当院のドクター紹介

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ドクター紹介詳細

※毎月更新予定

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手術範囲の広さに感銘を受け、整形外科医になりました。

3月のドクター紹介は、整形外科の里見 和彦 教授の紹介です。
先生が感じる整形外科の魅力や、子供の頃から憧れを抱いていたアメリカへ留学したときのお話などをうかがいました。

里見 和彦
名前 里見 和彦 (さとみ かずひこ)
年齢・血液型 64歳(昭和20年10月10日)・ AB型
趣味 散 歩:健康維持と買い物を兼ねて、よく歩きます。自宅が武蔵野市にありますので、吉祥寺界隈をよく歩いています。
読 書:特に、歴史や経済の本が好きです。高校生の頃は、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んで読書感想文を書いたのを覚えています。
専門 脊椎、脊髄疾患 脊髄誘発電位、医用レーザー
外来日 月・水曜日 午前中
所属 整形外科 教授
プロフィール 昭和20年 静岡県伊東市に生まれる。
昭和45年 慶應義塾大学医学部卒業、同大学整形外科学教室入室
昭和46年 同大学整形外科および関連病院で研修
昭和53年 同大学整形外科助手
昭和55年-56年 米国加州南カルフォルニア大学関連ランチョ・ロス・アミゴス病院留学
平成2年 慶応義塾大学整形外科講師
平成4年 杏林大学医学部整形外科助教授
平成11年 杏林大学医学部整形外科臨床教授
平成14年 杏林大学医学部整形外科主任教授

■ 子供の頃はどのような遊びをしていましたか?
静岡県伊東市の出身ですので、子供の頃は水泳と山遊びをよくしていました。
海へはほとんど毎日通っていて、素潜りをしたり、あまり上手ではありませんが銛で魚をとって遊んでいました。毎日友達と外で遊ぶ、活発な子供でした。

伊東で過ごしたのは中学2年生までで、3年生からは勉強のため東京にいる親戚のところで下宿をすることになりました。当時は勉強のために子供を東京や静岡、小田原などへ出すのは普通のことでした。

小学4年生で遠足へ行ったときの写真です。下の列の真ん中にいるのが私です。

■ 親元を離れての生活は寂しくありませんでしたか?
寂しいと思ったことはありませんでした。学生の時は休みが多いので、夏や冬の長期休みには田舎へ帰り、家族と過ごしたり、地元の友達と遊びました。

それに、過ごしていたのは親戚の家なので、私のことを家族のように迎え入れてくれましたので私自身は全く気を使うことなく過ごすことができました。今考えると、どちらかというと親戚の方が気を使ってくれていたのだと感じることがあって、少し申し訳なく思うこともあります。

転校はしましたが、受験のためでしたので特に気になることもありませんでした。東京で受験勉強をして、高校は慶応高校に進学しました。 慶応は付属校ですので、そのまま慶応大学に進学しました。都内には親戚が沢山いましたので、3軒位転々としながら、中学から大学までずっと居候生活でした。

■ 高校時代の思い出を教えてください。
高校時代は、これまでの人生の中で一番有意義で、充実したときだったように思います。

クラブは英語会とクラシックを聴く音楽鑑賞部に入部していました(結構真面目ですね)。
私立の付属校でしたので、大学受験の心配が無く学生はみんな好きなことをしていました。私も友人と映画を見たり、スキー旅行に行くなど、好きなように過ごしていました。

当時の慶応高校は高校野球が強くて、同じクラスには甲子園に出場するような名選手が何人もいました。18クラスもありましたので、高校時代は本当に沢山の友達が出来ました。一生の友達も、何人も出来ました。 高校時代に遊びまわった親友達は進学した学部は別々ですが、今でもよく会っています。

高校の修学旅行で。向かって左側が私です。

■ 先生が医学部を目指した理由を教えてください。
医学部を目指した理由は、恥ずかしいのですけれど、難関の学部だったからです。昔から勉強は自分のためになることだと思っていましたので、勉強をすることが嫌いではありませんでした。
そのため、特に医師になりたいという強い希望があった訳ではありませんでした。 けれど、身内に医師をしている親戚がいたのと、実家の前で開業しているお医者さんの家族と、家族ぐるみの付き合いをしていましたので、小さい頃からなんとなく医師という職業が身近にあったのだと思います。

■ 医学生時代はどのように過ごしていましたか?
高校の親友たちも、学部は違いましたが慶応大学に進学しましたので、私には医学部以外の友達が多くいました。高校から引き続き、全学の英語会にも入りましたので、そこでも新しい友達ができました。学生時代からの医師以外の友人が多くいることが、私が自慢できる点です。

それから、英語会以外に、6年間医学部バスケットボール部に所属しました。このバスケット部の練習は本当に大変でした。

当時、慶応医学部のバスケット部は、東日本の大会で9連覇しているチームでした。
私は上手い選手ではありませんでしたので、レギュラーは取れませんでしたが辞めずに6年間続け、最後はマネージャーとしてチームを支えました。強豪チームでしたので、週に3回ある練習に加えて、合宿もありました。昔の定期試験はそれほど難しくありませんでしたので、2週間くらいある試験期間中は絶好の合宿日程でした。合宿所で練習をして、試験の日は合宿先の宿泊地から、直接試験を受けに行きました。自分の試験日だけは練習が休めるので、うれしかったです。けれど、試験中に合宿をしても当時は試験には全員受かっていました。こんな縁で、杏林大学に赴任して暫くして医学部バスケットボール部の部長になりました。

部活動以外にも、高校からの親友と日本中を旅行しました。
それこそ九州から北海道まで、様々なところに行きました。当時は東京から鹿児島まで、学割を使って往復5千円くらいでした。行く先々には英語会の友人の実家がありましたので、その家に泊めてもらいながらあちこちを旅しました。もちろん、友人が伊東に遊びに来るときは、私の実家に泊めました。

このように、大学時代は英語会とバスケット部と友達と遊んだ6年間で、試験のときだけ勉強をする学生生活でした。

大学バスケットボール部の仲間と。私は左から2番目、6番のユニフォームです。

■ 高校・大学と英語クラブに所属されているのは、語学に興味があったからですか?
もちろん語学に興味があったこともありますが、ずっとアメリカに行きたいという思いがありました。漠然とアメリカに対する興味や憧れのようなものがあったのだと思います。
そのため高校生の頃から英語会に所属していましたが、アメリカに行く機会はありませんでした。私が渡米したのは、医師になってからの研究留学でした。

お陰で留学していた1年半は、コミュニケーションで困ることはあまりありませんでした。
アメリカに行って直ぐに住民登録をするため役所へ行ったのですが、まだ話すのは十分ではないけれど、窓口のスタッフから英字がとてもきれいだと言われてうれしかった思い出があります。

■ 留学で憧れを抱いていたアメリカに住み、どのようなことを感じましたか?
まず驚いたことは、私の英字を褒めてくれたスタッフから「移民をしてきたのか?」と聞かれたことです。その言葉に、さすが移民大国アメリカだと思いました。不十分な英語であっても誰も気にしないのだという、懐の深さのようなものをまず感じました。
それから、アメリカで車の免許を取ったときに、 なんと試験を日本語で受けられたのです。日本語以外にもスペイン語や中国語など、言葉を選んで受験できました。これにも、さすがアメリカだと感じました。

アメリカでの生活は、私はとても恵まれていました。研究留学でしたが、住居は大学の敷地内にある一軒家の官舎に住むことができました。行ったら直ぐに、研究室のおばさんが車も用意してくれていました。 けれど、おばさんは私に「この車を800ドルで購入しろ」と言うのです。中古でしたが大きなポンティアックでした。移動で必要にもなりますし、おばさんの言い値で購入しました。
留学している1年半、途中に何度も修理をしながらですがその車に乗っていました。そして、帰国するときは、同じ800ドルで売ってきました。 車以外にも、テレビなどの家電や家具も全て売れました。アメリカは非常に合理的な国です。

持ち物が全て売れたのにはもう一つ理由があって、私がいたロサンゼルスには、日本人も多く住んでいました。そのため、日本語で新聞に広告を出したのです。その記事を見た人から電話がかかってきて、売ることができたのです。
アメリカにいるのに日本語で広告を出して、日本人が購入するのですから、なんだかおかしな感じでした。

800ドルで購入した愛車のポンティアックです。この車で隣に住む日本人家族とよくドライブに行きました。

■ 医学部を卒業して専門を選ぶとき、なぜ整形外科を選んだのですか?
私が専門を決めるときに、ドラマでベン・ケーシーという脳外科医を主人公にしたアメリカのドラマをやっていました。その影響で、最初は脳外科医になりたいという希望をもっていました。

けれど、学生実習のときに見学をした、整形外科の手術に感銘を受けたことで、私は整形外科医になることを決めました。私が見たのは胸椎の手術で、背骨の手術をするのに胸を開いて手術をしていることに、「すごい」と思ったのです。
整形外科というと、四肢の骨折治療というイメージがありますが、首や腹部、頭蓋骨を開いて骨の手術をすることもあり、手術範囲の広さに驚きました。それが理由で、整形外科に興味を持つようになったのです。

それから、ほとんどの患者さんが良くなって、喜んで帰られることも整形外科を選んだ理由の一つだと思います。私が学生の時は、がんの全盛時代で、まだ不治の病であるという時代でした。内科や外科で、そのような患者さんを見ていましたので、患者さんが元気になって帰って行くのを見て、整形外科医を選びました。

■ 整形外科医になって改めて感じた整形外科の魅力はありますか?また、診療の中で困ったと感じることはありますか?
四肢の痛みや不自由さによって、日常生活のクオリティが下がる方がいて、昔は加齢と共にそのような症状が出るのは仕方が無いと思われていました。けれど、最近はそのような苦痛は手術で改善できるようになってきました。整形外科は高齢化社会の中で、時代のニーズに合った診療科だと思います。

困ったことはそれほどありませんが、これまで多くの手術を行ってきましたが、もちろん全ての方に最良に治療が出来るわけではありません。予想に反して結果が芳しくない場合ということもあります。そのようなことが、時々思い出されて申し訳ないと思うことがあります。
診療の中では、最近は時代と共に患者さんとのコミュニケーションの難しさを感じることが時折あります。

海外の学会で、私の恩師と共に。

教授就任後、海外の学会で座長を務めたときの写真です。

■ 杏林大学病院について思うことは。
前任の石井 良章教授に呼ばれて、私が杏林大学に来て18年が過ぎました。

私が赴任した当時は、杏林の先生方は心のやさしい人が多いということと、人は良いのだけれど学会発表や論文の執筆など、未熟な部分がまだまだあるなと感じたのを覚えています。
私は杏林に赴任してから後輩指導にも尽力してきました。最近は少しよくなってきたと思いますが、それでもまだ不十分と感じる部分もあります。
けれど、病院全体では施設面以外にも、良い先生を多く集めて良い医療が提供できていると思います。ただ、医師の人数がまだ不足気味です。どこの診療科でも同じだと思いますが、若い先生は朝から晩まで休み無く働いて、本当にみんなよく頑張っていると思います。医師の確保をして、無理なく十分な医療体制になることを願っています。



好きな言葉

 信頼

人に信頼されるような人間になりたいと、いつも思っています。 自分が教授になってから、その思いは更に強くなってきたと感じます。

里見先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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企画運営室
広報・企画調査室







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