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6月のドクター紹介は、神経内科の千葉 厚郎 教授の登場です。

| 名前 | 千葉 厚郎 (ちば あつろう) |
|---|---|
| 年齢・血液型 | 49歳(昭和34年10月12日生まれ)・O型 |
| 趣味 | 登山:今は時間が無くてあまり登山をする機会はありませんが、中学二年生から高校、大学とずっと山岳部でした。 研究・実験: やっていて楽しいこと、というと実験です。仕事が趣味というと大げさですけれど、自分で手を動かして結果を出していくことが好きです。 犬と遊ぶこと:休みの日に家庭で楽しいことといえば犬と遊ぶことです。犬がこんなにかわいいとは思っていませんでした。 |
| 専門 | 神経内科学、神経免疫学、神経生化学 |
| 外来日 |
月曜日 午前・午後(再診) 火曜日 午前(初診) 木曜日 午前・午後(初診) 金曜日 午前・午後(再診) |
| 所属 | 神経内科 教授 |
| プロフィール | 昭和34年東京生まれ。昭和60年東京大学卒業。東大病院・公立昭和病院で研修後、東京大学神経内科入局。日赤医療センター、虎ノ門病院分院、東大医科学研究所、東京都老人総合研究所を経て、平成8年ニューヨーク大学医療センター(薬理学部門)留学。平成12年杏林大学第一内科(神経内科)講師、平成14年同助教授、平成19年同教授 |
■ 生まれはどちらですか?
生まれたのは東京都の新宿です。都会の真ん中で生まれたのですが、私にとって出身地の新宿はいわゆる故郷という感じではありません。私の両親が長野県伊那市の出身で夏休みになると1ヶ月ほど長野で過ごしておりましたので、両親の実家のほうが故郷的な感じがあります。
伊那市は天竜川の中流域にある南アルプスと中央アルプスに挟まれた谷間ですが、谷幅が広いので開けている地方都市という感じでした。母の実家が時計屋さんだったので、店の手伝いをしたりしていました。
新宿には小学校4年生まで住んでいました。私の父は転勤の多い仕事をしていましたので、その後、北海道へ行き、中学校1年生になって2~3ヶ月したら東京都の目黒へ移り、中学校2年生から今度は神奈川県鎌倉市に引っ越すなど、あちらこちらの学校に通いました。非常に短い期間しかいなかった学校もあるのですが、小学校は3校、中学校も3校に通いました。
■ 様々な地方で過ごされていますが、一番思い出に残っている土地はどちらですか?
それはやはり北海道です。北海道の釧路で3年過ごしたのですが、子供にとっては一種の長期間の旅行でした。東京とは全然気候が違う寒い土地だったのでしょうけれど、当時は子供だったせいかあまり寒かった印象はなく、ウィンタスポーツができて楽しかった思い出があります。釧路は寒い地域なので、スキーよりもスケートが盛んなのですが、私にはスケートはとても疲れるスポーツでした。私は4年生で北海道へ行ったので、その歳にもなると地元の子はとても速いスピードでリンクを滑ります。400メートルのトラックを女の子でもすごいスピードで回るのですが、私は1周回るともうヘトヘトになっていました。そのため、どちらかというとスケートよりスキーのほうが私は好きでした。
私がいた頃は、釧路はあまりスキーが盛んな土地ではありませんでした。一応、市民スキー場という名の付いたスロープはあったのですが、リフトはありませんし、斜面の一番上に小さい丸太小屋があるくらいで売店もありませんでした。なので、お弁当を持参して丸太小屋で食べて、滑ってはスキーの板を担いで、歩いて斜面を登るという感じでした。今は整備されてちゃんとしたリフトとレストハウスがあるそうですが、私がいたころはそのようなところでした。
■ 学校の友達と別れて東京から離れた北海道へ引っ越すことに寂しさなどは感じませんでしたか?
私はその頃まだ飛行機というものに乗ったことがありませんでした。そのため「北海道に行くから飛行機に乗れる」ということにわくわくしていたので、あまり寂しいなどと思うことは無かったように思います。初めての飛行機がただ楽しみでした。
転校自体にも、あまり抵抗を持たないタイプでした。最初は「新しい学校はどんなところだろう」とビクビクすることはありましたが、教室に入るとみんな興味津々で「東京からやってきた」という感じで見られて注目されました。いじめられたりもせず、すぐに仲良くなれましたので、転校が嫌だと思ったことはありませんでした。
■ 北海道とはまったく雰囲気が異なる、鎌倉での生活はどのようなものでしたか?
中学1年の途中に東京の目黒に引っ越して、2年生からは今度は鎌倉市の腰越に行きました。
腰越は鎌倉の中心地から少し外れた漁師町で、私がいた頃は建物もまだ木造でした。鎌倉の山をひとつ越えれば七里ガ浜があって、海に面していて駅から絶景が楽しめる、江ノ電の「鎌倉高校前駅」が近くにあるところに住んでいました。
鎌倉というとサーファーなどのイメージがあるかもしれませんが、私は夏だからといって海辺で遊ぶというタイプではありませんでした。けれど全く海に行かなかったかというとそうでもなくて、クラブ活動の練習で、稲村ガ崎などの浜辺を走ることはよくありました。
クラブは中学2年生のときにワンダーフォーゲル部に所属しました。3年生になったときに顧問の先生で登山が好きな方がいらしたので山岳部ができました。それ以来、高校も大学も山岳部に所属しています。小学生の頃、夏休みに長野県伊那市で過ごしたときに、ときどき山に行っていました。そういうこともあってか、山に興味を持つようになりました。
■ 小さなころの夢を教えてください。
小さいころ一番最初になりたいと思っていたのは、実は「綿あめ屋」でした。すごく綿あめが好きだったのです。夏休みに伊那へ帰ったときに夏祭りへ行くと、必ず綿あめを買ってもらっていました。ふわっとしていて甘くて美味しいので大好きでした。当時は綿あめ屋になれば自分で作って毎日食べられるだろうと思っていましたので、そのような時期もありました。
少し大きくなり小学校の後半くらいにもなると、今度は考古学をやりたいと思うようになりました。少年少女文庫にハワード・カーターの「ツタンカーメンの秘密」読んで興味を持つようになりました。「数千年の間封印されていた次の部屋の扉を開いたら何が出てくるか・・・」という当時の発掘者の興奮に魅了されていました。
この感覚は、趣味でも挙げた実験や登山に通じるところがあります。実験だったら「新しいものを見つけていく」、登山だったら「だれも見たことのない景色をみる」というところが似ていると思います。
■ それでは、いつから「医者」になろうと思うようになったのでしょうか。
そうですね、医者というよりは脳の研究をやりたいと思うようになりました。なぜ人は言葉を話すことができるのか、外界が認識できるのかなどの脳の仕組みを研究したいと思っていました。なぜ脳に興味を持ったのかは、明確な記憶がありません。本か何かを読んで興味を持ったのかもしれません。
実は、私は直ぐに医学部に入ったわけではなくて、理系ではあったのですが1年間別の大学で学んでいました。けれど、1年生の夏くらいには大学を辞めていて、夏休みの期間に方針転換をして、受験勉強をしなおして医学部に入学しました。やはり脳関係の研究をしたいと思ったのが転換の理由だったのだと思います。そのため、医療職を希望していたというよりは研究志向で医学部に入学しました。
それではなぜ、医学部だったのかというと、今になって考えれば、脳の研究といえば心理学系の学部でも学べたとわかるのですが、高校卒業したての若者でしたので、脳イコール人体イコール医学部、という認識だったのだと思います。なので「医者」になろうという思いはその時点でもあまり無かったと思います。
■ 医学部は臨床を学ぶ授業が中心になるので、早く研究がしたいという思いはありませんでしたか?
そうですね・・・。正直に言うとそういう思いに掻き立てられたということはありませんでした。
ドクター紹介で他の先生方も仰っていたので私もお話できますが、大学時代は山ばかり登っていました。部活の登山部が中心で、あまりよろしくない学生でした。
3、4年生の夏休みにフリークォーターという、1~2ヶ月の休みを利用して基礎研究室で研究ができる制度があるのですが、私はその期間は実は別の用事があって、山岳部関係の用事で南硫黄島というところに行っていました。環境庁の環境調査隊に選ばれたのです。南硫黄島は無人島で絶海の孤島のような感じの島です。その無人島に何十年ぶりかに、環境庁から自然環境調査隊が行くことになりました。島にある山の上まで登っていかなければならないので、東大の山岳部にルート工作の依頼がきたのですが、私もそのルート工作隊に入れてもらい南硫黄島に連れて行ってもらったのです。
それは本当に楽しい思い出でした。冒険や探検隊というような感じで、小さい船で接岸して、泳いで島に上陸して、荷物を運び込んでテントを設営しました。島にいたのは2週間くらいでしたが、山を登って誰も見たこともないような景色を見ることは、やはりいいなと思いました。
■ 山岳部では他にどのようなところにいかれたのですか?
大学6年生のときにパキスタンへ行きました。ヒマラヤ山脈の続きでコラコルム山脈というのがあるのですが、その遠征隊に参加しました。3ヶ月間滞在したのですが、コラコルム山は、それはまさに未踏峰の、誰も登ったことの無い山でした。それまで何隊かトライアルで登ったことはあったのですが、山頂に着くことはできなかったのです。麓から見上げると、かなり入り組んだ地形をしていてルート全体を見渡せないのです。それでも下や周りからルートを見て、どこから攻めたら一番弱点かを見つけて登っていくのですが、ルートは途中までしか見えないので、ある曲がり角を曲がると次の景色が展開する、また次へいくと次の景色が展開すると、その繰り返しでした。そのプロセスは非常に楽しいことでした。だれも登ったことの無い山の頂上に立って名前が残るということも楽しいのかもしれませんが、それ以上に、その次に見えてくる展開にワクワクしたり、この景色を見る者あるいはこの岩肌に触れるのは世の中で自分が初めてなのだという感覚が何より好きでした。
山ではありませんが接岸した流氷の上を歩いて冬の知床半島を一周したこともあります。
私の医学生時代は、このように山に登ることが中心でありました。
■ 脳の機能に興味があったとのことですが、医学部を卒業して専門を決めるとき、脳外科の選択肢は無かったのですか?
それはありました。私は専門を神経内科か脳外科か、または耳鼻科にするかを考えました。東大の耳鼻科は音声言語の研究室を持っていましたので、言葉の研究ができる機関があったことから耳鼻科もひとつの選択肢でした。その中で結局、神経内科を選びました。脳外科でも良かったのかもしれないと思いますけれど、私は研修医2年目に1年間、脳外科の研修を受けていたのです。1年目はとりあえず内科系と思い半年間、神経内科の研修を受けました。そして残りの半年に一般内科を学び、2年目は公立昭和病院で脳外科研修を受けました。その1年は本当に大変でした。病院へいったら、2週間は病院を出られなくなります。私ともう一人の同級生で、毎日2人で当直をしました。当時の公立昭和病院は、脳外科といっても救急部と合同の救急部脳外でした。交通外傷で運ばれてきた患者さん、と言いましても頭を怪我していることも多かったので、私たちが診察するようなこともよくありました。気管切開や挿管など、外科系の手技を行うことが多かったので、この1年で外科の手技がかなり上手くなりました。本当に大変な1年でしたけれど、とても勉強になりました。生きている脳に目の当たりに接するというのは、内科医にとっても重要な事だともいます。
けれど、いま私は神経内科を専門にしていますが、その中でも免疫性の末梢神経障害を専門にして臨床と研究をおこなっています。当初から興味のあった脳の機能を専門としているのではないのですが、それは公立昭和の脳外科で脳炎の患者さんを診療したのがひとつのきっかけとなりました。その患者さんの症状は、普通の感染性の脳炎とは異なっていて、免疫が関係している脳炎だったのではないかと今になっては思える症状だったのです。そこから免疫系に興味を持ち出したということがあります。そのことが最終的に脳外科ではなく神経内科を選択する要因になったと思います。いまも臨床医として患者さんを診療しながら、その傍らで研究者として免疫の研究をずっと続けています。
■ 医師と研究者と2足のわらじでは、大変なことも多いのではないですか?
私はもともと研究志向の医師だったのですが、臨床医をしているからこそ研究に繋がることを学べているのだと思います。
日々の臨床の中で、なかなか典型的ではない症状を持っている方を診察する機会もあります。それを検証していくのですが、その中であるひとつの道筋を見つけて、解釈ができて、その現象が患者さんにきれいに説明ができて、さらに治療ができて、その結果が上手くいけば、それは感動できるものです。
これは、医師であり研究者であるからこそできることだと思います。医師は一人一人の患者さんを丹念に診察して、その中から新たな診断・治療に結びつくような研究を始めていくことができます。
特に神経内科という分野は、いま現状では完治しない病気が多くあります。我々は日々の診療にプラスして疾患の研究をより進めて、それを患者さんの診断・治療に還元しなければいけないと思っています。
■ 杏林大学病院について思うことは?
杏林にきて最初から今でも感じることは、優しい方が多いことです。何をするからとか、こういうときにこうだから優しいというような理屈ではなくて、全体の雰囲気とか皆さんが持っている雰囲気が優しい方が多いなと感じました。
私は究極のところは人間機械論者です。患者さんの状態に生物学的な進歩がもたらされなければ、医療としては敗北じゃないかと思っています。神経内科領域は根本的な治療法のない多くの難病がありますが、そういう意味では現状では負けが込んでいます。杏林に来て医局のある先生と話をしているときに、「自分は、たとえ患者さんが治らないことを分かっても、それでもこの先生に診てもらってよかった、杏林の神経内科を受診してよかったと、一つでも思ってもらえるような医療をしたい」と言っているのを聞いて、そのような気持ちでやらなければいけないと思いました。患者さんにとっての救いや慰めというのは非常に大切なことなのだということを改めて学びました。人として成長したと言いますか、人間的な側面で杏林から得たものは大きかったように思います。
いま各診療科毎にも診療理念を出していますが、神経内科の診療理念は「かかって良かったと思える医療を提供する」にしました。この言葉にはそういう意味を込めています。
3回目にみたら本物だと思え
東大の神経内科でよく言われていることですが、めずらしい現象や症状に出会ったときに、最初に見たときは記憶にとどめる。2回目に同じ事に出会ったら、たまたまのものでは無くて何か意味があるのではないかと疑いを持つ。それを3回みたら本物で、それを追求すると。
そのようなことから、患者さんの病気を丁寧に診て診療することができ、また臨床をヒントにした新しい研究も始まるのだと思います。
愛犬のりくです。
ミニチュア・シュナウザーとアメリカンコッカースパニエルのあいの子、オス、4歳。冬場は毛が長くて目が埋もれていますが、夏は丸刈りにされています。
私が散歩に連れて行けるのは休日ぐらいですが、散歩から帰りつくと決まって遊びを仕掛けてきます。引き綱の持ち手の所に喰らい付いてきてそれを奪い取らせてやると、自らの綱を咥えて大喜びで辺りを走り回っています。
取材担当
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