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8月のドクター紹介は、心臓血管外科の須藤 憲一 教授です。

| 名前 | 須藤 憲一 (すどう けんいち) |
|---|---|
| 年齢・血液型 | 63歳(昭和20年11月4日生まれ)・B型 |
| 趣味 | 音楽(クラシック):中学生のときから、NHKラジオの「音楽の泉」を聴いていました。朝の通学時間ぎりぎりまで聴いて、走って学校へ行っていました。 絵画鑑賞:綺麗な絵を見るのが好きです。海外の学会に行ったときは必ずといっていいほど美術館に行きます。特にフェルメールの絵が好きで、36点しかない絵画のうち30点近く実物の絵を見ました。 釣:子供のころから好きでした。日本独特のつり方で、鮎の友釣りをします。朝暗いうちに車で出て、北は会津の伊那川から西は岐阜の馬瀬川まで各地に行っています。 友釣りは大学時代から40年やっています。私は名人ではないですが、私より上手な人たちは名人といえると思います。 他にも、ランニングやテニス、山登りなど、生活を楽しむタイプなので趣味はたくさんあります。 |
| 専門 | 心臓大血管全般、体外循環、心筋保護法 |
| 外来日 | 水曜日 午前 |
| 所属 | 心臓血管外科 教授 |
| プロフィール | 昭和20年 福島県白河市に生まれる。 昭和47年 東京大学医学部卒業 昭和50年 東京大学胸部外科助手 昭和60年 日赤医療センター心臓血管外科部長 昭和61年 杏林大学心臓血管外科助教授 平成3年 杏林大学心臓血管外科教授 |
| 学 位 | 昭和56年 医学博士(東京大学) |
| 研究分野 | 心臓血管外科学、特に胸部大動脈瘤、体外循環 |
| 所属学会 | 日本外科学会、日本胸部外科学会、日本心臓血管外科学会等 |
■ご出身地の福島県白河市はどのようなところですか?
松平定信が城主であった城下町で、豊かな自然に恵まれた静かな町でした。小さな頃はいい子でおとなしい、自然好きな子供だったと思います。周りには山や川や池が多くありましたので、山でセミやカブトムシを捕ったり、近くに南湖という松平定信が開拓した湖があるのですが、そこで魚とりをしたりと、のびのびと遊んで育ちました。
といいましても、一種のガキ大将ではあって、自分よりも小さな子供を集めて野球をして遊んだりもしていました。
■ 福島県ではいつごろまで過ごされたのですが?
高校まで福島県にいました。出身の白河高校は、男子校だったのですがとてもバンカラな校風でした。靴は下駄履きでしたし、水泳の授業は褌(ふんどし)で泳ぐため、授業のあとは教室の窓から褌が垂れ下がっていました。
進学校ではありましたが、田舎の学校でしたので都会の学校のようなギスギスした雰囲気はありませんでした。休みの日には友人と釣りをしたり、山登りをしたり、生活はみんなで楽しんでいました。
■ 小さなころから医師になりたいと思っていたのでしょうか?
なぜ医師になったかというと、なんとなくというのもあるのですが、小学校6年生のときの作文を読み返してみると「医師になって幸せな家庭を築きたい」などと、子供心にも書いてありました。私の親戚には医師が何人かおりましたし、母方の家系は白河藩の藩医を代々していましたので、そのことが多少は影響があったのかもしれません。
それから、中学生のときに父が大病をしまして、ずっと東京の病院に入院していました。夏休みにお見舞いに行くのですが、医師の仕事振りを目の当たりにして、憧れるようになりました。
■ 大学生になり福島から上京されて、どのような学生生活を送りましたか?
東大の医学部に進学したのですが、1・2年次は駒場キャンパスで教養を学びます。都会には出てきたのですが、自然が好きでしたので、私が憧れたのは武蔵野の自然でした。実は、杏林大学の直ぐ側に東大の三鷹寮があるのですが、私はその寮に入りました。杏林大学病院は、まだそのころ新川病院といっておりましたが、まさか将来自分がそこに勤めるとは夢にも思っていませんでした。
寮での生活はとても楽しいものでした。休み前の土曜日などは、皆で車座になってお酒を飲みながら、鍋やすき焼きを囲んで、寮歌を歌って夜通し騒いでいました。明け方になると下駄履きで走って神代植物園まで行き、塀を乗り越えて中に入り、朝もやの中の綺麗なバラの花等を眺めて、鳥もたくさんいましたので、草に寝転んでさえずりを聴いていました。
みんな地方出身者でしたので純粋さがあって、意気投合して、まさに青春を謳歌していた時期でした。今でもその頃のことを思い出して、お酒を飲んで陽気になると、お風呂で寮歌を歌ったりしては女房と子供にたしなめられています。
■ 先生はたくさんの趣味をお持ちですが、大学時代は何をされていましたか?
趣味のところでも挙げましたが、クラシック音楽が好きでしたので東京に来てまずしたことはN響の会員になることでした。定期演奏会が毎月行われていましたので、最初は日比谷公会堂、それから東京文化会館が出来て、そのうち渋谷に移ったのですが、ずっと会員で聴いていました。やはり最初はいい席が取れないので、ときどき席替えをして、少しでもいい席を取ろうと徹夜で並んでは席を移したりしていました。
けれど、研修医になってからは緊急手術などが入るので、半分も行かれなくなってしまいました。そのため会員は辞めてしまったのですが、いまでもたまにコンサートには行きます。
もっぱら聴くのが専門ですが、自分でチェロを学びだしたのも大学生からでした。ただ、あまり才能には恵まれていなかったようで、家で練習していると子供に「お父さんうるさいよ」といわれてしまい、また女房に「お前たち、何言ってるんですか。私なんか10年以上我慢してきたんですからね」等と言われ、最近はやっておりません。けれど、チェロは今でも好きです。
それから、自然や山が好きなので、大学時代は山岳部に所属しました。日本の山は全国くまなく登りました。アルプスや北海道などの大変なところも、縦走して大体登りました。
これは登山の思い出ではありませんが、ひとつエピソードがあります。私が医学部の1年生になった頃は、学生運動が盛んな時期でした。全学ストライキで授業が無くて、討論会などが行われていたのですが、次第に、学生運動の専門家がリードするようになり、一般の学生はなかなか一緒にやりにくくなっていきました。
そうなると、もちろん勉強もしていましたが、やることがなくなってしまい「山にでも登るか」ということになったのです。山に登る前日に、医学部本館の前で集会が行われていたのですが、私たちは登山の準備をしていたのでピッケルを持ってその集会を眺めていました。そうしましたら、その様子がNHKのテレビニュース映ってしまいまして、親から「ピッケルをもって学生運動をやっているのか。早く帰って来い。」と言われてしまったという笑い話がありました。
これは笑い話ですが、登山に関しては大学時代だけではなく、医師になってからも登っていました。けれど、卒業して直ぐは仕事が忙しくてなかなか登れなかったのですが、やはり体力が必要だと思ってまた登山を始めましたのが40歳の頃でした。けれど、もう足が思うように動きませんでした。
そのことがあって、これはまた鍛えなおさなければと思い、時間を見つけてはまた山へ行くようになりました。休みの日に登ることもあれば、地方の学会に参加したとき、学会が終わった後の土日を利用して登山の数を稼ぐようになりました。けれど医局員からは「先生は学会に行くと色が黒くなって帰ってきますね」といわれてしまいました。
■ 百名山を完登したときのことを教えてください。
深田久弥の百名山を全て完登したのは、9年前です。
夏休みを利用して登った最後の山は、縄文杉で有名な屋久島の宮之浦岳でした。
さすがに百名山といわれるだけあって、それぞれの山に個性があります。高さだけではなくて、山の品格というものがありました。どんな山でも登るのは大変ですが、頂上に立ったときの感慨、感無量、それから降りてきたときの爽快感はなんともいえません。やはり自分の足で成し遂げたことは、替えがたい楽しみです。
今でも登山は好きなのですが、最近は携帯電話ができたので、どこにいても当直の先生から連絡が届いてしまいます。山に登っていて救急手術があると、急いで降りてくるのが大変なので、最近はあまり行かれなくなりました。携帯電話が生活を変えた1例といえましょう。その代わり手軽に近くでできることとして、50歳過ぎからテニスに凝っています。テニスはシングルスが好きで、大会にも時々出ていますが、勝率はまだ平均2割台です。それから、やはり仕事柄体を鍛えなければならないので、ランニングもしています。
■病院のスタッフとチームを組んで、マラソンをされていると聞いたのですが。
もともとは仕事のため、手術のために体力を鍛えなければと思いジムでトレーニングをしていたのですが、それ自体が面白くなってしまって駅伝などにチームを作って出場しています。医局のメンバーだけでなく、看護師さんや薬局のメンバー、医師会の先生方、他病院・他科のドクター、製薬会社の方、学生などと一緒に、「杏林走遊会」という幟まで作り、毎年皆で春秋の2回出ています。走っていて、速い人には何十人に抜かれても平気ですが、抜くときの気分は快感そのものです。特に、知っているランナーを抜くときには最高の気分です。
■心臓血管外科を専門に選んだ理由を教えてください。
外科というのは診断ももちろんありますが、治療が主です。患者さんを治すということに関しては外科の方がいいなと思い、まず外科を志しました。研修医の頃は、消化器外科や小児外科、呼吸器外科など、外科の診療科をローテーションで回るのですが、心臓血管外科を研修したときに、とてもいい先輩に出会いました。その先輩は難しい病気の患者さんを見事に回復させて、私はそれを目の当たりにしたものですから心臓外科をやろうと決めたのです。当時は心臓外科の黎明期でしたので、手術も手術後も大変でした。大動脈瘤の手術も「左開胸冬景色」などといわれておりました。しかし手術が成功した患者さんの回復振りは顕著なものでしたので、やりがいのある仕事だと思うようになりました。
■医師になって、強く印象に残っているエピソードはありますか?
当時の東大教授が行った手術ですが、大動脈弁の手術で新しい人工の心臓弁を輸入して使用した患者さんのことは、今でもお名前を覚えています。20歳くらいで、重症の弁膜症の患者さんでした。手術後もなかなか回復しませんでしたし、手術直後は不整脈も出て心臓マッサージをおこなったりもしました。けれど徐々に落ち着いてきて、ある日、夜泊り込んで暗い回復室の中でモニターを診ていたときに、心電図はそれまで不整脈だったのですがぴたっと正常の脈に戻って、血圧もぐっと上がって、それから見違えるほど回復したということがありました。それは、本当に感動的なことでした。
それから、研修医が終わった後は外の病院での一般外科の研修が始まるのですが、私は静岡の病院に行きました。そのときの患者さんですが、30歳くらいの男性が草野球をしていて、外野手同士がぶつかって腹部打撲で運ばれてきました。診療をしてみると十二指腸破裂でしたので直ぐに手術をしたのですが、術後もすい臓から漏れた液がまた十二指腸を溶かしてしまい、治りにくい状態が続いていました。もちろん、その間は十二指腸に穴が開いているので食事が取れませんでした。当時の末梢点滴からの栄養補給では不十分で、見る見るうちにやせ細ってきたのですが、その頃、たまたま文献で経静脈高濃度栄養という新しい手法ができたというのを読みました。それは中心静脈までカテーテルを入れて、そこから高濃度の栄養を補給する方法でした。現在では当たり前の方法です。ところが、そのような道具は当時、日本ではできていませんでしたので、それまであった大動脈穿刺造影用の長いカテラン針を応用して、苦労して中心静脈まで入れて高濃度栄養剤を注入し患者さんを回復させたということがありました。そのときは、やはりうれしかったです。
患者さんがよくなったというのももちろんですが、新しいことを真似て、なんとか工夫して物にしたということも、うれしかったです。
■医師になって「困った」と感じたことはありますか?
若いころですと、やはり家庭のことです。
3人子供がいて、上の2人が男の子なのですが、一番上の男の子に「医者になるか?」と聞いたら「嫌だ、医者にはなりたくない」と言われました。なぜかと聞いたら「子供と一緒に遊んであげられないから、医者にはなりたくない」と言われました。これを聞いたときは言葉にならない思いがありました。
確かに、若い頃は大きな手術があるときは、術後の経過を見なければならないので、1週間分の着替えをバッグに入れて、女房に別れを告げて泊り込みで仕事をすることもたくさんありましたので。
それでも家族が仲良くしていられるのは、私も含めて面倒を見てくれた女房のおかげだと思います。
■杏林大学病院について、思うことはありますか?
杏林大学病院に来て、今年の10月で23年になります。
23年前、当時私は広尾日赤にいたのですが、東大のときにお世話になり大変尊敬している水野 明 先生が東大から杏林に教授として移られました。そのときに、水野先生が「一緒に杏林に行かないか」と声をかけてくださったのが杏林に来るきっかけでした。
当時、杏林に移るにあたって自分で色々と調べたのですが、まず杏林大学は多摩の広範囲な約300万人の人口を背景にしていること、近くに大きな大学病院がないこと。それから実際に病院を見に来て、構内の緑が豊かなことに感心しました。また、病理・剖検年鑑を見ても、まだまだ伸びる余地が残っている病院だと感じまして、ここならやりがいがあると確信して杏林大学を選びました。
23年の間には色々ありました。スタッフもたくさん変わりましたし、治療法も格段の進歩がありました。昔は苦労していた治療も、最近ではスムーズに上手くいくようになりました。心臓血管外科のスタッフも優秀な方たちが来てくれて、最高のスタッフで、最高の治療が行われています。
私はあと2年足らずで定年退職ですが、あとを安心して任せられるスタッフがいま揃っています。他科のスタッフも管理スタッフにより、情実人事にとらわれない世代交代が行われ、格段にレベルアップがはかられております。
■最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします。
病気の中には「症状が重いのに軽い疾患である」という病気がありますが、心臓血管の病気に関しては「症状が軽いのに重い疾患である」という病気がたくさんあります。症状が出てからでは遅いので、ある程度の年齢になりましたら、コマメに健康診断を受けることを心がけてください。進行する前に治療を受けるのが一番大切です。
大事は軽く、小事は重く
やるのに大変なことは躊躇せず、迅速に決断をして早く対応しなければならない。逆に、小さいことだからといって軽く考えて、気軽に、粗悪に対応してはいけない。
座右の銘というほど大それたものはありませんが、常日頃から心がけていることです。
取材担当
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