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当院のドクター紹介

私の人生は、偶然と幸運の賜物です

12月のドクター紹介は、形成外科・美容外科の波利井 清紀 教授の紹介です。
世界で初めてマイクロサージャリーによる組織移植を成功させた波利井教授(平成21年度日本医師会医学賞受賞)が、この技術に出会ったきっかけなどをうかがいました。

波利井 清紀
名前 波利井 清紀 (はりい きよのり)
血液型 AB型
趣味 ゴルフ:ゴルフ以外ほとんど趣味はありません。
読書:雑読家(ただし、乱読)です。
専門 マイクロサージャリー、顔面神経麻痺、がん切除後の再建
外来日 火曜日 午前
所属 形成外科・美容外科 教授
プロフィール 昭和42年東京大学医学部卒業
昭和63年11月―平成15年3月東京大学教授(形成外科学講座主任)
平成15年4月―現職、東京大学名誉教授

■ ご出身地はどちらですか?
生まれは神戸ですが、小学校時代は三重県で過ごしました。
中学3年生からは1人で下宿暮らしをして東京の学校に通い、都立西高校、東京大学と進学しましたので、一貫して50数年間東京で過ごしています。なぜ中学生の頃から東京で下宿暮らしを始めたかというと、三重県の中学校は楽しく、遊んでばかりいたため少しでも勉強させようと、親に追い出されてしまったのです。
下宿先は杉並区で、杏林大学病院の近くで過ごしていました(当時はまだ新川病院という名前でした)。辺りは野原といっても過言ではなく、病院だけがあって家などはあまり建っていませんでした。川には魚やザリガニがいて、トンボもよく取って遊んでいました。以来、私はずっと杉並に住んでいますが、まさかその杏林大学病院に勤めるなど思いもよりませんでした。

■ ご両親に追い出されてしまうほど三重県では元気に過ごされていたのですね。
少年期は三重県の尾鷲市で過ごしました。海がきれいで、昔の里山ではないですけれど自然が豊かなところで、魚を取ったり、蝶を追いかけたりと、そのようなことばかりしていました。父が医師(外科医)をしていましたので、このまま野放しにしておいたらまともな仕事にもつかないだろうと思ったのでしょうね。
既に姉が東京の大学に出ておりましたので、姉の勧めもあって東京に1人で出されることになりました。

■ 波利井先生が医師になりたいと思ったきっかけは何でしょうか?
私の人生は偶然と幸運の賜物と思います。医師になったのも偶然なのです。私が昭和32年に進学した都立西高校は、当時、東大の進学率が日比谷高校と並んでトップクラスの学校でした。1学年400人のうち3分の1近くは東大を受験していたと思います。

私の高校時代は、放課後になると悪ガキ達と私の下宿所に集まっては毎日麻雀ばかりしていました。高校3年で進学を決めることになり「どこの大学に行こうか」と考えていました。同級生の中で約3分の1は東大を受験するものですから、自分の成績は悪いのですが、ずうずうしく私も東大に行こうと決めたのです。ところが、担任の教師に「内申書を書いてください」とお願いしたところ、担任は烈火のごとく怒って「お前なんか通るわけがない!」といわれました。私は頭にきて「とにかく何でもいいので内申書を書いてください!」といってとりあえず書いてはもらえたのですが「通るわけがない!」と内申書を投げてよこされました。

当時の東大受験は1次試験と2次試験の2段階でした。最初の1次試験でまず半数が落とされるのですが、なんと私はこの1次を通過したのです。それを担任に報告すると、担任は腰を抜かさんばかりに驚いていました。しかし2次試験には当然ながら見事に落ちて、1年間浪人をして、なんとか東大の理科Ⅱ類に受かったのです。
つまり、私は、同級生がみな東大を受験するのでなんとなく東大を希望し、文系よりも理系のほうが好きだったという理由で理科系の学部に進もうと決めたのです。医師になりたいという希望は特にありませんでした。

■ それでは東大の理科Ⅱ類に進んで、その後医学部コースを選んだのはなぜですか?
いまは東大医学部進学には理科Ⅲ類が独立していますが、当時はまだ東大に理科Ⅲ類はありませんでした。理科にはI類と II類があり、I類は、工学部と理学部が主で、Ⅱ類には、医学部と薬学部、農学部、林学部などが入っていました。昭和38年4月に医学部進学コースだけが分かれて理科Ⅲ類というものができたのです。私の時は、医学部への進学には2年次にまた試験を受けなければなりませんでした。その試験に合格して初めて医学部に進学できるのですが、その試験に落ちたらどの学部にも進学できず東大を退学しなければいけないという、とても厳しい条件でした。

入学試験当時、医学部に進学することなど全く考えてなかった私が理科Ⅱ類を志望したのは、理科Ⅰ類の受験の方が難しかったので、単に、すこしでも合格率の高い理科Ⅱ類を受けたという理由からでした。大学入学後には、魚釣り部に入ってまた高校時代のように朝から晩まで麻雀などに遊び呆けてしまいました。2年次の進路選択の時、遊んでばかりいた私は成績が悪く、自分の進学可能な学部は林学部か水産学部しかないと言われてしまいました。もう一つの可能性は、もし医学部進学試験に受かれば医学部に行けるが、落ちたら東大生でなくなるといわれました。当時、医学部進学の試験に落ちて、他大学の医学部へ行く人も多くいましたが、他に強く希望する学部が無かったため、医学部の試験を受けようと決めたのです。

そして、ラッキーなことに合格してしまったのです。試験運が強いのでしょうか・・。つまり、行くところがなくて、医師にでもなったようなものですからね。

■ どのような医学生生活を送られましたか?
医学部に入ってからは、また4年間遊び続けました。ボート部に入って友達と遊んで、まさに、よく遊びよく遊びの生活でした。間に少々の勉強ですか・・・。当時の授業というのは今のような厳しい医師国家試験の対策など何もなく放任主義で、全てが自分に委ねられるという自己責任でした。これが今の大学生(特に私立医科大学)とは大きく違うところですが、医師国家試験自体も大変やさしいものでした。教授が出てきて何を話すかといったら、ただひたすら自分の専門を話すだけで、聞いている学生も10名くらいでした。そのため、授業は自分が聞きたいものだけ出席して、あとは遊んだり(主に麻雀とパチンコ、当時の貧乏学生の遊びは、これら以外にはほとんどありませんでした)、ボートを漕いだり、運動したりと、飛び回っていました。

今は大学卒業後すぐに国家試験を受けて、すぐに医師免許が与えられるようになっていますが、当時は卒業後に1年間インターンをしてから国家試験を受ける制度でした。しかし、私が国家試験を受ける直前の昭和40年頃から、インターン闘争というのが起こりました。これはインターンを無給で雇っていることに反発した研修医が反乱を起こしたものでした。そして、この闘争に火が付いて全国の学園紛争になっていったのです。

私が卒業した昭和42年から45年頃は学園紛争の真っ只中で、授業も何もできませんでした。私たちも卒業はしたものの、学園紛争で医局が崩壊してしまい、研修先がありませんでした。当時はとにかく何に対しても反対の風潮でしたので、医師国家試験も全てボイコットされました。 私が国家試験を受けたのは卒業から1年半がたった頃でした。そのため、私の医師免許は昭和43年12月に発行されたものになっています。

■ 難しい中でどのように研修先を見つけたのですか?
私の父は外科医で、三重県にある大きな病院の院長をしていました。父に研修先がないことを伝えたところ「それならば自分の下に来い、外科のイロハを教えてやる。」といわれ、国家試験を受けるまでの約1年間、父の病院に研修へ行ったのです。
わずかに1年でしたが症例も豊富ですばらしい先輩たちから十分に外科の基本を教えてもらいました。そこで学んでいるうちに、将来的に肝・胆・膵臓の外科をやりたいと考えるようになり、中でも膵臓の外科に興味がありました。理由はほとんど誰もが手をつけていなかった難しい領域だったからです。私はもともと人がやっていないことをするのが好きでしたね。その他では血管外科にも興味がありました。
そして、医師免許を取得した後、いつまでも親の元にいるのもおかしいですし、自分の興味のある道を目指して独り立ちを決めました。

■ 最初は肝・胆・膵外科を専門にされていたのですか?
当時、膵臓外科で有名な先生が東京警察病院にいらっしゃいましたので、その先生の下で膵臓外科の勉強をしたいと考え訪ねました。東京警察病院には私の先輩にあたる東大出身の先生がたくさん行かれていましたので、2年上の先輩を頼っていったところ、なんと私が師事したいと思っていた有名な先生は既に他界されていることを知らされたのです。これにはどうしたらよいものか、と思いました。既に父の病院はやめてしまっているので、行く所がありません。とにかく東京警察病院の外科に入れてくれないかと頼んだのですが、学園紛争などの影響で外科に席がないといわれてしまいました。しかし、結婚もしているし仕事がないのは困るだろうから、とりあえず形成外科なら席があるからそこにいってはどうかと勧められたのが、私が形成外科医になるきっかけでした。 当時、形成外科はまだ始まったばかりの新しい分野でしたので、勧めてくれた先輩も何をやっている診療科かよく分からなかったようです。皮膚を植えるようなことをするらしい、ということは教えられましたが、実はそこには世界的に有名な(故)大森清一先生がいらしたのです。この方は、日本の形成外科の本当の意味でのパイオニアで、東大の教授を退官後、警察病院の部長をされていたのです。 私は、とりあえず食べていかなければならないし、1年くらい皮膚を植えることを学んでもいいかと思い、そこで雇ってもらうことにしたのです。当時、乳がんの患者さんは癌を大きく取って、皮膚をひっぱって寄せる手術をしていました。そうすることで、皮膚の一部が壊死してしまう患者さんも多く見てきましたので、そういう患者さんへの皮膚移植も外科医に役立つのではないかと思ったのです。 そして、昭和44年(1969年)に大森清一先生の下に入局させて頂きました。

マイクロサージャリーを始めさせてくださった、大森清一先生と共に(昭和52年年頃 右側が私です)

■ 形成外科医になって、先生がご専門であるマイクロサージャリーとの出会いを教えてください。
東京警察病院の大森先生の医局に入り丁度1年間が経った時、皮膚移植も十分に学んでいましたので、大森先生に「植皮も教えていただいたので外科にもどります」と伝えました。しかし、人手不足もあり「せめてもう1年いてくれ」といわれ、形成外科も皮膚を移植するだけではなく、傷を治したり、耳のない子や口唇裂など、多種類の疾患を治しているところだと分かりました。授業でやっただろ、といわれましたが残念ながら授業などに出ていなかったので知りませんでした。私の方も、外科に戻るといっても、当面は特に行くあてもありませんでしたし、形成外科には色々な治療法があることを知り、もう1年いることにしました。そして、入局して3年後の昭和47年(1972年)の9月に歴史的なことが起きたのです。

これに先立つ昭和46年のある日、私は大森清一先生から、アメリカの学会で非常に有名なマイクロサージャリーというものがあると教えられました。これは、手術用の顕微鏡の下で細い血管や神経を縫う技術で、アメリカの学会でももっともホットな話題だということで、大森先生から「波利井、お前、血管外科もやりたいといっていたからやってみないか」といわれたのです。これが、私のマイクロサージャリーとの出会いでした。 最初は1ミリ程の血管を縫うという、あまりの細さに驚いたのですが、それが行く行くは将来的に皮膚移植や切断された指を繋げることに使えるらしいと知りました。しかし、当時、この技術はアメリカでの発表もまだ実験的なものでした。そこで、大森先生は「1年間、臨床をしなくてもいいから、病院の実験室で技術の開発に没頭しろ」と言われ、約1年間昼夜を問わずネズミ、うさぎなどと格闘し、ほとんど家にも帰らない毎日でした(今なら、即、離婚ですよね)。

そして、幸運にも1年後には、顕微鏡の下で細い血管でも縫えるようになり、これまでの結果をまとめた論文も何本か出すことができました。同じころ、この技術は臨床の場でも使われるようになり、切断された指をマイクロサージャリーでつなげることができるようになりました。当時は1本指をつなげると新聞に載るくらい大きな話題でしたね。しかし、東京警察病院は救急病院ではありませんでしたので、実際の臨床に役立てるチャンスはなかなかありませんでした。これではせっかくの技術も役に立てられないと思い、いろいろ論文を読んだ結果、東京警察病院でできるものとして、マイクロサージャリーによる組織移植をしようと考えたのです。

■ 波利井先生が世界で初めて成功させたマイクロサージャリーによる組織移植ですね。
これが 本年の日本医師会医学賞として受賞した技術ですが、事故やがんの切除で無くなった部分を再建するために、他の部位から組織を切り離し、顕微鏡下で血管や神経の吻合を行って組織・臓器を移植して、機能や形を作るというものです。

幸運なことに、実験も上手くいき、技術も身につけた頃、昭和47年9月にその技術が必要な症例の患者さんが入院されて、マイクロサージャリーによる組織移植を世界で始めて成功させたのです。そして、急に有名になりました。しかし、論文発表はアメリカ人の方が先でした。私は大学時代に遊んでばかりいましたし、東京警察病院は一般病院ですので、大学病院のように英語の論文を書くトレーニングなどを受けていませんでした。臨床で成功して喜んではいたけれども、それを発表しようという考えに後れていたのです。そのため、先にアメリカ人医師に論文発表をされてしまいました。しかし、学問の世界にも妬み、嫉みがあって「日本人の波利井の方が先に成功させている」ということが別の論文に書かれたりして、結局、私自身は論文発表をしていないけれど、私のほうが先に成功しているということが幸いにも世界的に知られるようになったのです。

その翌年の昭和48年秋には、世界的に有名なアメリカ形成外科学会で40例手術したことを発表しました。論文発表の先をこされたアメリカ人医師たちは、まだ1例しか行っていませんでした。そのほかの病院でも多くて2例でしたので、40例成功させたと発表したとたん、私の稚拙な英語力にも関わらず会場にいる人たちの絶賛を浴び、その学会をきっかけに、アメリカをはじめ各国の医師が東京警察病院に技術の習得に来るようになったのです。
そのため、私はあまりの多忙さに自分自身が留学をすることができなくなりましたが、各国の医師に英語で技術を教えたり、世界で発表をする機会が多くなりましたので、自然と英語が話せるようになりました。

昭和48年10月に米国形成外科学会で症例数40例を発表し会場を驚かせたときの写真です。 (右から2番目が私です)

昭和49年にニューヨークで行われたマイクロサージャリーワークショップにて。(右から2番目が私です)

平成21年度日本医師会医学賞を受賞しました。11月1日(日)、東京・文京区の日本医師会館大講堂で開かれた日本医師会設立記念医学大会の席上で唐沢日本医師会長より賞状が授与されました。

■ 後進の育成にも尽力されたのですね。
昭和52年11月年まで東京警察病院にいましたが、東大の形成外科を活性化させるため福田修教授に請われて37歳の時に助教授(現准教授)として赴任しました。そのまま東大で教授まで勤め、平成15年退官後に縁あって杏林大で職を得ました。
東大の教授になってからは、さらに教える立場にたちました。 臨床の教授職には、患者さんを治療する他に、学生に教える、医師に教える、一般の方に教える、学会を運営するなど色々な役目があります。とくに、形成外科は手術の技術が決め手となる診療科ですので、手術手技をうまく教えなければいけません。それは後世にも伝えなければならないことで、私は一貫して臨床医の教師でした。残念ながら学生の教師ではないと思います。
杏林大学にきてからは医師国家試験についての授業も行いますが、学生の授業自体はヘタだと思います。今まで私は後進の形成外科医を育てることを目標にしてきましたので・・。

形成外科は体表に近い部分を治療しますので、結果が 表面に見えるため、手術の技術が最優先されます。もちろん学問も大切ですが、あくまでも技術が第一となります。正しい外科技術に立脚して学問がなければ駄目なのです。これは外科学全般にも言えることですが、形成外科はとくにその要素が強いのです。その手術の手技を後世に伝えるために、私は今でも働いています。一貫して私の主義は、手術を後輩医師に教えるということです。これが私の医療に対するスタンスです。もちろん医者として当たり前のことですが、患者さんに対してはしっかりと対応できる臨床医を育成するということです。

■ 杏林大学にきて、まず何を思われましたか?
平成15年3月(61歳の時)に東大を退官し、そのまま杏林大学に招いていただいたのでもう7年になります。杏林大学に来て最初に何を思ったかというと「自宅から近くなったので大変うれしかった」ということと、「病院から富士山が良く見えるなー」という感じです。病院は、私が来たばかりの時は古い手術室でした。私はそれまで東大の新しい手術室にいましたので、最初は驚きました。しかし、すぐに新しい最新設備の整った手術室が建ち、非常に快適に手術ができるようになったので大変うれしかったです。
それから建物も次々と新しくなっていき、非常に一生懸命みなさんががんばっておられるのをみて、私も一緒に頑張りたいと思いました。

■ 先生は形成外科医が天職だったと思いますか?
いいえ。自分の天職はたぶん官僚だったろうと思います。活字中毒と言われるほど、文章を読んだり、作成したりするのが好きだからです。もし私が東大の法科か経済にいっていたら、うまくすれば(旧)大蔵省の事務次官まで行っていたのではないかと自分では思います(もっとも、想像だけですがね-公務員試験にも合格しなかったかもしれません)が、あいにく医者になりました。外科医は器用だったからやってこられたのだと思います。

私は小さな頃から物を作るのが非常に好きでした。母親が縫い物をしたときに、その針を持って何か物を縫ったりするのが好きでした。また、釣ってきた魚を自分でさばいて刺身にしたり、大学の蛙の解剖実習では同級生の蛙まで解剖して、すごい速さで終わらせたりした手先の器用なタイプでした。
そいう部分では、形成外科医は適職だったのかもしれません。

ただ、自分のやりたいと思ったことには、徹底的に頑張りぬくことが大事だと思いますー遊びも、勉強もーいわゆる、良く学び、良く遊べ、という典型的な古いタイプの人間だと思います。



好きな言葉

 温故知新

研究者は絶対に自分が新しいことをやったと思いがちですが、その先には必ず先人が何かをやっています。そこから新しいものが引き出されているのです。私も世界で初めてと言われていますが、その前には似たようなことをして失敗したり、実験段階で繰り返し取り組んだりした人はたくさんいます。そのようなものを学んではじめて自分が成功できるのだと思います。

波利井先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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