当院のドクター紹介

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ドクター紹介詳細

※毎月更新予定

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1人の力には限界がある。医療はチーム医療です。

11月のドクター紹介は、放射線科の似鳥 俊明 教授の紹介です。
「人生いかにいくべきか」悩みの多い学生時代、医師になったエピソードを教えていただきました。

似鳥 俊明
名前 似鳥 俊明 (にたとり としあき)
年齢・血液型 58歳(昭和26年9月4日生まれ)・B型
趣味 音楽鑑賞:音が鳴るものなら何でも好きです。民謡からオペラまで何でも聴きます。最近は、ポルトガルのファドという音楽に凝っています。
大航海時代に伴侶が海に出て戻らない悲しみを歌ったところから始まった音楽とされ、2本のギターで哀愁タップリに歌われます。シャンソンより泥臭く、味わい深いものです。ポルトガルの演歌といったところでしょうか?
オペラ鑑賞:オペラは、歌はもちろん、オーケストラの演奏、踊り、演劇の要素が凝集する総合芸術です。舞台装置もすばらしいのです。小澤征二さんが指揮をするときは、建築家の安藤忠雄さんが舞台を担当したりします。作る側も大変ですが、見る側も時間とお金がかかるので、なかなか余裕がないと出かけられません。最近はちょっとご無沙汰です。DVDはたくさん持っています。
駅伝:杏林大学には心臓血管外科の須藤教授がまとめている15もの駅伝チームがあり、そろって毎年二回の大会に出場しています。私自身もその一員で、現役の駅伝選手なのです。
専門 Interventional Radiology、画像診断全般
外来手術日 月・水・金
(不定期に適宜行っています)
所属 放射線科 教授
プロフィール 1951年 岩手県に生まれる。
1978年 岩手医科大学医学部卒業
      東京大学医学部付属病院外科系研修医
1983年 杏林大学放射線医学教室助手
1989年 米国カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)留学
1994年 杏林大学医学部放射線医学教室助教授
2001年 同教授

■小さな頃の思い出を教えてください。
私は岩手県の出身です。父は地方の銀行員でしたので、転勤が多く2-3年ごとに引っ越しをしていました。小学校は3つ経験しています。友達ができては別れなければいけないというわけで、当時は「転校生」というレッテルをじぶんに貼っているようなところがあったように思います。

ようやく決まった友達ができてきたのは、高校生からです。個性ある友人たちとの出会いが毎日あり、刺激的で楽しかった。そのころの友人の数人とは今でも家族ぐるみの深い付き合いをしております。もう40年の付き合いです。東京にいる連中とは月に1度は必ず会って飲み会をしていますが、様々な職種の友人との会話は、いやでもいろんな世界を教えてくれます。

4歳の頃です。昔は移動動物園というのがあって、学校の校庭に動物園がやってきました。

■ どのような高校生でしたか?
私はハムレットのような少年でした。「人生いかにいくべきか」という類のことを、15、16歳の頃からいつも考えていました。「なぜ生まれてきたのか」から始まって、様々なことに悩んでいました。悩みが多くて、多すぎるがゆえに先のことを決められない優柔不断な子供だったと思います。 将来何になるかを決められないのはもちろん、高校2年生になって理科系か文科系かどちらに進むかでさえ、決められませんでした。そのため、文系にも理系にも行かれるように、どちらの勉強もしていました。受験対策上は非効率この上無いことです。 ただ、何か自分が納得できるような職業につきたいとはずっと思っていました。そこで考えていたのは弁護士か医者になることでしたが、一時期は政治家になりたいと思ったときもありました。 社会的なことで自分も役に立つというのを実感したかったのだと思います。

高校時代。悩み多き時期だったことが表情から伝わる1枚です。

■ 悩みの多い中で、なぜ医師になろうとおもったのですか?
実は、直ぐに医師を目指して医学部に入ったわけではありませんでした。

医学部に入る前に、私は早稲田の法学部に通っていました。 当時、水俣病やイタイイタイ病がマスコミでクローズアップされている時で、弁護士になって公害訴訟を担当したいと思ったのがきっかけでした。
けれど、1970年の当時は学生運動が華やかな時期で、仲間と社会について様々なことをディスカッションしているうちに、また実際に法学部の勉強をしてみて、自分が思い描いていた道とは違うのでは・・・などと思い始め、大学がロックアウトで閉鎖されたのを機会にまた受験勉強をはじめ、高校時代に考えていたもう一つの道、医学部に入りなおしたのです。綺麗に言えばそうなりますが、ドタバタの青春時代でした。

■ 医師になってからも、専門を決めるときなど悩むことが多かったのではないですか?
医者になってからも「あれもやりたい、これもやりたい」という思いが強すぎて、なかなか専門が決められず苦労しました。

私は放射線科医になる前に、実は一度外科医になっています。 大学は岩手医大でしたが、卒業後2年間東京大学で外科系の研修を受けたあと、岩手医大に戻って心臓血管外科の医局に入局しました。そこで2年間勤めた後、志願して無医村に近い過疎地の病院で1年半勤務しました。完全な無医村ではありませんでしたので、町の名誉のためにも以後その意味を込めて“無医村”と表記してください。

“無医村”での勤務が終わる頃、医師になって5年がたった頃でしたが、一つの画期的な治療法に興味をもつようになりました。それが、私が放射線科医に転身するきっかけとなったものでした。
その治療法とは、外科的手術をせず、血管の中から病気を治すIVR(Interventional Radiology)というカテーテルを使った治療です。

■ IVR(Interventional Radiology)は、具体的にどのような病気に使われる治療法ですか?
IVRは、主に足に起こることが多い閉塞性動脈硬化症(コレステロールなどが溜まり、血管が狭くなったり、詰まることで、十分な血液が流れにくくなる病気)などの治療に用います。歩き始めたときは良いけれど、50Mくらい歩くと足が痛くなってくる。そしてしばらく休むとまた歩けるようになるという症状を持っている方は、たいていこの病気です。筋肉は運動により酸素を消費しますが、十分な供給がないため痛みが起こるのです。そもそも血管が細いのが血流不足の原因なので、風船を仕込んだカテーテルを血管に挿入し風船を広げることで、血管の幅を広げ血液の流れをよくしてあげます。これがIVRの代表的な経皮血管形成術PTAです。この技術は心臓の病気や脳の病気にも用いられますが、心臓は循環器内科が、脳血管は脳外科医が、それ以外の領域は放射線科医が担当することが多く、杏林大学でもそれが原則です。

またがん治療もIVRの技術で行います。がんの中で血液を欲しがるがんがあります。たとえば肝細胞癌や腎細胞癌などです。がんは手術で全て取れるのであればそれが一番ですけれど、取れないような状況や、患者さんに浸襲を加えないで行うには、カテーテルを用いて治療をします。供給する血管の根元に詰め物をして、それと一緒に高濃度の抗がん剤を入れ込む治療法です。抗がん剤を全身に使うと副作用が多いのですが、がんにだけ注入することで副作用少なくがんをなくしたり、とても小さくすることができます。このようなカテーテルを使った直接的な治療法を、IVR(Interventional Radiology)と言います。

■ 非浸襲的治療の先駆けとなった治療法なのですね。
いまは胆嚢を取るのに大きくお腹を開けることはなくなりましたが、これは20年前には考えられないことでした。内視鏡や管を使って手術をするようなミニマムサージェリーの先駆けとなったのが、カテーテルを使い血管の中から手術をしようというこの放射線科のIVRだと思っています。

このような治療をなぜ放射線科医が始めたのかというのを不思議に思う方もおられるかと思います。
いまでこそ放射線科の画像診断はMRIやCTなどコンピュータを使った大型機械を使って行っていますが、30年くらい前には1部の研究所、大学病院でやられているだけのものでした。一般に普及したのはここ20年くらいです。

30年以上前までは血管撮影が花形でした。病気の画像診断をするには、カテーテルから造影剤を流して、血管の状況を見て、がんや血腫、心筋梗塞などの診断をしていました。それがいまのようなコンピュータ画像に変わってきたために、血管撮影の技術はすたれてしまうかのように見えました。けれど、時期を同じにして、体の一部を切って病気の部分を取り出すという手術のやり方から、患者さんの負担をもっと減らした手術をしようという動きが起こりました。それには、このカテーテルの診断技術を応用できるのではないか、と考えられるようになったのです。そのような技術は、前述の事情から放射線科医が得意としていたものです。

そこで、放射線科医のIVRグループはテクニカルなサポートをしてくれる人たちと共同して、経皮血管形成術とか選択的動脈塞栓術を開発したのです。
この分野は現代医療にとても大きな影響を与えたと思っています。

私は黎明期であったこの治療法に興味をもち、「これを専門にしよう」と決意したのです。そして、関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)から杏林大学放射線科に移動されたばかりの、当時先駆者の一人であった蜂屋順一先生の門をたたき、以来28年間杏林大学でお世話になっています。

1980年逓信病院の読影室で。蜂屋順一先生(故人)と是永建雄先生(東京逓信病院部長)と一緒に。

■“無医村”ではどのような体験をしましたか?
私は、お話してきたように、標準が定まる前はあれこれ迷ってばかりでしたが、一人で何でも出来る医者になりたいとも思っていました。無医村に行って、手術をしたり、保健活動や衛生活動もやってみたいとも思っていました。

そして、それが30歳の時に実際に体験できることになったのです。奨学生の義務でもあったへき地医療従事を前倒しにして、院長先生の急病で無医村化し窮乏していた県立病院へ行くことを志願しました。けれど、実際にいってみるとそんなに容易なものではありませんでした。私のような半人前の1医者ができることは限られているという現実を痛感しました。

岩手県のある過疎地でした。盛岡市から車で2時間のこの町は東京都の1/6の面積に人口6000人という過疎の町で、ここでは何でも診察しました。小児の風邪からお年寄りの腰痛・膝痛、骨折の治療、1人で虫垂炎の手術をしたこともあります。

いろいろなことをしましたが、全てが不安で仕方がありませんでした。もちろん、救急車で20kmほど離れた総合病院に運ぶこともできたのですが、町民の期待はあつく、なるべく自分のところで診察をしたいという思いもありましたので、1年半がんばりました。けれど、とても辛かったです。院長代理として病院敷地内の官舎に泊まり込み、看護師や技師とはもちろん、事務の方とも深くお付き合いをしましたが、彼らには本当に助けてもらいました。 そこで身をもって体験したのは、「医療はチーム医療」だということです。1人でやれることには限りがあります。

これは放射線科を選んだ動機の一つでもあると思いますし、放射線科医としての支えでもあります。 放射線科医は、内科や外科などの診療科のように、診察室で患者さんの診察をすることはあまりありません。主治医から依頼をされて、カテーテル治療や画像診断をします。画像診断については、他の診療科の先生方もCTやMRIの診断はできます。けれどそれを専門にしている放射線科診断医と同一のレベルであるか否かの問いには、個人差を無視したら否というのが、放射線科医の立場です。

現代の医療は、まず患者さんを診察する人、検査をする人、手術をする人、手術をするのに麻酔をかける人、術後の管理をする人、それぞれの専門家が協力してはじめて成り立つ高度なものです。 私が昔考えたようなスーパーマン的な何でも出来る人というのは望ましいけれど、現代医療では無理です。レベルが高くなればなるほど、分業しなければなりません。それを上手くチームとして連携し、お互いを監視しながら切磋琢磨していくのが、いい医療に繋がるのです。

放射線科医は特に他の科をつなぐ歯車であるべきだと思っています。他の科と共同で、時にはお互いに監視をしながらすすむ現代の医療の中で果たす役割というのは非常に大きなものがあります。

30歳のときです。この頃、無医村で医師をしていました。

■ チーム医療と同じく、先生は職種の壁を越えて駅伝チームを作られているそうですね。
実は、私は現役の駅伝の選手なのです。心臓外科の須藤教授もこのコーナーで駅伝の話をされていましたが、杏林大学には須藤教授をまとめ役にして15あまりのチームがあり、春は横浜駅伝、秋には河原駅伝に出場しています。春は7人、秋は6人のチームを組んで、分担して42.195キロを走ります。
手術室、薬局、病棟など、職場ごとにチームを作っていて、私は放射線科チームを束ねています。私のチームは医師と放射線技師、看護師などで構成されており、2チームに分けています。ちなみに、チーム名は「タートルズ」と「スッポン」です。この駅伝には、200から300組が出場しますが、そのうちの約15組が杏林大学です。大派閥です。杏林走遊会という旗も作って一か所にまとまり、走り終えた人からバーベキューなどで盛り上がっていますので、いつも他の参加者から、杏林大学はすごいなと注目されています。

杏林走遊会のメンバーと。

それから、私は2009東京マラソンにも出場して42.195キロを完走したことも自慢させてください。 皆で応募をしたのですが、放射線科チームの中で抽選に当たったのは私だけでした。皆が外れてしまった手前、どうしても完走しなければ許されないと、プレッシャーを感じながらの出場でした。 駅伝の仲間たちが色々なところで応援してくれましたし、家族も銀座4丁目付近で浅草までの往復を応援してくれました。天候も悪くやはり大変でしたが、6時半かけて走りきりました。来年の大会にも既に応募しています。

聖路加病院の前を走っているときは、まだ元気でした。

だんだん辛くなってきました。

感動のゴールを迎えました。(2009東京マラソン)

■医師の仕事をするなかで、うれしさや喜びを感じるのはどのようなときですか?
IVRの手技で、ほとんど歩けなかった患者さんが、退院するときには自由に歩けるようになり、外来に来たときには医局によってうれしい報告をしてくれる方が何人もいます。「この前、何年かぶりにゴルフをしました」とか「ハイキングをしました」と、ご家族を連れて報告しにきてくれるのです。
その中でも、ある患者さんがお亡くなりになったとき、奥様からいただいたお手紙がとてもうれしかったです。そのお手紙には「歩けなかったのが、あの技術のおかげで歩けるようになったことを主人はとても喜んでいて、いつも感謝していました。亡くなる直前までずっと話していました。」というお礼状を、お葬式のあとにいただきました。忘れられない患者さんでした。

それから診断のことでは、私の知人の仕事上の恩人が、杏林大学で肺がんの手術をして治ったそうです。それは非常に珍しい肺がんで、こんな早い時期には普通見つからず、後々苦労する病気だったのですが、他の病気での検診の際に見つかったため助かったそうです。現代の医学はすごいですね、杏林大学はありがたいですねと感謝されたのですが、その診断をしたのは、私ら放射線科の担当者たちでした。 私たち放射線科医は、正面で患者さんと向きあってお話しする機会はあまりありません。けれど、そういうことがめぐりめぐって、伝わってくるのがとてもうれしいものです。

他科の先生にほめられるのもやっぱりうれしいですね。「あの時先生達に診断してもらった患者さん、よくなりましたよ。」と声をかけてもらえると励みになります。仲間の中で役目を果たせていると、実感できる時が最高ですね。

■ 杏林大学病院について思うことはありますか?
社会や医療界の大きな変化の先駆けをしながら、うまく変貌を遂げることが出来たなと思います。私がお世話になった28年間に、病院の建物はほとんど建て替えられ、清潔で明るい超近代的な病院になりましたが、中身の変化には更に大きいものがあります。スタッフの数も増え、患者の立場に立ち病院を円滑に運営するための様々な組織が出来ました。入学試験の制度も、全国私立大学中最もクリアーな制度になり、学生の質も大きく向上しました。進歩のスピードがとにかく速かったと感じます。

放射線科の機械に関しても、私が来た28年前は、MRIは無く、血管撮影の機械が2台、CTが1台でした。それがいまはMRIは4台、血管撮影の機械が4台、CTは治療専用機を加えて6台、他の装置も増え、放射線科の組織としては、人も機械も3倍くらいになりました。仕事量は5倍くらいでしょうか?

私は杏林大学にお世話になる前はあれこれと動き回っていましたけれど、ここに来てからはずっと変わりません。そんな私を見て、古くからの友人からは「似鳥が同じ場所に25年以上もいるのが信じられない」と言われます。「小学校は2~3年ごとに変わって、法学部にいったかと思ったら医学部に行って、外科医になったかと思ったら僻地医療の医者になって、今度は放射線科医になったような奴だったのに・・・」と。 28年間ずっと動かずにいるのは、きっと杏林大学の居心地が良くて、ここで自分のやるべきことを見つけられたからだと思います。

1995年、放射線科の医局メンバーと。私が医局長だったころの写真です。今はこの10人増しです。

■ 放射線科で取り組んでいるアメリカ式の教育方法を教えてください。
39歳のころ、カルフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)に留学しました。お話した血管を広げるカテーテル治療の勉強と、卒後教育の合理的なシステムを学びたかったからです。

留学中はライセンスの関係で治療は出来ないのですが、アメリカの医師の管理のもと、少し手術を手伝ったことはありました。というのも、血管を広げる治療はアメリカのほうが上手でしたが、腫瘍に対する治療は日本のほうが少しリードしていました。そのため、腫瘍の治療のときには「トシはどこにいった?」といって探し出され、手伝わされることがたまにありました。

UCSFの放射線科では、毎朝のカンファランス、お昼ご飯を食べながらのカンファランス、2週間に1回の全体カンファランスと勉強の機会がふんだんに提供されていました。感銘を受けました。いつか日本にも導入したいと思っていたのですが、いま杏林大学の放射線科では、毎日夕方は研修医向けのカンファランスを、昼は月・水・金とご飯を食べながらカンファランス、そして1週間に1度、全体のカンファランスをしています。教育カンファランスを多くして、みんなでお互いを教えあうことをしています。人に教えることが1番自分の勉強になるのです。うちの入局者は2~3年するとみんなの前で30分の講義をする順番が回ってきます。上手くいけば自信につながるし、よく頭を整理しなければ人前では話せません。
この方法は、みんな最初は大変ですが、とても勉強になります。最近は、近隣病院の方も参加されるようになってきました。この地域病院とのカンファランスは、杏林大学放射線科の“目玉“です。参加を希望する医療機関の方は、お気軽に医局長までご連絡ください。



座右の銘

 「なんだろう?どうしてだろう?あれもこれも・・」

ちょっとふざけているようにも聞こえましょうが、有名な物理学者 パスカルの言葉を借りると次のような言葉になります。

 一つの事柄についてすべてを知るよりも,すべての事柄について何らかのことを知るほうがずっとよい.知識の多面性が最上である.

今日私が述べてきたことはこういうことかなと思います。

専門性を持つプロフェッショナルとして一つのことをトコトン追求するのはもちろん重要だというのが前提です。でも、それだけでは駄目、知識の多面性が大切なのだというパスカルの言葉が好きです。



患者さんへのメッセージ

現代の医療はチーム医療で成り立っています。医師、看護師、技師、事務たくさんの人たちがよく話し合い、同じ思いや治療方針を持って患者さんの治療にあたっています。職種を超えて、一緒にカンファランスをしているのです。
それはなかなか見えにくいことですが、医師1人の医療行為の中にはたくさんの人たちの力が集まっています。医療をしているのは、医師だけではないのです。



似鳥先生が描いた油絵

大学生時代、美術部に所属していました。その時描いた私が好きなバイオリニスト、ヨーゼフ・シゲッティ氏の絵です。レコードジャケットの小さな写真から自分なりにイメージを膨らませて描きました。そのため、実際とは大分違うかもしれませんが、音楽への厳しい追及姿勢、頑固なイメージが少しは出ているかなと思います。自分の作品を人に見せるのは内面をのぞかれるようで、とても恥ずかしいことですが、この絵だけは教授室に飾っています。



似鳥先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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