてくれたことで、物理学に興味が沸いたのです。それが高校まで続いて、できれば職業にしたいと思っていました。
私が高校生になった頃、3歳年上の兄は当時大学生でしたので、大学の数学や物理の試験問題などを解いて見せていました。

けれど、意外なことがわかったのですが、私自身は数学や物理が好きで得意だと思っていたのですが、後年になって同級生から「何で理科系に行ったのか」とよく質問を受けました。私は文科系の科目も得意であったためか、周りの友人はてっきり私が文科系にいくものだと思っていたそうです。自分は何より数学や物理が得意だと思っていたのですが、自分の認識と周りの評価は違うのだな、と驚いたことがありました。

高校時代のサッカー部メンバーと。

■ 医学生としての学生生活はどのようなものでしたか?
医者になろうと思ったことはありませんでしたので、大学に入学しても最初は気合が入りませんでした。

医学部に入ってからはサッカーばかりしていました。炎天下で走り回っていた思い出がばかりが残っています。鹿児島はサッカーが強い地域なのですが、私が所属していた医学部のサッカー部はあまり強くありませんでした。地元にある鹿児島実業など全国大会に出てくるような高校生と対戦すると、もうこてんぱんにやられてしまって、高校生に遊ばれてしまうのです。それでも、何も考えずに走り回って、とても楽しい思い出として残っています。学生時代の友人とは、今でもしょっちゅう会っています。

それからサッカー部の他に、地域特有の病気を観察する熱帯医学研究会というところに所属しました。マラリアなどが熱帯病としてよく知られているところですが、その研究です。夏休みになると、その地域に出かけていって、その地区の検診の手伝いをしていました。南大東島や沖縄の北部、奄美大島などに行きました。まだ医学生でしたので検診医のお手伝いをするのが業務でしたが、そこで現地の方と触れ合う経験をして、それが次第に「医者になろう」という刺激にもなったのだと思います。

■ いつごろ「医者になろう」と心に決めたのですか?そのきっかけとなる出来事などがありましたら教えてください。
 学生時代の後半でしょうか、ようやく医者になる決心がついた時期でした。
決心した出来事といいますか、医学部の6年生となると、もう24歳です。それからあれこれ迷っても仕方がないかと思ってしまったのが正直なところです。ここまで追い込まれたら医者になるしかないと、覚悟したのです。それに、退学すると言いましたら母親も怒りそうでしたので。

■ 外科医になった決め手は何でしょうか。
 私は、人生の選択にあまり積極的な理由はなくて「選ばされた」という立場でずっとやってきたのですが、外科を選んだ理由もそのような流れでした。

私の兄も医師をしているのですが、内科系にするか外科系にするか、兄弟で同じような分野の仕事を一緒にやろうと話していました。それで兄が外科を選んだため、私も止む無く外科を選択することになったのです。今度は、その中でも何を専門にするかを決めることになるのですが、それを決めたのは、実はジャンケンでした。

兄と専門を選ぶときにまず条件を設定しました。1人は特殊な外科をやろう、でもコアとなる外科診療ができる者も必要なので、1人は一般外科をやろうと決めました。そして、ジャンケンをしたら私が負けたのです。私はジャンケンが弱いので・・・。それで兄が脳外科をやりたいと言い出したので、私は自動的に一般外科に決まったのです。なので、いつも「選ばされた」という人生なのです。

■ 医師になってうれしかったことはありますか?
 私は、医療の現場に入ってから医師になってよかったと思いました。医師の仕事というのは身体的あるいは精神的に、人間に直接関わる仕事です。これはとても興味深いものだと気が付きました。
それに気が付いてからは、医学をする、外科学をする、ということに完璧にのめり込みました。

私は、もともと数学や物理が好きでしたので、人と話をするのはあまり得意ではないと思っていました。けれど、人と話をするという面白みを発見したのです。そのことを、私のことを文科系が向いていると言った友人たちに話したところ「数学や物理を職業にするよりも、絶対に医者をするほうが向いている」と言われて、ここでもまた「自分のことは、自分ではよく分からないものだ」ということを改めて思いました。

■ 医学部を卒業された後、医師として働き出した頃のことを教えてください。
医学部を卒業後、私は東京に出て研修を受けました。
東京に出てきてまず思ったことは、交差点を渡るのがとても大変だったことでした。
鹿児島では交差点の待ち時間なんてありませんでしたので、赤で渡っても何の問題も無かったのですが、新宿の交差点に立ったとき「これは大変だ!」と思いました。

研修の方は、東京大学医科学研究所と武蔵野日赤病院で行いました。その後は、ずっと三井記念病院で学びました。この三井での9年間は、私にとってとても大きな経験となりました。

三井での9年間を含めて、医者になって15年から20年は、本当に医学に夢中になっていて、朝から晩まで、晩も家に帰らずにずっと仕事をしていました。月のうち25日は病院に泊まっていたと思います。とにかく面白かったのです。
私は外科医なので、外科手術の準備をするのも大変面白かったですし、その前後に患者さんとお話をしたり、手術で病気を治していくことなど、全てが面白かったです。

さらに、三井記念病院には、私の出身地である町と同じような、村社会的な一体感があったので、私の気質とマッチしていた部分がありました。それは、「自分が少しでも優れているポイントがあればすぐに下に伝える」ということです。

そこで学んだことや私が実践したことは、「医療においても自分が新しく学んだことはすぐ後輩に教える、それも恥ずかしがらないで後輩に教える」、ということです。これはとても大切なことです。
恥ずかしがらないで、というのは、昨日・今日仕入れた知識を、したり顔で先生顔をするのは恥ずかしいと思いがちです。けれど、自分が得た技、開発した技、学んだ技はすぐ人にあげる。技を得ることよりも、自分の得意技を隠さず、広げることのほうが、本当の医療の進歩につながるということを実感しました。その技を通して、より良い医療が行われることを期待して人に渡すということです。
私がいた三井記念病院は、そのような雰囲気を持っていた病院でしたので、大変学ぶことが多く、自分が考えていることが実現しやすい勉強の場所でした。

三井記念病院での術中写真です。

■ 先生は最初は一般外科を広く専門にされていますが、その後では呼吸器・甲状腺を主にしているのはなぜでしょうか。
先程「自分で選択したわけではない人生」と言いましたが、呼吸器・甲状腺を専門にするときも同じようなことがおきて選びました。

学んでいた三井記念病院には、当時、呼吸器外科を強化していこうという動きがあったのです。
ある日、当時の病院長と副院長が、日曜日にゴルフをするので私が誘われたことがありました。先生方は、私にスタート時間のかなり前の時間にゴルフ場に来るようにと、言われたのです。おかしいなぁと思いながら行ったところ、そこに病院長と副院長が立っていて「実は、呼吸器外科をやってもらいたいのだが」との話があったのです。そこで私は、逆らえなかったこともあり思わず「はい」言ってしまったところ、「そうか。実は話がついている。肺疾患は、今は結核ではなく、これからはがんの時代だから、来月からがんセンターに行って来い」と。突然言われたのです。「はい」とは言ったものの「今までやったことがない!」と思ったのですが、がんセンターで肺がんを中心に学ぶことになりました。
がんセンターでは、せっかくの機会なので思う存分に学んでこようと決めました。実際に、人の何倍も働いて、勉強もして、しっかり学んだ結果、今の専門に繋がることになったのです。

三井記念病院の恩師の先生方です。私の隣にいらっしゃるのが、ゴルフ場で私を待ち受けていた当時の副院長 大谷 五良先生です。

がんセンターでの診療風景です。

そうして努力したところ、周りの人からは「外科医が向いている」、「呼吸器外科が絶対に向いている」と言われるようになりました。そのような評価を得られて思ったことは、「人は、はじめから天職があるわけではないのだ。」ということです。天職は自分で作るものだと思います。向いている仕事は何かなどと、それを探し回るなどというのは愚の骨頂で、とにかく何かを一生懸命やらないと、何が面白くて何が面白くないのかは分かりません。一生懸命やって面白くなければやめればいい。面白みが分かったらそのまま続ければいい。なので、私は自分で選んだ人生ではないと冗談っぽく言ったのですが、やり始めて面白みが分かったので、「外科医は私の天職」として続けているのです。
天職は必ず見つかります。まずは、目の前にあることに一生懸命取り組むことです。

杏林大学病院での手術風景。

2008年手術技術研究会にて。

杏林大学の卒業生です。最後の授業が終わったときに 撮影しました。

顧問をしている軟式テニス部の追い出しコンパです。

7年前の写真ですが、医局の飲み会です。

■ それでは最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします
肺がんに限らず、がんという病気は社会的に重要な問題になっています。3人家族ですと、全家庭に1人はがん患者さんがいるくらい患者数は増えています。これは国民全体ががんという病気を知っておく必要があるといえます。がんは、まだまだ社会的な認識が十分ではなくて、ある意味では偏見もあります。完治する場合も十分にあるのですが、がんという病名を聞くだけで、過剰な反応を示される方も多くおられます。そのため、がん患者さんに対してインフォームドコンセントが大切になるのです。

そして、インフォームドコンセントの前に私たち医師が行うもので「がんの告知」というものがあります。がんの進み具合などを説明しますが、患者さんには、そのことを冷静に受け止めていただきたいと思います。

医師にとって、がんの告知は事実を伝えることなのですが、ただ伝えるだけでいいものではないと私は考えます。告知をした後、患者さんをこれからも支援し続けますよ、というメッセージを態度でも言葉でも伝えなければいけないものです。ここまでを含めて「告知」だと私は思います。
それを経て、患者さんと医師の信頼関係ができます。信頼関係とは一朝一夕で出来上がるものではなくて、接触している間に信頼が醸成されるものです。時間がかかるものなのです。
告知をした後、信頼関係が出来、インフォームドコンセントが成立する。そして治療です。治療の結果というのは完全な予測は付かないものです。けれど、どのような結果でもお互いに受けとめることができる、それが信頼関係です。それを醸成させるのは、医師としての立場で言いますと、自分の全人間性を使っての勝負だと思っています。

そして、患者さんも不安や事情を、遠慮なくきちんと話をしていただきたいと思います。医者は専門家ですので、全てに丁寧にこたえます。「患者さんとともに語り合い、その心の痛みを分かち合って病気に立ち向かう。」のが医療の本質だと思いますし、そのようなコミュニケーションに心がけています。特に、杏林の先生方は人柄もいい人が多く、いい加減な人はいません。どうぞ、遠慮なくお話ください。それが杏林大学病院のウリでもあると思います。

肺がんの手術後、20年目を迎えた患者さんと。

座右の銘
 七転び八起き

めげない、ということが大きな意味です。
私は年を取っても青年です。人としても発展途上ですし、医療人としてもそうであるのが大切だと思います。

呉屋先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

≪取材担当≫
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