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当院のドクター紹介

元気な限り自分は外科医でいるのだと決めました。

新年1月のドクター紹介は、消化器・一般外科の森 俊幸 教授の紹介です。
学生時代に夢中になったバンド活動や、医師になった理由、ご専門の腹腔鏡手術などのお話を伺いました。

森 俊幸
名前 森 俊幸 (もり としゆき)
血液型 O型
趣味 音楽:ジャズとクラシックが好きです。 特に1972年に出会ったジャズピアニスト、チック・コリアは、そのスケール感あふれる音楽に衝撃を受けて以来40年ずっとファンです。出す音源は全て持っています。
専門 腹腔鏡外科、胆道膵臓外科
所属 消化器・一般外科教授
プロフィール 昭和30年7月 東京都目黒区に生まれる。
昭和55年3月 東北大学医学部卒業
昭和55年4月-昭和59年3月 虎ノ門病院外科レジデント
昭和59年4月‐平成2年3月 東京大学第一外科
平成2年4月-平成3年8月 埼玉医科大学総合医療センター
平成3年9月-平成6年9月 カリフォルニア大学サンフランシスコ校
平成7年4月- 杏林大学外科
平成20年4月 同教授

【学会】
国内・・・日本外科学会(指導医)、日本消化器外科学会(指導医、評議員)、日本内視鏡外科学会(技術認定医、評議員)日本腹部救急医学会(評議員)、日本臨床外科学会(評議員)日本胆道学会、日本膵臓学会、日本消化器病学会、日本肥満治療学会(評議員)

海外・・・米国外科学会(FACS)、SSAT(米国消化器外科学会)、SAGES

カリフォルニア大学サンフランシスコ校
膵胆道外科、腹腔鏡外科部門客員研究員
UCSF Advanced Videoscopic Surgery Training Course:Faculty, MOET(Microsurgery and Operative Endoscopy Training) Institute Instructor

■ 子供の頃は、どのようなお子さんでしたか?
生まれたところは東京都目黒区ですが、幼稚園に入るころに世田谷区上野毛に移りました。

小さな頃は、ピアノやバイオリンの稽古に通い、ボーイスカウトに入るなど、今どきの普通の子に近いようなことをしていました。母親がわりとモダンなタイプで、子供はアメリカの小説に出てくるような感じに育てたいという想いがあったようです。当時はそろばんや習字を習っている子は多くいましたが、バイオリンやピアノの稽古に通うのは珍しいことでした。ましてや男の子に習わせるのはどうなのか、と言われていたようですが、母は発表会でネクタイを締めてバイオリンを弾いている子供の姿が見たかったようで、構わず通わせていました。

けれど、小学5年生くらいになると進学塾に通うようになったので、習い事は全てやめてしまいました。5・6年生は受験勉強に励んでいましたが、これも当時は中学受験をするのはクラスに10人もいなかった時代ですので、昭和30年生まれにしてはめずらし子供だったと思います。

■ 習い事や受験勉強など、忙しい日々を過ごされたのですね。
中学は、中高一貫教育の駒場東邦に進学しました。駒場東邦はとても自由な校風で、和気あいあいとした学校でした。消化器内科の高橋信一教授も同じ出身で、私の先輩です。駒場東邦は医師になる人が多くいて、その中でも消化器を専門にしている人同士で『駒東消化器の会』を結成し、今もみんなで飲みに行くなど結構仲よくしています。

中学時代はいかにも普通の中学生という生活を送っていました。
我々が中学生の頃は、ポストビートルズとしてレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのロックがはやった時代で、学校ではそれらの話題であふれていました。私も友達と一緒によくロックを聴いていたのですが、中学3年生のときに友達とバンドを結成してドラムを担当しました。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルはもちろん、エリック・クラプトンもそのころから人気がありましたし、あまり知られていませんが、グランド・ファンク・レイルロードやヤードバーズなどの曲をカバーして、文化祭で発表していました。バスケット部にも所属していましたので、中学・高校時代は勉強そっちのけでバスケとバンドに時間を費やしていました。

けれど、私は数学と物理がとても好きでしたので、日ごろから数学の問題集はよく解いていました。逆に数学と物理以外は学問ではないと思っているくらいで、ほかの科目は試験前に一夜漬けするだけの超理科系でした。そのため、当時は自分が将来医師になるとはつゆほども思っていませんでした。

■ 当時の将来の夢は何でしたか?
我々のその頃のヒーローは、日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生でした。自分も将来、核物理のような学問を学んで専門にしたいという夢を持っていました。そのため、大学も理論物理系に行きたいと思っていましたし、湯川先生が憧れでしたので、京都大学の理論物理に進学したいと考えていました。 周りにも、自分は数学や物理で食べていく仕事に就きたいと話していました。

■ 先生が感じる数学や物理の魅力とは?
数学や物理の魅力は、ものの見方を変えると世界が一変して見えるところです。とても整合的で計算が合い、説明が完全に完結する、理論やその形自体の美しさが魅力です。

■ それでは、医学部に進学した理由は。 
昭和30年生まれというと、まだ世の中には第二次世界大戦の雰囲気が色濃く残っていました。私の父親は6人兄弟で、そのうち4人が戦死していて、戦争が終わったといえまだ落ち着きのない時でした。
そのような時代でしたので母から、「理科系の強いお前なので頼むから医学部に行ってくれ」と言われたのです。私は3人兄弟なのですが、すぐ上の兄は文系でした。もし戦争になって子供たちが全員死んでしまったらあまりにも悲しいと。医者であれば戦争の最前線に行かなくても済むから、頼むから医学部に行ってくれと頼まれたのです。

それから、高校の先生からも医学部を勧められました。数学と物理が好きなのはわかるけれど、それを仕事にするのはいかに大変かということを言い聞かせられました。
私の父は医師ではありませんでしたので医学部と言ってもまったくイメージがわかなかったのですが、周りに医師という職業を選んでほしいと切望する人がいるし、人様のために尽くすのは素晴らしいことだろうと考え、医学部進学を決めました。

■ どのような大学生活を送りましたか?
大学は東北大学医学部に進学しました。当時、東北大学は数学や物理の試験問題を難しくすることで、理系に強い学生を増やそうという取組みがありました。逆にいうと、数学が得意な学生には有利な学校でした。私は数学に自信がありましたので、東京から『ひばり』という電車に乗って、4時間かけて仙台へ受験に行き、無事合格をして仙台での生活が始まりました。

医学部に進学はしましたが、やはりどこかで独学でも数学や物理の勉強をしたいという想いがありました。そのため、素粒子物理学などの講義を多く取っていましたし、ドイツ語もうまくなりたいと思い、ドイツ語のLL授業(Language Laboratory)を受講するなど勉学に励んでいました。けれど、それが続いたのは半年ほどでした。

国立の大学に進学していると、わりと堅い人間だというイメージを持たれますが、中学からずっとバンドを続けていましたので相変わらずロッカーで、ベルボトムのジーンズを履き、長髪姿をしていました。大学の勧誘でジャズ研究会の誘いを受けて、音楽経験のある学生はあまりいませんでしたので、ぜひ入部して欲しいといわれ、入学して半年ほどでバンドを結成し、またバンドマンになってしまいました。

■ どのような活動をしていたのですか?
医学部だけではなく、全学のサークルでしたので、理学部の学生がギターを弾いて、工学部の人がベースを弾いていました。キーボードを担当していた内山くんという医学部の同級生は、彼は今、日本大学の精神科の教授になっています。この時のバンドはかなり精力的に活動していて、ヤマハのコンクールに出場したこともありました。基本的な活動は、よく女子大学が主催するダンスパーティーなどに呼ばれて、そこで求められる音楽を演奏することが主でした。それはお金ももらえましたので、それを活動資金に楽器を買ったり、ミュージックフェスティバルやコンテストに参加したりしていました。

大学以外にも歯科医師会が主催するダンスパーティーにも呼ばれたことがあったのですが、そこでいきなり「今日はタンゴを演奏してくれ」と言われて、「そんなのは無理だ・・・」と思いながらも、求められるものを演奏していました。自分たちが目指していたのはジャズとロックの間、フュージョンのような音楽でした。

■ 仙台での一人暮らしはいかがでしたか?
最初のうちは、親元から離れ自分ひとりになったことがうれしかったのですが、次第に何でも自分でやらなければいけないことが大変になり、必ずしも楽しい面ばかりではありませんでした。仕送りが送られてきてお金のあるうちは外食をしますが、底をつきはじめると、心細くなってきたお米を小分けして、おかずは卵だけというメニューで次の仕送りまで日数を凌いでいました。
けれど、仕送りも少なく学生寮に住んでいる友人も多くいましたので、自分でアパートを借りて仕送りももらえる自分は恵まれているなと思っていました。

仙台に住んで一番よかったと感じたことは、スキー場がすぐ近くにあることでした。仙台駅から出ている仙山線に乗ると、1時間もかからずにゲレンデがあります。駅のロッカーで着替えてスキーブーツを履いて駅を出ると、そこがすぐゲレンデという好立地に恵まれていましたので、学生時代はしょっちゅうスキーをしていました。今でもスキーは得意で、家族とも何度かゲレンデに行きました。

子供とスキーに行った時の写真です。

■ 大学を卒業されて、専門を選ばれるときに、なぜ消化器外科を専門に選ばれたのでしょうか。
まずは外科を選んだ理由ですが、2つあります。一つは、知識というのは机の上でいくらでも勉強できるけれど、手先の技術というのは習わないと出来ないだろうということです。外科に向いているかはわからないけれど、若いうちしか習えない手先の技術を習いたいと思ったのが理由です。
また、もう一つの理由は、身の回りには秀才が多く、フランス語でノートを全部取る友人や、秀才過ぎて何をいっているのかよくわからないような人がいて、彼らと内科で争うのは大変だなと思いました。周りの人間からも「外科に向いているのではないか」と言われていましたので、外科系の診療科に進もうと決めました。

東北大学は面白いシステムで、内科や外科を選ぶと東北大学で研修することは出来ず、全員外の病院に出されて研修をしました。学生側と教授側、関連病院の代表が集まって、学生一人一人の希望に合わせて適する関連病院の行先を決めてくれるシステムと、それ以外に、東京のレジデント病院と呼ばれる病院の試験を受けて、自分で研修先を選ぶことも可能でした。そして、東京のレジデント病院で2、3年研修した後、希望すれば東北大学の医局に入局できるということでした。私は東京出身でしたので、虎の門病院で研修することを選びました。

■ それでは、消化器外科と専門を決めるのではなく、まず外科の研修を始められたのですね。
虎の門病院での研修は、整形外科から泌尿器科など外科系全科に渡りました。けれど、消化器外科は一番大きな診療科でしたので、メインに携わっていました。その時に指導していただいたのが、有名な外科医 秋山 洋 先生です。秋山先生は、当時日本で一番手術が上手かったといっても過言ではないほどの手術の名手でした。先生の手術を若いうちに勉強できたのがラッキーなことだったと思います。秋山先生は食道外科が専門です。小柄な方で、手もとても小さいのですが、やたら手術がうまくてすごい方でした。私の手術のお師匠です。それから、一番弟子として主任医長でいらした鶴丸 昌彦 先生も、とても手術の上手な方でした。そのような方々に囲まれて手術をしていましたので、「いつの日か自分もこうなるのだ」と、気分はすでに消化器外科医になっていました。

■ 研修医時代はどのような生活をされていたのでしょうか。
虎の門病院での研修は、かなり厳しいものでした。
住まいは病院の敷地内にあるレジデントハウスで、住居にも関わらず部屋には内線電話がありました。何かあれば24時間365日いつでも呼び出される体制で、たまに近くに焼き鳥を食べに行くのだけが気晴らしの生活を2年続けました。

レジデントハウスへの入居は2年間と決まりがありましたが、研修プログラムは4年のコースでした。研修は3年目にようやく手術をさせてもらえるようになり、外科医としてのトレーニングがようやく始まるときでした。2年間の下働きだけで東北大学へ帰るというのは、一番トレーニングになる部分を見逃して帰るということになりますので、あとはどうなるかわかりませんが、とりあえず4年間虎の門病院にいて、やるだけのことをやってから、それから行先は考えようと腹をくくりました。

■ 虎の門病院に4年間勤められた後、東北大学に戻られたのでしょうか。
もちろん入局は可能でしたが、東北大学に連絡をしたところ2年研修した人と同じ待遇になることを告げられ悩んでいました。けれど、幸い虎の門病院は東京大学の医局の先生が多く在籍していて「君ぐらい鼻っ柱が強ければ、東大に行っても何とかなるだろうから、東大で博士号をもらったらどうだ」とお誘いをいただき、東大の第一外科の門を叩きました。その時に医局長でいらしたのが、跡見 裕 学長です。

しかし、1年目からいきなり入局することは難しく、まずは研究生として研究に従事して、それから入局することになりました。1年間の研究生活の後、「では入局しようか」という話になったころ、まだスムーズにいかない問題が生じました。実は、東大病院で最初から研修をしている人間は、入局する前に東大の関連病院で研修をした後入局するシステムになっていました。そのため、いくら4年間学んだといえども虎の門病院から来た人間が1年の研究生活だけで入局するのはおかしいのではないかとの声が上がったのです。そのため、申し訳ないけれども周りと同じように外病院での研修をして欲しいと言われ、東大の関連病院での研修に出ることになりました。

■ どちらの病院で研修されたのですか?
研修に出た先は、お茶の水にある三楽病院、錦糸町の都立墨東病院で、2年半務めました。

墨東病院は、ちょうど救命救急センターが立ち上がりの頃で私もそのメンバーに入っていました。私はすでに消化器外科として専門を選んでいましたが、救命医の人材不足から少しでも経験があればすぐに救急センターからの誘いがきます。センターに運ばれてきた第一例目の患者さんを、いまは救急の世界で有名になっている先生方と受け入れた経験があります。もちろん消化器外科の手術をしたいとの希望はありましたが、私にとっても良い研修になるので、9か月ほど墨東病院の救急医療に従事していました。

■ 研修医の頃も24時間体制で対応されていましたし、大変な生活ですね。
わり合いに、あまり構わない性格です。やると決めたらやればいいですし、頼まれたことは基本的に嫌とは言いません。できる範囲で何でも協力するというメンタリティなので、へばって寝ているとき以外はいつでも働けるタイプです。消化器外科が専門でしたが、救急の現場では開胸から開頭まで、言われれば何でも対応しましたので、とにかくさまざまな症例を経験し、自分の力になる大変有意義な時期でありました。

■ 医学に携わって感じたこと、思ったことは。
研修医一年目の大みそかに、手術室で除夜の鐘をきいたとき、「人の役には立つけれど、随分大変な仕事だ」と、しみじみ感じたのを覚えています。

けれど、患者さんの感謝の言葉や助けてもらったという言葉に、我々は弱いのです。どんなにきつくても報われるのです。「先生がいなければ、助からなかった」と言われるときが、本当に至福の時です。それがなかったら、続けられない仕事だと思います。それを聞きたいがために、手術をする立場がまだ続いているのだと思います。

いつの頃からか、「大変ですね」と言われると、大変なことなのはわかっているし、覚悟の上でやっているし、嫌だったらやめるので、別に憐れんでくれなくて結構だ、と思うようになりました。仕事に対してそう腹をくくれるようになったのは、医師になって10年たつ少し前だったと思います。きつくてもいい、元気な限り自分は外科医でいるのだと腹を決めた瞬間がありました。

■ サンフランシスコへ留学されていますが、そのときのお話を教えてください。
留学するまでにも、実はいろいろなことが起こっているのです。留学先で私を受け入れてくれたのは、サンフランシスコのローレンスウェイ教授という方ですが、ウェイ先生との出会いは、当時東大で教授を務められていた森岡 恭彦 先生が消化器外科学会を主催されたときに、ゲストスピーカーとしてお招きしたことから始まります。私は少し英語が話せたものですから、ウェイ先生のアテンド係を任命されました。ところが、先生は13歳になるスペンサー君という息子さんを連れてこられていて、私は先生のアテンド係にも関わらず、スペンサー君を東京ディズニーランドへ連れて行くことになりました。講演が終わった後は、ウェイ先生とスペンサー君と3人で富士山に旅行へ行くなど日本を案内し、2人は大変喜んでくれて、それ以降手紙のやり取りなどを続けていました。

東京大学で博士号を取るための研究が終わったころ、埼玉医大の救命救急センターの講師の職があると話をいただきました。頼まれることにまず嫌だとは言いませんが、かなり厳しい環境だとは分かっていました。いつまでもできる環境の仕事ではありませんので、1年という約束ならば死に物狂いでやるので、1年という約束で行かせて欲しいと伝え、埼玉医大に赴任しました。

しかし、当然のことながら1年経っても次の職の話は来ませんでした。当時、埼玉医大の救命センターは立ち上げて間もない時期で、救命の経験があるのは私と、現在横浜市大の脳神経外科教授になっておられる川原 信隆 先生の2人しかいませんでした。ほとんどひと月に25日は当直をして、患者さんがいないときは2人で囲碁を打ちながら待ち、救急搬送があれば研修医を起こして救命センターへ行くという、ほとんど家にも帰れない生活をしていました。
1年という約束だったからこそ、マラソンを全力疾走するように挑んでいました。このままだと自分の身が危ないと感じ、もう自分で行き先を決めようと決意して、ウェイ先生に手紙を書いたのです。
博士号取得の際に行った研究テーマやそこで得たテクニック、またお金持ちではないのでアメリカに就職してもお給料が欲しいというようなことを書いたところ、2週間のうちに先生から「すぐにでも来なさい」とのお返事をいただきました。それも、2か月後の7月1日からのプログラムで、お給料もフルに出すという好条件でした。あまりの条件の良さに驚いたのですが、後で知ることになりますが、もちろん先生の方にも意図があることでした。

けれど、2か月後からアメリカへと言われても、すぐにいかれない理由がありました。一つは、人手不足の職場のこともありますが、実は4月に結婚したばかりで新しいマンションも借りて新婚生活が始まったばかりでした。そこで職場とも話し合い、その年の9月からサンフランシスコに留学することになりました。

左側がウェイ先生、右側が跡見教授です。

イギリスでSirの称号を与えられた有名なAlfred Cuscheri先生と。

■ ウェイ先生の意図とは?
東大ではもともと跡見先生が主催している研究グループに所属しており、膵臓と胆道に関する研究を行っていました。留学先でも引き続き研究をするつもりでいたのですが、別の仕事に従事することになりました。それが、私がいま専門にしている腹腔鏡手術です。

世界で初めて腹腔鏡の手術が行われたのは1987年のことですが、私が留学した1991年には、アメリカでは少し複雑なものまで腹腔鏡で手術をするようになっていました。そこで、手術があるたびに指導や面倒をみていたのがウェイ先生でした。さらに先生は、腹腔鏡の難しい手術を教える2泊3日の指導コースを立ち上げ、毎月行っていました。そのコースにはシカゴ大学など米国内の大学に限らず、世界中から受講生が集まってきました。他に類を見ないコースでしたので大変人気で、ここでも英語が少し話せることから、腹腔鏡のフェロー(研究員)という名前をもらい、腹腔鏡手術を教える講師になりました。もちろん日本からも多くの受講生が訪れました。いま日本において腹腔鏡手術で名を成している方は、サンフランシスコで最初に学んだという方が少なからず存在しています。

1993年頃には、日本でも腹腔鏡の手術が流行りだしましたので、指導するために日本に一時帰国するようにもなりました。その頃は、このままアメリカで仕事を続けるのだろうと思っていました。

しかし、そう思っていた矢先に妻が妊娠していることがわかりました。やはり子供を育てるならば日本がよいと思い、子供が生まれて3か月がたった頃、家族で帰国しました。

留学先の病院前で。

中国の方ですが日本語が上手なカリフォルニア大学サンフランシスコ校のQuan教授と。

■ 先生は、腹腔鏡手術の第一人者として取材も多く受けられていますが、腹腔鏡手術が始まりだしたころ既に、指導者として活躍されていたのですね。
当時、腹腔鏡手術の手技はまだ確立されておらず、新しいやり方だけでなく、新しい機械も毎週のように出てくるような熱気のある時期でした。その道の専門家と呼ばれる人物もまだ誰もいませんでしたので、その確立の過程に関われたこと、また講義を受講した世界中の先生方と友人になれたことが、大変うれしいことでした。その出会いから、私の腹腔鏡に関するネットワークは世界に広がっています。 そのため、帰国後も引き続き、腹腔鏡手術をやっていきたいと思っていました。そして、「腹腔鏡手術を好きにやらせてあげる」と声をかけてくださったのが、杏林大学の教授になられていた跡見先生です。 本当に不思議な縁で、スペンサー君を遊びに連れて行ったディズニーランドから始まった私の道は、いつのまにか腹腔鏡手術に化けていました。

跡見教授とアメリカ外科学会のフェロー(FACS)に選ばれたときに行われたお祝いの会で。右側にいるのは虎の門病院の研修医時代に同級生だった、今は慈恵の教授になっている吉田和彦先生です。お祝いに駆けつけてくれました。

サンフランシスコの郊外にあるゴルフ場で、跡見教授と。

■ 杏林大学病院にいらして腹腔鏡手術の立ち上げに尽力されたのですね。
私が赴任した頃は、杏林大学病院はまだ手術室も古く、腹腔鏡の手術もほとんど行われていませんでした。腹腔鏡手術の立ち上げに携わってはいましたが、新しいことを始めるときは一人が頑張ってもダメなのです。手術室を整えなければなりませんし、一人が手術をできてもダメです。とにかくみんなで少しずつ前進していくモデルがいいと考えていましたので、徐々に周りの人を巻き込み始め、大腸の手術など比較的やさしい手術から教え、担当できる人を増やしていきました。難しい手術はしばらく私が担当し、少しずつ腹腔鏡手術を盛んにしていきました。泌尿器科に同じく腹腔鏡手術を行う東原英二先生がいらしたこともあり、社会への浸透は加速し、腹腔鏡といえば杏林大学と言われるようになっていきました。

■ いま、杏林大学病院に思うことは。
杏林大学は、slow to accept で、ドラスティックに変わるという変わり方はしていないと思いますが、病院全体、外科系の各科全体で、低侵襲治療でやっていくのだという方向性が出来てきていると思います。 インターネットなどを見ていただければわかりますが、低侵襲治療ならば杏林が良いという評判もいただけるようになりました。新しい機械が出来れば、最初に杏林に紹介したいというメーカーさんたちの取り組みもあります。そのようなことから、まだ日本に何件かしかない、内視鏡専用の手術室を早めに計画していただき、それを承認してくださった齋藤英昭先生にも先見性はあるのだと思います。いろんなところから杏林の手術室の見学に来ていますし、杏林の手術室をまねて建築した手術室が日本全国に出来てきています。杏林は集団の先頭を走れるようになってきたのだと思います。ますます先頭を走るスピードを上げてこれからも進んでいかれる施設になって欲しいと思っています。

■ 患者さんへのメッセージ
誰でも痛いことは嫌いですし、親にもらった体をなるべく傷つけたくないという思いはあるはずです。
我々もできる範囲でそれに応えていきたいという意志を持っています。大きな傷が必要になる手術を言われたら、もう少し傷の小さな低侵襲治療でも手術が可能じゃないかと、我々の所に相談に来てほしいと思います。



座右の銘

覚悟

腹を決めて、やると決めたらやることです。

森先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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