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臨床で起きた疑問を研究で解明し、患者さんにフィードバックする、それが私のスタンスです

10月のドクター紹介は、皮膚科の塩原 哲夫 教授の紹介です。
観察が好きだった子供時代や臨床で経験したエピソードなどを話してくれました。

塩原 哲夫
名前 塩原 哲夫 (しおはら てつお)
年齢・血液型 61歳(昭和23年9月7日生まれ)・O型
趣味 音楽鑑賞(クラシック):昔からモーツァルトやブラームス、バッハが好きでよく聴いています。 バイオリンをやった時期もあったのですが、始めるのが遅かったせいかうまくいかず、結局挫折して聴くことが専門になりました。
読書:特に司馬遼太郎が好きです。数々の作品のうち一番好きなのは「坂の上の雲」です。この本は40歳を過ぎてから読むと本当の良さが分かります。私は40代で読み、50代でもう一度読みました。
秋山真之と好古の兄弟が好きで、松山に行った時彼らが育った家や学校を見て歩きました。その際、弟の真之が学生時代に使った教科書を見たのですが、驚いたことに、教科書にはメモ書きが全くありませんでした。きっと聞いたことのエッセンスを直ぐに理解して覚えてしまう人だったのだろうと思いました。しかし、私はどちらかというと天才特有の弱さを持つ真之よりも、恵まれない境遇に耐え日本の騎兵隊を一から作り上げた努力型の好古の方に共感を覚えます。
専門 皮膚免疫学、アレルギー
外来日 月曜日・木曜日 午前
所属 皮膚科 教授
プロフィール 昭和23年 東京都杉並区に生まれる。
昭和48年慶應義塾大学医学部を卒業後、同大学院を経て同大助手、国立東京第二病院に勤務。昭和54年 杏林大学医学部 講師、昭和58年から60年まで米国コネチカット州ニューヘイブンのイェール大学医学部皮膚科学教室に留学。昭和63年 助教授、平成6年 教授に就任し現在に至る。
また、日本皮膚科学会理事、日本皮膚アレルギー学会・接触皮膚炎学会理事、独立行政法人医薬品医療機器総合機構専門委員も務めている。

■小さな頃は、どのようなお子さんでしたか?
東京都杉並区に生まれて、今もずっと生まれた所に住んでいます。今では杉並というと高級住宅街のイメージがあるかもしれませんが、私が子供の頃は落語にも出てくる妙法寺というお寺を中心とした門前町で、下町の雰囲気がありました。家の近くには畑や牧場があり、遊びは専ら妙法寺の境内や畑でした。

子供の頃は病気がちだったせいもあり、運動より虫や植物を観察したり、本を読むことの方が好きでした。虫の足に紐をつけて空に飛ばしてみたり、動物のヒゲを切ってみたりと好奇心旺盛でした。スポーツといえば野球より相撲という時代で、学校の休み時間にはクラスの友達を投げ飛ばしては悦に入っていました。何か疑問があると、どんな場所でも「どうしてこうなるの?」と母親を質問攻めにして困らせていたようです。母からは{恥ずかしいので、お願いだから電車やバスの中では質問しないで}と良く言われたのを、子供ながらに覚えています。

子供の頃から、自分で考えるということが何より好きでした。何かを観察しながら「こうなっているのではないか」、「もしかしたらこうかもしれない」とあれこれ空想するのが大好きでした。特に、病気をして寝ている時には、天井を見ながらいろいろな空想をしていました。夜空を望遠鏡で観察しては、何億光年も離れた宇宙への興味を募らせていました。百科事典や本が周りに一杯あり、いつもそれを読んでいましたので、学校の授業より本から学ぶことの方が遥かに多かったようです。

5歳の頃です。
なぜか木のそばで撮っている写真がたくさんあります。木が好きだったようです。

■ 子供の頃に憧れた職業は?
小さい頃は自宅に美術全集があり、なかでは余り子供らしくないのですが印象派のシスレーやピサロの画風に惹かれていたので、それを真似して水彩画でありながら、油絵風の絵を描いていました。自分では結構うまいと思っていたし、周りからもそう思われていたため、絵書きになろうとも思った時代もありました。

けれども、成長するうち自分より遥かに上手な人がいることがわかり、自分にはそれほどの才能がないということも良くわかってきて、やはり絵書きになるのは難しいだろうと思うようになったのです。その頃になると志望は科学者に変わっていましたが、それも漠然とした憧れのようなものでした。このような科学者への憧れは時代の風潮が大きかったように思います。私が生まれた頃、日本は敗戦からようやく立ち上がろうとしていた時期でしたが、そんな頃湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞を受賞し、科学こそがこれからの日本の生きる道だという気運が高まっていました。子供の頃、湯川博士の伝記を読んだ私は、自分は将来科学者になり、ノーベル賞をもらうような研究をしたい、という考えを漠然と持つようになりましたが、医師という選択肢も3番目くらいの希望としては持っていました。

■ それではいつごろから医師になろうと思ったのでしょうか?
私は自分が何になりたいかが分からないまま、受験勉強がいやでエスカレーターで大学まで行ける慶応に進学しました。その間、宇宙や考古学、地震研究などに憧れた時期もありました。最終的に医学部に進みたいと思うようになったのは高校の3年の秋ごろでした。医師になりたいと思うようになったきっかけはいくつかありますが、生まれたときに私を取り上げてくれた先生が、慶応の産科の先生だったというのも潜在的な理由の一つです。母はその先生が如何に素晴らしかったかを、子供の頃から繰り返し私に話してくれたからです。
実は私の母は、父の顔が好きじゃなかったようで、私の顔が父に似ないように祈っていたそうです。入院中はそのハンサムな産科の先生のような顔になってくれたらと、いつも思っていたそうです。残念ながらそうはなりませんでしたが。しかし、こういう発言が潜在意識の上で私の選択に影響を与えたことは否定できません。もちろん、それだけではなく、子供の頃、病気になるといつも往診してくださった小児科の先生の息子さんが慶応の医学部に進学したということも、私の中学か高校の時に聞かされました。そのようなことが頭にあって、何となく医学部には憧れていました。

現実的な理由は、精神科の古賀教授と似ています。慶応高校ではとりあえず医学部か工学部に進むことの出来るドイツ語のクラスに所属しており、最初は、父がエンジニアだったこともあり工学部を目指していました。けれど、実際に進路を決める段になると、当時の同級生は何となくイメージのいい医学部に行きたがる傾向がありました。私も迷ったのですが、ここにきて母の話が利いたのか、当初出していた工学部への進学希望を取り下げ、担任の先生に医学部へ志望を変更したいと申し出たのです。

ところが、担任の先生からは「君は英語が出来ないから、医学部には行かないほうがいい」と止められてしまいました。担任は英語の先生でしたので、私は英語が出来ないことをよく知っていたのです。そう言われると余計行きたくなるのが、私の性分でついに医学部に志望を変更してしまいました。

最後になると何とかうまくいってしまうのが私のいつものパターンなのですが、このときもうまく医学部に進学することができ、医師になる道を歩みだしたのです。

■ 慶応の医学部に進学し、どのような学生生活を送っていましたか?
大学では音楽とオーディオに熱中し、まるで音楽大学の学生のように、毎日上野の東京文化会館や秋葉原の電気街にばかり行っていました。録音機を担いで、音楽だけでなく街や自然の中の音を録音しては楽しんでいました。どうして音楽にこんなに夢中になったのかはよく分かりませんが、親戚に音楽好きが多いことからすると、遺伝的なものかもしれません。

当時はオーディオブームでしたので、機器の宣伝も兼ねて録音会というものがありました。ただの自己満足なのですが、そこでは色んな演奏を録音させてくれますので、自分で持って行ったマイクで音楽を録音して、それがいかに自宅の装置で臨場感よく、素晴らしい音で再生できるかを楽しんでいたように思います。

医師になってからは、当然そのような暇は無くなりましたが、アメリカに留学したときは時間があれば自然の広がる広大なキャンパスで、鳥の鳴き声や教会の鐘の音などを録音していました。

いつどこで撮ったのか忘れてしまいましたが、大学院時代の写真です。子供の頃と同じく、また木のそばで撮っていました。

83年に留学したイェール大学の構内です。手に持っているのは自前の録音機です。外国のいい音を取ろうと色々な機械を持っていったのですが、仕事が忙しくてあまり録る暇はありませんでした。

■ 音響が好きなことから耳鼻科を専門にするという選択肢はなかったのですか?皮膚科医になろうと思った理由を教えてください。
音響学に興味があり、確かに最初は耳鼻科を希望していました。耳鼻科の医者でありながら、オーディオ評論家という有名な先生がいたので、私も趣味を生かし、医者でオーディオ評論家になりたいと不純にも思っていたのです。

しかし、耳鼻科はあくまで病気を診るのが主体で、音響学をやるために耳鼻科に行くというのは余り賢い選択ではないことも分かってきました。さらに、同級生で耳鼻科へ入局を希望した人は私一人でしたので、かなり強引な勧誘を受けてしまい、それに耐えかねたこともあり耳鼻科は止めることにしたのです。免疫学に興味があったのでそれが生かせるリウマチ内科を次に希望したのですが、その当時、学園紛争が盛んで、内科の大学院で研究を続け博士号を取得することは体制寄りの自分勝手な人間のすることで、スト破りとみなされていました。その流れに逆らって内科の大学院に進んだ友人もいるのですが、私はそんなことをしてまで行ってもロクな研究は出来ないと考え、内科は断念することにしました。そこで考えた結果、余り人の行かない皮膚科なら、目立たず大学院で研究できるだろうと思ったことと、穏やかそうな先生が多かったこと、また、リウマチと同じような免疫の研究ができることなどを考え、皮膚科の大学院に進むことにしたのです。

■ 医師になりたての頃は、どのような経験をしましたか?
医師になりたての頃は、学生時代の気分が抜けず生意気なところがありましたので、誰かに何かを言われても必ずしも素直に言う通りにはせず、違う可能性はないだろうかとすぐ考えてしまいがちでした。大多数の意見だからというだけで、その通りにするのは苦手でした。

ところが、皮膚科に入ってしばらくたつと、そのような考えだけではいけないということがよく分かってきました。皮膚科というのは病名がたくさんあり、覚えていないと話にならないのです。知識のない者が何を言っても話を聞いてもらえませんし、良い考えが浮かんでくる筈もありません。遅ればせながら、自分には知識の蓄えがないことを思い知ったのです。

そこで、初めて真剣に勉強をし始めました。当時は免疫学が盛んになり始めた時期で、次々と面白い概念が発表され、私はそれに魅了されました。その頃、私は基礎の微生物学教室に国内留学をしていましたが、自分でテーマを見つけ、それに関する論文を読みあさりました。難しい論文を読めば読むほど新しい世界が広がり、こんなに面白い学問があったのかとここで初めて気付いたのです。仮説を立てそれを証明する楽しさに本当に目覚めたのは、大学院もそろそろ終わる頃だったように思います。

免疫の考え方や実験法は、とても自分の性格に合っており、一時は皮膚科を辞めて基礎の研究者になろうかとも思いました。しかし、この考えを皮膚科に持ち込んで研究を進め、それを皮膚疾患の治療に生かしてこそ医者としてやりがいのある人生ではないかと考え直し、皮膚科を辞めることは思いとどまりました。その頃になると、通説に対する反論も自分のデータに基づいて言えるようになり、学会である程度叩かれても、論理的に反論できるようになりましたし、英語の論文も自分でどんどん書けるようになりました。そうなると、私の考えも広く受け入れられるようになり、そのようなことを繰り返すうちに自信もついてきました。このようになって初めて、自分がここまで来られたのは多くの人々の協力があってこそ、というごく当たり前の感謝の気持ちが身に沁みてわいてきました。

海外の学会に参加したら、時間があるときは観光もします。これはドイツの学会に参加したときの写真です。

杏林大学の教授に就任してすぐ、医局員たちと撮った写真です。

■ 医師になって思い出に残っているエピソードを一つ教えてください。
私はよく研究ばかりしていると思われがちですが、実はそれに負けないくらい臨床で患者さんに接している時間を大事にしています。臨床で起きた疑問を研究で解明し、それを患者さんにフィードバックするというのが私の研究に対するスタンスだからです。私の研究はあくまでも臨床があってのものだと思っています。

私が教授になる少し前のことですが、同じような症状の患者さんが次々と入院されました。いろいろ治療し一時は良くなるのですが、努力のかいもなく多くは良い結果につながりませんでした。この病気には薬剤が関係しているというのは分かったのですが、その薬剤を中止しているのに、次々と患者さんの状態は悪化してゆくのです。皮膚科だけでなく内科や脳神経外科など様々な臨床科が関係してくる病気で、その本態は謎に包まれていました。当時、このような患者さんを前にしてこれを解明出来ない自分が悔しくて仕方ありませんでした。これを解明出来なければ、自分は医者になった甲斐がない、とさえ思ったものです。

そのような時に、ある論文を読み「この病気にはもしかしたら潜伏感染しているウィルスが関係しているかもしれない」という考えが、突然浮かんだのです。それを証明するため教室員の多大な協力を得て、最終的にどのような仕組みで病気が悪化してくるのかを立証することができたのです。この病気では、ヘルペスウィルスの再活性化が次々と起こる結果、薬剤を中止しても病気がどんどん悪くなる事が分かりました。厚生労働省の研究班を立ち上げ、薬剤性過敏症症候群(DIHS)という診断名をつけ、世界に向けて発信することが出来ました。現在では、この病気の概念も一般化し、治療法も確立されました。外国の見ず知らずの医師から治療に困っているとの相談を受け、無事治って感謝された時は医師としてこれに勝る喜びはありませんでした。患者さんの治療に直接繫がるような仕事が出来たことは、私の最も喜びとするところで、こんなにやりがいのある仕事はないと思っています。

■ 杏林大学病院に思うことはありますか?
私が杏林大学に赴任したとき最初に感じたことは、自分の大学に誇りを持つ学生が少ないという点でした。当時はそう思うのも仕方がない面もあったのですが、それなら尚更自分の力で自分の学校を良くしようと何故思わないのだろうと残念に思ったものです。しかし、最近は入試の難易度も国試の合格率も上がり、優秀な学生が多く集まるようになり杏林の医学部に対する評価も格段に上がりました。スタッフも優秀で他の大学にいないような親切な先生が多く、正直言って杏林に残った方が遥かに良い研修を受けられるのに、と思うことがしばしばです。自分が所属している組織を自分の力で良くし、杏林に卒業して良かったと思えるように努力するのが、組織に属しているものの使命だと思います。そう思う人がもっと増えてくれば、杏林はもっともっと素晴らしい大学になるはずです。

■ それでは、患者さんへメッセージをお願いします。
最近は、インターネットで医療や医師の情報を調べてから来院する患者さんが多くなりました。実際に診療をする前から、自分で病名を調べて、こういう病名だからこういう治療をしてくださいなどと、先入観を持って来院される方もおられます。これが当たっている場合もあるのですが、逆に不安を募らせて来院される患者さんも少なくありません。ネットで得られる情報は、副作用などマイナス面が書かれていることが多く、患者さんを不安に陥れがちです。患者さんにとって、希望を持つことは治療の一歩です。そのためには、必要のないマイナス情報は知らない方が幸せという面もあります。悪い情報を沢山入れても、なお希望を持てる人は、よっぽど心の強い人です。ほとんどの方は悪い情報が入るほど、気は弱くなります。どのような状況にあっても、患者さんは希望を持たねば治療効果は上がりません。希望を失わせるような医療であってはならないと思います。出来れば受診前には余りネットの情報に頼らず、白紙の状態で我々の医療を受けて欲しいと思います。我々の仕事は、多くの専門的な情報を咀嚼して患者さんに伝えることであり、その結果少しでも患者さんが希望を持てれば、と思っているからです。

座右の銘

 朝の来ない夜はない

自分が今不幸のどん底だと思っても、やがて必ずいいことがある。そういう希望を持たなければ、人間は生きてはいけないのだということを、いつも思っています。私も留学中、本当に苦しい時期がありました。でもそれがあったからこそ頑張れた、と今では感謝しています。

それからもう一つ、指揮者のレナード・バーンスタインが言った私のとても好きな言葉があります。

 幸せであるために必要なことは、1日に何か一つ理由あればいい。つまり、それを幸せと感じる心さえあればいい、というものです。

現代は昔と比べ、物資的には非常に豊かになりました。しかし、いくら物質的に豊かになっても、決して幸せは得られません。幸せは心の中にあります。他の人にはどんなにつまらない些細なことのように見えても、一日に何か一つ良かったと思えることがあればそれで十分だと考える人は、きっと幸せな人生を過ごせるでしょう。

塩原先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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