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当院のドクター紹介

「立派な大学になった」30年杏林を見てきてそう感じます

7月は、精神神経科の古賀 良彦 教授の紹介です。

古賀 良彦
名前 古賀 良彦 (こが よしひこ)
血液型 B型
趣味 自転車:休みの日には多摩川沿いの多摩サイクリングコースを走っています。自転車は10数台持っているのですが、その日の気分で乗りかえています。それぞれに味があっていいものなのです。
:運転も好きです。かつては富士スピードウェイを走るレースのライセンスも持っていました。
カメラ:写真を撮るのが好きなわけではなく、カメラをいじっているのが好きなのです。ここ10年くらいですが、カメラ自体をコレクションしています。全部で30数台あると思います。

私は、夢中になるけれど直ぐさめるタイプなのですが、唯一さめずに続いているのが自転車とカメラです。
専門 精神生理学、食事と香りの抗加齢および抗ストレス効果の研究
外来日 火曜日 午前
木曜日 午前
所属 精神神経科 教授
プロフィール 昭和21年 東京都世田谷区に生まれる。昭和46年慶応義塾大学医学部卒業後、昭和51年に杏林大学医学部精神神経科学教室に入室、平成2年に助教授、平成11年に主任教授となり現在に至る。日本催眠学会理事長、日本ブレインヘルス協会理事長、日本薬物脳波学会副理事長、日本臨床神経生理学会理事などを務める。

■小さい頃はどのようなお子さんでしたか?
自転車少年でした。今でも趣味で自転車に乗っていますが、学校から帰ってきては直ぐに自転車で遊びに行くような子供でした。昔は神社やお寺の境内は入り放題でしたので、悪友たちと木の間を潜り抜けたりして遊んでいました。当時はマウンテンバイクなどありませんでしたので、普通の自転車でオフロードを走っていました。けもの道を走っていた当時の経験があるからか、いまでも自転車で転ぶことはありません。

あとは、私たちの子供時代というと野球と相撲ですが、私は野球少年でした。
私は中学受験をしているのですが、それでも昔はとても長閑な生活で、受験勉強も日曜日に塾へ行けばいいようなものでしたので、平日はよく友達と外で走り回っていました。

野球は今でも好きで、最近はみんな忙しくなってしまって、実際にはやることができませんが、10年ほど前までは医局でも野球大会を開催していました。

≪1977年の医局の野球大会≫

■ 子供のころの夢は?
小さいころ家にいるときは、よくロケットの絵を描いていました。なんとなくロケットに憧れを感じていました。宇宙飛行士になりたいということも思っていたのかもしれません。
それから、飛行機も好きでした。電車が好きな人は見ただけで何の電車かとか車両について詳しく知っていますが、私はその飛行機版で、飛行機を見ただけでどこの飛行機だとか型が一瞬にして見極められました。 夏休みには、米軍キャンプなどに降りる飛行機を写真で撮って、スクラップブックにまとめて、それを夏休みの課題として提出していたくらいです。

けれど、当時を振り返って思うと、ロケットを作りたい、という気持ちが一番あったのだと思います。不器用でしたが工作も好きで、小さな頃は何かものを作る仕事がしたいと思っていました。その夢は高校生のころまで続きましたので、高校生になっても医学部に入りたいと思ったことはありませんでした。

■ 何がきっかけで医学部に行こうと思ったのですか?
「入ってみたらそこが医学部だった」という感じです。

特にこれといった経緯はあまりありません。高校時代は18クラスあったのですがそのうち4クラスが理系クラスでした。ものづくりも工学部的なものなので、とりあえず理系クラスに進んでいたのですが、いざ学部を決める時期になって医学部を選んだのは、あえて言うならば、高校生でしたので、「医学部へ行く」ということに、なんとなくいいな、というイメージがあったからかもしれません。つまり、なんとなく医学部を選択したため、特に医師になろうという夢があって医学部に入ったというわけではありませんでした。

■ それでは医学部入学後、医学を学んで医師になるという実感が沸いて来たという感じでしょうか?
学生さんにはあまり読んで欲しくないのですが、私は本当に授業に出ませんでした。
と、いいましてもあの頃の教育は「人材は教育するほど悪くなるので、教育はしないほうがいい」ということが公言されていました。自分で育ってくださいと。学校側は学ぶ環境を与えるだけで、勉強は自分でするものだというのが大学側のスタンスでした。よく言えば独立自尊です。

そのため、私もドライブに行ったり、映画を見たり、喫茶店で小説を読んで一日過ごしたりしました。そして夜になるとおいしいレストランで食事をすると。出身の慶応大学は四谷と三田にキャンパスがありましたので、周りには六本木とか青山とか魅力的な場所がたくさんありました。

それでも、クラブ活動では無医村の調査をするクラブに所属していました。このクラブは診療の提供をするものではありません。ましてや奉仕的な活動をするものでもありません。あくまでも無医村はどのようなところか状態を調査する活動でした。その活動で、毎年夏休みになると北海道の最果てである稚内の最北へ行って10日間ほど過ごしていました。函館でレンタカーを借りて2日がかりで北上するのですが、その地区にある小学校で寝袋に包まって泊まりながら調査をします。そのうちの一日は牧場で泊まることもありました。
けれど、まだ学生でしたので正式な調査方法もあまり分からない時期であり、調査が終わった午後には、ひたすら野球に明け暮れる調査隊でした。これが、学生時代に最も記憶に残っている楽しい思い出です。

■ 卒業後の研修時代はどんな生活だったのですか?
当時は今と違って研修という制度が明確に確立されていませんでした。一応5年間という規定はあったのですが、実質的には1年間でしたし、今と違って前もって専門を決めて、その科の研修を重点的に受けるという感じでした。
私は精神科を選択したのですが、その頃は学生運動が盛んな時期でした。慶応もそこまで激しくないまでも、当時の学生は運動に参加していないほうが珍しい時代でした。しかし、私はまったくのノンポリだったので、特に運動に参加せず研修医をしていたのですが、まわりがそのような時代だったので指導医が運動に参加していたため、あまり病院にいない状態でした。そのため、育てられたというよりもフレッシュマンのときから自分1人で患者さんを診て学んでいったという状態でした。そのような感じでしたので、あっという間に1年間が過ぎていきました。

■ 精神科を専門にした理由を教えてください。
昔から本が好きでした。勉強の本以外なら何でも読むのですが、特に小説など物語の本が好きでした。当時は精神科というとある程度本を読む時間がとれるものでした。手術をするわけではありませんし、急変の病気が多いわけでもありません。そのため、自由に本が読めるだろうと思ったのかもしれません。今の精神科はとても忙しい科になってしまったので、専門書を読む暇しかなくなってしまいました。今の若い人は本当に気の毒だと思います。

私はモットーとか、強く印象を受けたとか、そのようなことがあまり好きではありません。目標などを声高に言うのは趣味ではないのです。 日々の診療の中でも困ったことや大きな感動は、あるようであまりありません。
もちろん、小さい毎日のトラブルや、患者さんがよくなったらうれしい、と感じることはあります。でも、それを持ち続けることはありません。精神科医は、多分そういう人が多いのではないか、と思います。

■杏林大学に来たきっかけは何だったのですか。
私が慶応でお世話になった先生が、杏林大学病院の教授に就任されるときに「一緒に行こう」と言われたので付いてきました。それがきっかけです。

ただ、唯一杏林に来て1つだけショックだったことがあるのです。

それは「レストランが周りに無い」ということです。これは23区内で過ごしていた私にとってとても寂しいことでしたので、本当に最大のショックでした。

昭和53年精神科の医局にて。一番左にいるのが私です。

■杏林大学病院について思うことは?
実は私は、杏林では一番古株らしいのです。昭和51年に杏林大学病院へ来ましたので、もう30数年が経ちます。私と同じくらい古い方は整形外科の望月一男教授くらいで、いつも「そっちのほうが古株だ」と言い合っています。

30年間杏林を見てきて思うことは、誰もがそう思っているように「立派な大学になった」ということです。

30年前の杏林大学病院は、この長閑な立地も手伝ってか、のんびりした雰囲気がありました。午後になると外来にどこからともなく魚を焼く匂いが漂ってきました。いまとはまったく違う雰囲気でしたので、この30年で本当に名実共に変わったと思います。

それから学生の授業も持っていますが、学生は、その時代その時代の流れに乗った若者がいると思います。現代でも「いまの子は・・・」というネガティブなことはなくて、この時代に合った、選ばれた人が集まってきていると思います。ただ、杏林の学生の弱点は「素直すぎて、おとなしすぎるところ」だと思います。もっとポジティブに、自分を主張していいように思います。杏林の学生は、100人いたら100人でまとまって1つのことができると思います。それはもちろん長所でもあるのですが、ある意味短所でもあるような気がします。

平成14年精神科の医局にて。教授に就任して後に撮りました。

医局忘年会での写真です。趣味は「夢中になるけど直ぐさめる」ですが、お酒も「赤くなるけど直ぐさめる」なのです。


メッセージ

 良く学び、良く遊べ

Study hard, Play hard です。
人にメッセージを伝えるのはあまり好きではないのですが、さすがにこの歳になると講演会などで誰かに向けてメッセージを伝える機会が増えてきます。そのようなときには、この言葉を伝えています。

実はこれは、私の中学の校歌からとったものです。「秋刀魚の歌」などで有名な作家、佐藤春夫さんが作詞をしたもので、「いざ良く学び、いざよく遊べ」というのが歌詞にありました。中学時代は「良く学べ」と言われることばかりですが、「よく遊べ」とも入っていることが学業の歌なのに面白いなと思って好きでした。私はよく遊んでばかりでしたけれど。


似顔絵

趣味のカメラは30数台持っているのですが、写真は撮りませんので良い写真というものがありません。本当に一枚も無いのです。

けれど、面白い写真の代わりに、研修医1年目になります野村先生に私の似顔絵を描いてもらいました。とても器用な先生で、怖い顔の人を優しく描いてくれます。

古賀先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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