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※毎月更新予定

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長い患者生活の経験が、医師になった今役に立っています

9月のドクター紹介は、杏林大学看護専門学校の校長も務めている呼吸器内科の後藤 元 教授をご紹介します。

後藤 元
名前 後藤 元 (ごとう はじめ)
年齢・血液型 61歳(昭和23年1月2日生まれ)・B型
趣味 音楽鑑賞(クラシック):自分で作った真空管のアンプを使ってレコードを楽しんでいます。夏の暑いときは、北欧の音楽家シベリウスの曲などを聴いています。北欧の作曲家は音がひんやりした感じがするので、いまの季節は好んで聴いています。
絵画鑑賞:三鷹で高島野十郎展をやったとき、私も見に行きました。杏林の病院長室に野十郎の絵が飾ってあるのですが、院長室で会議があったとき、目の前に野十郎の絵があって、間近で1時間ほど鑑賞できたときは幸せでした。
専門 内科学、呼吸器病学、感染症学
外来日 月曜日・木曜日 午前
所属 呼吸器内科 教授
プロフィール 昭和23年 静岡県引佐郡に生まれる。
昭和48年 東京大学医学部卒業
昭和55年 東京大学医科学研究所助手
昭和56年 自治医科大学講師
昭和59年 スエーデン王立エーテボリ大学医学部客員研究員
平成3年 東京大学医科学研究所助教授
平成9年 東京都立駒込病院内科部長
平成13年 杏林大学医学部呼吸器内科教授
平成20年 杏林大学医学部附属看護専門学校長

■小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
生まれは静岡県引佐(いなさ)郡というところです。浜松からずっと北へ行った山の中にある、自然に囲まれたところでした。 その後、名古屋に引っ越し、小学校からは長崎に行き5年生まで過ごして、また名古屋に戻るなど、各地を転々としていました。私の父は転勤の多い仕事でしたので、引っ越しだけは随分しましたが、引佐郡は母の実家でしたので夏休みには帰省していました。名古屋に移ってからも引佐郡にいったり来たりしていました。

引佐郡は、まさに山の田舎町でした。子供達の遊びは野山を駆け回ったり、川で水遊びをしたり、三角ベースや相撲、缶けりや探偵ごっこなどでした。私は体が大きかったので、わりあい相撲が強いほうでした。そのためか大将的な存在でしたが、おとなしめのガキ大将でした。

長崎に引っ越したときも、同じような遊びをしていました。母親は静岡と長崎の雰囲気の違いにカルチャーショックを受けていたかもしれませんが、子供の世界はそんなことも気にせず、学校が終わったら友達とあっちへ出かけ、こっちへ出かけと走り回っていました。

昭和20年の終わりごろの長崎は、まだ貧しい時代でした。年に2~3回ほど、私が住んでいる村から長崎の街中へ親に連れて行ってもらったのですが、その時代はまだ原爆のあとが残っていて、浦上天主堂は崩れたままで、彫刻も地面にそのまま散らばっているようなときでした。

■ その後、再び名古屋に戻り高校生まで過ごされたそうですが、学生時代の思い出は?
中学1年生のときですが、突然高熱を出して病院に行き、そのまま入院することになってしまいました。そしてその後は、高校生まで患者生活を送っていました。ですから、私の学生時代は、病気が治るまでの長い長いトンネルにいるような感じでした。

中学生というのは、とても感受性が豊かな時期ですので、お医者さんや看護師さんの接し方で「すごくうれしい」と感じることもあれば、「とてもつらい」と思うこともたくさんありました。
たとえば、PSP排泄試験という腎臓の機能を見る検査があるのですが、これは前もって何百ccもの水を飲んで、15分ごとなど決まった時間に尿検査をしなければならないのです。けれど、10代の男の子にとって、排泄時間を強制されて、何度も何度も検査をさせられるのは、こちらとしては困るものがあります。お手洗いの中で「どうしたものか・・・」と考え込んで、辛い思いをした記憶があります。しかし、お医者さんはその過程のつらさは見ていなくて、検査結果の数値だけを見ます。けれどひとつの数値の裏には色々な背景や気持ちがあるものなのです。

まえに「医者が患者になったとき」という本がありましたが、私の場合は「患者が医者になったとき」という状況です。そのときの経験は、医師になったあと、患者さんの背景を考える助けになっていると思います。

■ それでは、先生が医師を目指したのは、入院生活を送ったことがきっかけになっているのでしょうか。それにしても、入院しながらの受験勉強は大変だったのではないですか?
そうですね、医師になろうと思ったのは、その入院生活も影響しているのだと思います。それから、もともと生物が好きで、中学生のときも理科部に所属していたくらいですから、医学とまではいかなくても理系の学問的な面白さは当時から感じていたと思います。

運動の制限はされていましたが、勉強の制限はされていませんでしたので、ごく普通には勉強していました。見学ばかりでしたので体育の成績は良くなかったのですが、それ以外の科目は普通には出来ていたと思います。勉強が好きだったかと聞かれると、そうでもなかったと思いますけれど。

■ 大学生になり、患者生活からいきなり東京で1人暮らしされたわけですが、そのときの思いなど覚えていますか?
大学生になって、まず思ったことは、長いトンネルを抜けたということです。東京への進学が決まって、柳ごうりにともかく必要なものをつめて昭和41年に上京したとき、まず降り立ったのは東京の吉祥寺駅でした。東大に進学したのですが、当院の心臓血管外科の須藤教授と同じく、東大の三鷹学生療に入りました。
その頃は、武蔵野の自然がいまよりももっと残っていて、麦畑があり、ひばりも鳴いていました。散歩をして本当に国木田独歩の「武蔵野」の世界があるな、と感じた記憶があります。まだ杏林大学病院はなくて、前身の新川病院の時代でした。

東大の三鷹寮は旧制の東京高等学校の校舎を寮にしたものでした。そのため、部屋といってももともとの教室を部屋にしたものでしたので、個室など無くて、ただ広い教室に2段ベッドを4つ備えてある8人部屋でした。そこでは地方から出てきた若者8人が、わいわいと話をして過ごしました。その寮生活は、いま思い返しても印象深いものです。

8人も一部屋にいるので、全員が寝ていることなどまずありません。かならず誰かしらは起きていて、毎日がてんやわんやでした。三鷹は都心よりもまだ2~3度は気温が低かったので、腰板をはがしてストーブにくべる人もいました。

当時は、学生運動が始まり、安田講堂事件や三島事件、ベトナム戦争が始まるなど、激動の時代でした。
8人の仲間とは、よくいろんなことを討論して、様々なことを深く考える時間を共有しました。この友人たちと話し、自分のことを深く考えるようになったのですが、最終的に医師になろうと決意したのもこの時間があったからのように思います。

■ 医師になろうと決意したのは、どのような心境の変化があったのでしょうか。
大学に入学したときは、必ずしも医学部に進みたいと思っていたわけではありませんでした。東大のコースには、1・2年生の教養学部が終わったら理学部、農学部を主に学ぶ理系のコースがあります。私は生物が好きでしたので、最初はそのコースで学んでいました。

けれど、激動する時代に身をおいて、自分自身のことを考えるようになり、かつて自分が過ごしてきた中学・高校時代の影響もあってか、生物学の中でも人を対象とした学問をしてみようかと思うようになりました。最初はやはり不安でした。自分にできるかどうか自信がなかったのです。けれど、一度きりの人生なのでやってみようと決意しました。もし駄目だったら、諦めてまた他のことをやろうと思い、教養学部の2年間をかけて医学部進学を決めました。

医学部に入ってからは、最初に感じた不安は次第になくなってきました。医学部の定員は100人なのですが、100人の仲間ができて、いっしょに学んでいく中で医学の面白さや臨床の面白さが少しずつ体にしみこんできたと思います。嫌だと思うことよりも面白いなと思うことを徐々に感じていきました。

■呼吸器内科を専門にした理由は?
東大を卒業すると、東大本院や東大分院、東大医科学研究所病院の3つが主な臨床研修のフィールドでした。その中で、医科研病院は、伝染病治療の歴史があって、臨床が好きな先生方が多く集まっていました。私は研究にも興味がありましたが、臨床にとても興味があったので、そのような先生方がいる医科研病院での研修を選びました。

そこは主に伝染病の治療をしていましたが、伝染病の中でも呼吸器感染症が大きなエリアを占めていて、医科研病院には結核病棟もありましたので、呼吸器というのはメインの分野でした。その中で、呼吸器感染症をやっている先生がおられたのですが、その先生と出会えたことが専門を決める一つのきっかけでした。「先生と一緒に仕事をしたい」と思ったのが、呼吸器内科を専門にした理由です。自分の好きなフィールドで、すばらしい先生にめぐり合うことができた、この二つが理由になります。

日本感染症学会総会での会長講演。2009年。

■医師になってから一番思い出深い出来事を教えてください。
私は、日本で一例しかない症例を担当したことがありました。

伝染病の中に、第一類感染症というものがあります。これは危険度が高い伝染病ということで、天然痘やペストなどが入っています。その他に、わりと新しいもので人類を脅かしている病気として、エボラ出血熱やマールブルグ熱というものがあります。幸いなことに、このような病気はまだ日本には一例も入っていないのですが、それらと同じような病気にラッサ熱という病気があります。

ナイジェリアのラッサ村というところで、ある病院の看護師が突然高熱を出して、喉がはれ上がり、体中に皮下出血の症状が出て腎不全に陥るという病気がありました。これを発端に、他の看護師にも同じような症状が表れて、次第に村中にこの病気が蔓延したのです。
そして、その病気の研究をすることになったエール大学の学者が、検体を持ち帰りアメリカで研究を開始したところ、今度はその学者が感染しました。今では研究は制限されていて、ラッサ熱のウィルスを使った研究は、設備の整った専門施設でなければ行なえません。

それが日本で一度だけ、一例だけ発症例があるのです。その受け持ちが私だったのです。

当時、この疾病は日本では発症例が無かったので、誰も経験したことがありませんでした。
ある日、アフリカから帰国したばかりの患者さんが、体調が悪いと病院を受診しました。最初はマラリアではないかと思ったのですが、それでは説明がつかない所見が多くありました。そのため、もしかしたらラッサ熱ではないか、と疑いだしたのです。そこで、世界中の感染症研究のメッカであるアメリカの疾病予防センターの先生と連絡をとりながら診療や検査を続け、最終的にラッサ熱と確定診断をつけることができました。

初めての感染例である伝染病に対して、怖いという思いはありませんでした。それよりも、患者さんにとっては、ここが最後の砦でしたので何とかしたいという気持ちがありました。感染が拡大しないよう慎重に対応しました。患者さんは合併症も発症し、危険な状態ではあったのですが、なんとか回復し元気になったのです。
的確な診断と感染症の危険を防げたことに安心したとともに、無性にうれしく感じた出来事でした。

その後は、マスコミにも報告をしなければいけなかったため、朝早くから厚生省に出向いて、夜遅くまで缶詰状態になりました。インパクトが大きい報道になるので、綿密に会議を重ねて、ようやく開放されて大学に戻れたのは、夜の10時か11時ごろでした。病院に帰ったときに医局員がそうめんを作ってくれていました。お昼も食べる時間が無かったので、本当においしいと思った記憶があります。これまで食べた食事の中で、一番おいしかった食事のひとつになっています。

■先生はスエーデンに留学されていますが、そこでの思い出を教えてください。
スエーデン王立のエーテボリ大学医学部に留学をしました。ここでは感染症に関する環境医学を学びました。スエーデンで一番大きな街はストックホルムですが、エーテボリは二番目に大きな街です。デンマークに面したところにある、とてもきれいな街でした。海に面していて、街全体が森に囲まれていました。

仕事では、留学中は雑務がなくて、研究に集中できるのが恵まれていました。それから、とても長い夏休みがもらえました。多分、一生に一回くらいだと思うのですが、一月近く休みがもらえました。
この間は、家族をおんぼろ車に乗せて、北欧の国々を旅していました。

スエーデン留学時。1985年。

■杏林大学病院について思うことはありますか?
ひとつ記憶に残っていることがあります。8年前に、私が杏林大学病院に赴任してきたその日、今いる教授室は机1つしかなくて、あとは何もないがらんとした部屋でした。ここに座っていると、救急車のサイレンの音が聞こえてきました。私は「救急の方が搬送されたのか」と思いました。しばらくすると、また救急車のサイレンが聞こえました。「また次の患者さんが搬送されたのか」と思いました。そして、またしばらくすると、また次の救急車が来ました。
そのときに、杏林大学病院というのは多摩地区の300万の人口を背にした、医療の砦なのだと思ったのが、強くその日の印象に残っています。300万人というのは、東京都の全人口の3分の1か4分の1です。この地域に大学病院の本院があるは杏林だけです。それだけの責任のある医療施設であって、それだけの責務を果たし続けているのはすばらしいことだと思います。

呼吸器内科病棟にて。2007年。

校長を務めている医学部附属看護専門学校の教員の皆さんと。2008年。

■最後に、患者さんへのメッセージをどうぞ。
ひとつの病気でも、病気を引き起こす要因はいろいろなことが組み合わされていて、非常に複雑です。患者さんご自身も、社会的背景や精神的背景は、それぞれにお持ちです。そうすると、ひとつの同じ病気でも、100人いれば全く別々の100通りの病気があると思います。私は100人1人1人にあった、個別的な、テーラーメイド的な治療法を考えなければならないと思っています。けれど、それには患者さんとの意思の疎通やコミュニケーションが大切になります。患者さんからの情報を医師はもらって、医師は医療情報としてまた患者さんに提供します。お互いの話し合いの中から、その患者さんに現時点で適する治療法を提供するのが、いまの医療に求められていると思います。

そのために、患者さん側からも分からないことがあればどんどん質問して欲しいし、今後の社会生活の希望や要望を出してもらいたいと思います。医師と患者が双方納得できるまで話し合いをしていきたいと思います。

座右の銘

 一隅を照らす

ささやかであっても、患者さんの心に明るみを与えることができる医療が出来ればと願っています。

お気に入りの一枚

呼吸器内科の医局員とともに。2008年。

Best Teaching Department of the Yearを受賞したときの写真です。

これは、医学部学生の病棟実習指導において、学生教育に大いに貢献した診療科が表彰される制度です。学生による授業評価アンケートの結果で選ばれますが、呼吸器内科は昨年に続き2年連続の受賞となりました。

後藤先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

取材担当
企画運営室
広報・企画調査室







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