トップページ > 当院のドクター紹介
※毎月更新予定
1月のドクター紹介は、小児外科の韮澤 融司 教授の紹介です。
やんちゃだった幼少期のお話や、小児外科医になってうれしかった思い出などをうかがいました。

| 名前 | 韮澤 融司 (にらさわ ゆうじ) |
|---|---|
| 年齢・血液型 | 59歳(昭和26年1月19日)・ O型 |
| 趣味 | 運動全て:運動は何でも好きです。今はゴルフばかりしていますが、大学を出るまで体育会のテニス部に所属していました。高校時代はインターハイも目指していました。 |
| 専門 | 新生児外科、小児一般外科、小児泌尿器科、小児腹腔鏡手術 |
| 外来日 | 火・木曜日 午前中 |
| 所属 | 小児外科 教授 |
| プロフィール | 昭和26年 新潟県長岡市に生まれる。 昭和51年 慶應義塾大学医学部卒業。ただちに同外科学教室に入局。 専修医過程を終了後、昭和58年から2年間アメリカ合衆国ミシガン州立大学薬理学教室に留学。 帰国後の昭和61年3月に杏林大学医学部小児外科助手として赴任。 昭和63年同専任講師、平成4年同助教授、平成11年同臨床教授、平成21年同教授に昇任し現在に至る。 日本小児外科学会理事を務めている。 |
■ 小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
中学を卒業するまで新潟で過ごしました。新潟市で育ちましたので、直ぐそばには海がありました。
子供の頃はやんちゃ坊主で好きなことばかりしていたと思います。両親にしかられることもよくありましたが、学校でもよく悪さをしていました。昔は下駄箱の扉が木でできていて、子供の力でも簡単に壊すことができてしまうくらいのものでした。その扉に友達と傘で穴をあけて遊んでいたところを先生に見つかって、校長室でずっと立たされて母親が迎えに来たのを覚えています。
それから、掃除当番が嫌で友達と放課後抜け出しては男子だけで海の方まで逃げ回って、それを女子が追いかけて来たりと、とにかく悪さばかりしていました。
放課後は海の近くにある松林を自転車で走ったり、冬には家に帰って直ぐスキーをしに行きました。今はもう雪が積もることはないようですが、当時の新潟市はまだ雪が積もる地域でした。
◆6歳の頃、弟と一緒に。当時、テレビドラマ「赤胴鈴之助」が流行っていて、それを真似てチャンバラごっこをしていました。
■ 子供の頃の夢は何でしたか?
これは母に聞いた話で私は全く覚えていないのですが、「大判焼きを焼く人」になりたいと言っていたそうです。
学校へ行く途中に大判焼きを焼いているお店があって、ずっと食い入るように焼く様子を見ていたそうです。小学校低学年のときでしたので私は記憶が無いのですが、母に言われてみると、確かにそのようなことを言っていた時期もあるかもしれないと思いました。それ以降は、特になりたいものはなくて、次は高校で進路を決めるときに考えることになります。
■ 高校生でアメリカ留学されたそうですが、留学しようと思ったきっかけは?
留学制度でAFSという制度があるのですが、それを受けたら受かってしまい留学することになりました。
当時、体育会のテニス部に入ってインターハイを目指していたのですが、私が2年生の頃、些細なことで2年生と3年生の間に意見の相違が生まれ、それをきっかけに2年生全員が退部することになりました。テニスをやめてしまうと他にやることがなくなってしまったので、それがきっかけでAFSの試験を受けました。その試験の存在をなぜ知っていたのかは忘れてしまいましたが、もしテニスを続けていたら留学することはありませんでした。
■ アメリカではどのような高校生活を送られましたか?
アメリカでの生活は、これまで全く経験したことの無いことばかりでしたので、本当にいい1年でした。
私は元々スポーツが好きでしたので、アメリカのハイスクールでも部活に入っていました。向こうはシーズンごとに部活を替える制度があり、春は陸上、夏はアメリカンフットボール、冬にはレスリング部に所属しました。
レスリングなどやったことは無かったのですが、冬にやるスポーツがなくて軽い気持ちで入部したと思います。アメリカンフットボールは、ディフェンスバックという比較的体が小さい人に合うポジションでしたが、本場アメリカのスポーツでしたので、私はスペシャルチームのパント・リターンというチームで試合に出場していました。
様々なスポーツを体験でき、英語も話せるようになり、アメリカの文化にも触れられた貴重な体験でした。
一つ勉強のことで面白いと思ったことがありました。数学の試験は私が1番でした。それから、実は英語もなかなか良い点数が取れるのです。これは私たちが日本の文法をよく理解できないのと同じで、アメリカ人も英語の文法は苦手なのです。日本人のほうが英語でいい点数を取れるのは、なかなか面白いことだと感じました。けれど、それとは逆に社会や歴史は全くできませんでした。
後日、私は医師になってからも留学をしているのですが、家族全員でまたその町へ遊びに行って、大歓待されました。小さな町でしたので、新聞にも掲載された程です。
■ 医師になってからも、再びアメリカ留学をされたのですね。高校時代とは違う体験をしたエピソードなどありますか?
医師になってからはアメリカのミシガン州に留学しました。
子供が生後半年の時に留学しましたので、大変なこともたくさんありました。
通常、留学をするときはご主人が先にアメリカへ行き、準備をして家族を呼び寄せるのが普通らしいのですが、私はそのような手続きが苦手でした。そのことを妻も知っているので「あなたはそういうのがダメだから」と最初からついてきてくれました。小さな子供をつれながらなのに、とてもたくましい妻だと思います。
大人になってからのエピソードとしては、当時からアメリカでは車に乗る際に子供はチャイルドシートに乗せなければいけない決まりでした。アメリカに着いたその日に友達から車を借りてチャイルドシートを買いに行ったのですが、それを買いに行く途中で警察に捕まってしまいました。「昨日アメリカに着いたばかりで、これから買いに行くのだ」といくら説明してもダメでした。多分、留学経験があるので英語を流暢に話してしまったのも説得できなかった要素なのかもしれません。もっと片言で話をすればよかったと、失敗したと思いました。
■ 先生が医師になろうと思ったきっかけを教えてください。
高校のとき、進路を選ぶことになって文系は駄目だと思いました。好きだった理系を選んで、いざ何を専門にしようと考えたときに、父が工学を専門にしていましたので、私は父と同じにするのは面白くない、と考え残る医学部を選択しました。なぜ父と同じ道を選ぶのは辞めようとしたのかは、はっきり分かりません。
それから、子供心に医師はかっこいいという思いもどこかにあったのかもしれません。私が中学生の頃、ベン・ケーシーという脳外科医が主人公のアメリカのテレビドラマをやっていたのですが、ほのかにカッコいいと思った記憶があります。
このような理由のため、どうしても医師になりたいという強い希望があったわけではありませんでした。父も理系出身のサラリーマンでしたので。けれど、だからといって両親が医学部進学を止めることもなく「好きにやりなさい」という感じでした。当時のことを考えると、高校生がアメリカに留学するなどということは信じられない時代でした。それも私が行きたいというと意見を尊重してくれていたので、今考えるととても理解のある親だったと思います。
■ 医学部の授業を受けたとき、思い描いていた世界と違うのではないかなどギャップを感じたことはありませんでしたか?
それは全くありませんでした。私は溶け込むのが早いタイプですので、医学部に入ったら「もう医師しかない」と思いました。邁進するというほどカッコいいものではありませんが、もうそれ以外は見えなくなっていました。
けれど、1・2年次は文系と同じ教養の授業が中心ですし、大学からはまた医学部体育会のテニスを始めたので、晴れた日は大学には行かず朝から晩までテニスコートで過ごすような学生でした。そのため、医師になるという感じはなく、普通にキャンパスライフを楽しんでいました。
もう本当にテニスばかりでした。今の学生には「5年生になったら試合に出るな」といっているのですが、私は6年生になっても出場していました。私が進級できたのはいい仲間がいたからです。
■ なぜ小児外科医を専門に選んだのでしょうか?
内科は絶対に合わないと思っていました。そのため、外科で何を専門にしようかと考えていました。
当時、外科は心臓外科と一般外科に分かれていました。一般外科の中には小児外科、食道外科、胃外科、大腸外科、肝臓外科、乳腺外科の専門があって、専門は4年目に決めることになります。
私は小児外科か食道外科か迷っていたのですが、最終的に専門を決めるときに子供の外科をやりたいと思いました。なぜそう思ったのか、と聞かれると明確には思い出せないのですが、4年間に一般外科の臨床に携わる中で、シンプルに一番自分が興味を持った診療科だったからだと思います。
大人の患者さんを診る診療科は、大腸なら消化器外科、心臓なら心臓外科と分かれていますが、子供の場合、頭の先からつま先まで外科的な疾患を全て扱います。もちろん呼吸器疾患も診療します。そのことに一番憧れたのかもしれません。
小児外科は毎日同じ病気の手術をするわけではなくて、教科書に載っているような稀な疾患を1年に1度は経験するなど、毎年新たな気持ちで手術をすることができます。
よく小児科や小児外科は難しい診療科じゃないかと尋ねられますが、特にそのようなことはありません。難しくない診療科などありませんし。
ただ、小児の診療科は大人の方と違って患者さんの数が少ないため、医師として一人前になるには他の診療科よりも時間がかかるかもしれません。やはり、医師というのは色んな患者さんの手術をさせていただき、様々な経験をさせていただいて成長するものですから、そのようなことから少し時間がかかるような気がします。
■ 小児外科医になってうれしかったことを教えてください。
杏林大学出身で小児外科医を志した先生は何人もいるのですが、その中の1人に私が執刀するのではなく、私が指導をしながらとても大きな手術を執刀させてあげられたことです。あの時は本当にうれしいことでした。
やっと杏林の卒業生にこんなに大きな手術をやらせてあげられるようになった、と感慨深いものがありました。
杏林大学に赴任して23年になりますが、小児外科の立ち上げ当初は、今年ご退官された伊藤泰雄教授お1人しかいらっしゃいませんでした。そのため、伊藤先生の手伝いをして欲しいというお話しがあり私は杏林大学に赴任しました。それは、私がアメリカ留学から帰って来たばかりのときで、伊藤先生が杏林大学に着任されて約6年がたった頃でした。
そのため、後進が育つといううれしさだけではなく、積み重ねてきた苦労が実った、というような気持ちにもなりました。
杏林大学に着任後、私は伊藤教授に様々なことを教えていただきながらやってきました。今年伊藤教授がご退官されましたが、この長い年月の中には色々なことがありました。
■ 杏林大学病院について思うことは。
杏林大学に来た23年前は、まだ外来棟も古い建物のときです。
患者さんも少なくて、今では考えられないことですが病棟に入院患者さんがいらっしゃらないときもありました。けれど、いちばんこの病院に来て感じたことは、スタッフの方がとても暖かくて穏やかなことでした。
そんな杏林大学も今はいろいろなことが様変わりしました。
病棟も新しくなりましたし、患者さんの数は激増しました。医師も増え、優秀な指導者や学生がたくさん集まってきて着実に前進している感じがします。手術数も日本有数です。ハード面もソフト面も充実して、当時の面影などどこにもありません。
けれど、このように多くのことが変わっても、23年前と唯一変わらないのがスタッフの方の暖かさと穏やかさだと思います。これが杏林大学のとてもよいところだと思います。
■ それでは、最後になりますが患者さんへのメッセージをお願いします。
私がいつも外来でお話しすることがあるのですが、医療の世界はいい面ばかりではありません。奇麗事ばかりは言っていられません。手術や危険性など怖い面もあります。けれど、それも全部ご家族と共有して病気に立ち向かっていきたいと思います。
病気を治すのは医者だけではとてもできません。患者さん、親御さんなどのご家族だけが頑張ってもできません。看護師、検査技師などのパラメディカル、事務の助けも必要です。病院はそういうところだと思います。全部の人がまとまっていかなければならないと思います。
継続は力なり
人間はそんなに才能があるわけではありません。
ここぞと決めたら、続けなければいけません。
取材担当
企画運営室
広報・企画調査室
![]()
|杏林大学 |杏林大学 学部・大学院 |杏林大学・看護専門学校 |三鷹キャンパス |八王子キャンパス |求人情報 |学内専用サイト |