病院について当院のドクター紹介

患者さんを親身に診ることを大切にする医師になりたい、そう思いました。

2月のドクター紹介は、高齢診療科の神﨑 恒一教授の紹介です。
高齢診療科を専門に選んだ理由や杏林大学病院が取り組む認知症の地域連携について、お伺いしました。

神﨑 恒一
名前 神﨑 恒一 (こうざき こういち)
血液型 B型
趣味 ゴルフ:前教授の鳥羽研二先生とは東大時代からの師弟関係で、私が老年病科に入局した時に「ゴルフをやるように」とお誘いを受けたのが、始めたきっかけでした。三鷹医師会のゴルフコンペや三鷹医師会対杏林大学の対抗戦に定期的に参加しています。ゴルフを通して近隣の先生方との交流を深めています。
専門 老年医学、認知症、循環器、動脈硬化
所属 高齢診療科教授
外来日 月・水曜日(もの忘れセンター)
金曜日(高齢診療科)
プロフィール 昭和35年 福岡県福岡市に生まれる
昭和61年 東京大学医学部卒業
昭和 63年-平成7年 東京大学医学部老年病科
平成9 年-13年 ワシントン大学医学部
平成14年 東京大学医学部老年病科
平成17年 杏林大学医学部高齢医学
平成22年 10月 同教授

■ ご出身地はどちらですか?
 出身は福岡県福岡市です。私の苗字は“カンザキ”と呼ばれるのが一般的ですが、実は“コウザキ”と読みます。この苗字は、福沢諭吉の生家がある大分県中津市の隣に位置する福岡県の東部にある豊前市(ぶぜんし)に多いようです。詳しく調べたことはありませんが、元々のルーツは豊前市にあるのではないかと思っています。

■ どのような子供時代を過ごしましたか?
 幼少期は福岡市西区で過ごしましたが、簡単にいうと“程良い田舎”でした。田んぼが残る適度な田園風景でカエルの大合唱は今でも耳に残っています。あまりじっとしているタイプではなく当時の小学生が皆そうであったように、田んぼや川で遊んだり、野球をしたりしていました。

 小学校4年生から豊前市に引っ越して、6年生になった頃だったと思いますが、父から「宿舎がある面白い学校があるよ」と言われたのが鹿児島市にあるラ・サール学園でした。
 それまで受験の事など一切考えた事はありませんでした。私はラ・サールに関する知識がなく、最初は「確かにカタカナの面白い学校だな」くらいの印象でした。しかし、父からはとても良い学校だと聞き興味が沸き、6年生の時から毎週日曜日に受験対策テストを受けに北九州市まで一人で行くようになりました。
 そのテスト会では、結果が順位で発表されるのですが、勉強するほど順位が上がっていくのが嬉しくて、それが励みになり、誰に教わるでもなく勉強するようになりました。

 父の一言が勉強する動機付けになり、無事に鹿児島ラ・サール中学に進学しました。両親には、勉強する機会を与えてもらった事をとても感謝しています。あの時の父の言葉がなければ、医師になってはいなかったと思います。

■ それでは、中学生の頃から親元を離れて生活をされていたのですね。
 両親にとっても、中学1年生から子供を手離すことになったわけですから、大きな決断だったと思います。私立でしかも寮生活でしたので教育費や生活費がかかったはずです。

 寮には中学1年から3年生が、それぞれ50名程入っていました。寮生活は、きわめて上下関係が厳しいものでした。集団生活する上で、先輩は絶対に従うべき存在であり、中学は一学年違うと体格もかなり違うので上級生は怖い存在でした。今でも講演いただいた講師の先生が母校の後輩だとわかったりすると、急にお互いの立場が逆転するのは(多少ですが)過去の上下関係を知る者同士だからなのでしょう。3年間ここで過ごしたおかげで、随分忍耐力が身に付いたと思います。

■ 学生生活はいかがでしたか?
 小学校まではお山の大将的なところもありましたが、中学に入ると自分より優れた人達が大勢いるのを見てショックを受けました。自分が井の中の蛙だったことを痛感し、そこから色々な事を努力するようになりました。

 ラ・サールは勉強ばかりというイメージだと思いますが、スポーツも大変盛んな学校でした。私はあこがれだったバスケット部に入りました。練習はかなり厳しく授業が終わった後は毎日練習で、中学の頃は勉強とバスケットの日々でした。
 中学3年、高校3年の鹿児島県大会では優勝し、インターハイに出場した際には、進学校のラ・サールがスポーツでも活躍した、ということで新聞でも大きく取り上げられました。

 ちなみに、形成外科の多久嶋 亮彦 教授と、消化器・一般外科の柳田 修 先生は、私の中学・高校の同級生です。多久嶋先生はラグビー部で県大会の決勝まで進み、柳田先生もテニス部で活躍していました。2人とは現在ゴルフ仲間で、たまに一緒に飲んで昔話で盛り上がっています。

■ 先生が医師を志した理由を教えてください。 
 漠然とですが、医師になろうと思ったのは高校2年生の頃だったと思います。受験校ですから、大学進学について普通に考えなければなりませんでした。またラ・サールは田舎の進学校なので、理系であれば東大に行くか、医学部に行くかというのが大きな選択でした。
 私は自分の将来を考えた時に、工学部や理学部などの分野で頑張るより、人とコミュニケーションをとり、地道にやっていける職業が良いと思いました。また、人に接することが好きだったので、自分は医者に向いているのではないかと考え、医師の道を志しました。

■ 医学部に進学して学び、また研修医になって実際に医療に従事するようになり、どのようなことを感じましたか?
 当時、医学部はもっぱら知識を頭に詰め込む場所でしたが、研修を始めたら、通り一遍の知識では通用しないことがわかりました。患者さんと向き合って話をしながら、必要な情報を得て診療するというスキルは現場でしか学ぶことができません。研修医になってから、様々な診療・診断技術を習得するよう頑張りました。現場に出て初めて向上するものだと感じた次第です。

■ 先生は高齢診療を専門にされていますが、高齢診療科とはどのような診療科か教えてください。
 人は年齢を重ねると、さまざまな病気とつきあうようになります。たとえば足腰が弱い、骨粗鬆症、糖尿病、高血圧など、複数の疾患を同時にもっていると、それぞれの治療のために複数の診療科にかからなければならず、とても大変です。お年寄りが抱える複数の病気を、一つの診療科の中できちっと診ていきましょうというのが、高齢診療科の専門です。そのため、高齢診療科の医師は、幅広い知識と経験が必要です。

■ なぜ高齢診療科をご専門にされたのでしょうか?
 もともとは、循環器を専門にしたいと考えていました。理由は学生の頃に、かっこいいなというイメージがあったからです。しかし、老年病科(東大での標榜名)の研修をしたときに、これまで研修をした他の科よりも、患者さんとのコミュニケーションを大切にしていることを強く感じました。語弊があるかもしれませんが、技術を駆使するというよりも、目の前の患者さんのことをよく知ることを重視していて、それが新鮮でとても良いと感じました。医師として、技術だけではなく“人を診る”という姿勢に共感を覚えたのです。

 老年病科には、“人を診る”という考えの医師がたくさんいました。理想とする医師に向かって技術を追求していきたいという希望もあるとは思いますが、自分がどのような医師になりたいのか人物像を描くことが大切だと思います。鳥羽研二先生はじめ諸先生方の、患者さんのことを親身に診る姿が自分にとって目指すべき姿だと思い老年病科に進もうと決めました。

東大病院の老年病科研究室で。90年頃です。誤解のないように言っておきます。この乱雑な机は私の机ではありません。

■ アメリカに留学をされていますが、研究留学をされたのですか?
 1997年から2001年までワシントン州シアトル市にあるワシントン大学に研修留学しました。東大では動脈硬化の研究に没頭していたので、留学先は世界的に有名な動脈硬化の研究者Russell Ross教授の研究室へ行きました。
 Russell Ross教授は、実は私の留学中に他界されてしまったのですが、動脈硬化、血管生物学の世界では世界的に大変高名な先生で明るく前向きで、気さくな人柄でした。

留学していたときのラボのメンバーです。左上は故Russell Ross教授です。

Russell Ross教授のご自宅で集まったときの写真です。

 研究に打ち込んで大きな仕事を成し遂げる目標で留学したわけですが、実はもう一つ理由があります。私は海外への憧れが強く、東大老年病科に入局した時から、いつか留学して現地で暮らしてみたいという思いがありました。実際に海外で生活をして、日本とは全く異なる文化の中で、言葉が伝わらないという不便さはありましたが、自由を謳歌し貴重な経験をたくさんしました。大自然の中、ドライブや、キャンプをしたり、バスケットや佐々木 主浩 選手がいた頃のシアトルマリナーズの試合を見に行きました。

 マリナーズにイチロー選手が来たのが2001年3月末で、ちょうど私が日本に帰国する時でしたが、運の良い事にイチロー選手の到着が3月末に行われたマリナーズのファンフェスタに間に合ったので、私はイチロー選手と握手をしてサインボールをもらうことが出来ました。私の宝物のひとつです。

シアトルのアパートからの景色です。正面に湖があってヨットがたくさん浮かんでいます。

■ 杏林大学病院へ赴任したきっかけは?
 2001年に帰国してからも東大で勤務していたのですが、鳥羽研二先生から声を掛けていただき、杏林大学に赴任いたしました。これからは高齢者をみることは、医療だけでなく社会福祉との関わりが大きくなり、地域医師会、行政、その他の団体と協働することが必要であり、老年科医としてそのようなスキルを高めたいという思いがあって、こちらでお世話になることを決めました。
 初めて杏林に来て思ったことは、臨床能力が高く、実践的な医療に優れていて、個々の医師の能力が非常に高いと感じました。

95年に参加した、アメリカ心臓病学会で発表した時の写真です。右側が鳥羽教授、左側に立っているのが、今年、非常勤講師として講義をしていただく、神戸大学総合診療部の橋本正良先生です。

■ 杏林大学病院には高齢診療科と、もの忘れセンターの外来がありますね。
 杏林大学病院の高齢診療科の特徴は、複数の病気を抱える高齢者を診療する『高齢診療科』(外来棟2階)と、認知症の患者さんを診療する『もの忘れセンター』(外来棟6階)の2つの外来があることです。特に、もの忘れセンターは初診の患者さんが多く、なかなか予約が取れない状況でご迷惑をかけしています。

 概算では三鷹市内の65歳以上の認知症患者さんは、約3,000人いらっしゃると推測されます。これだけの数の患者さんを杏林だけで診るのは到底無理な話です。そこで、必要だと思ったのが認知症の地域連携です。

■ 認知症の地域連携とは、どのようなシステムでしょうか?
 当院を受診する患者さんの多くは、多摩全域の診療所や病院からご紹介いただいた方です。杏林大学は、MRIや脳血流シンチグラムという診断機器を持つ特定機能病院ですので、それらの検査を用いて、診断と治療方針を立てるのが重要な仕事です。

 一方、地域には先ほど述べたようにたくさんの認知症の患者さんがいらっしゃり、これをみているのは地域の開業医の先生方や在宅介護・福祉の方々です。私たちもそうですが、それぞれの立場だけで認知症患者さんをみることはできないので、互いに連携をしながら認知症患者さんをみていく必要があります。そのために始めたのが『三鷹・武蔵野認知症連携を考える会』というワーキンググループです。このワーキンググループには、三鷹市、武蔵野市の病院、医師会の先生方、市役所などの行政機関、認知症専門の看護師、ソーシャルワーカーなど医師・介護・看護・福祉業務を行っている方々が参加しています。

 杏林大学病院は専門医療機関として診断と治療方針を決め、それを紹介元の診療所や病院に書面で報告します。各医療機関はその方針に基づいて患者さんの診療を行います。患者さんもわざわざ遠方の病院にかかるよりも、近隣の病院に通えるというメリットがあります。また、認知症患者さんは生活に問題を抱えているので、介護や福祉につなげる必要があります。

 平成20年12月から2か月に1回開催しています。このワーキングをベースに、地域全体で認知症の患者さんをみていくシステムを構築するのが目標です。

■ 医療機関だけでなく、行政や福祉施設などとも連携をしているのですね。
 たとえば、ある家庭で認知症が疑われる方がいらした場合、家族や近所の方はまず公的機関である地域包括支援センターに連絡して、そこのスタッフが様子を見にご家庭を訪問します。そして診察が必要だと感じた福祉スタッフは病院に連れて行きたいと考えます。しかしながら、これまでどこの病院に連れて行ってよいのかわからず、その手段がありませんでした。

 そこでワーキンググループでは、患者さんの生活に一番密接に関わる介護・福祉スタッフ、最初に患者さんを診る診療所、そこから紹介を受けて診断・治療方針を立てる専門病院が、それぞれスムーズに連携できるシステムと、患者さんの情報を共有するための情報交換シートを作りました。このような具体的な取り組みを行っている地域はまだ少ないのではないでしょうか。

 現在、三鷹・武蔵野地域の専門病院としては、杏林大学病院のほか、長谷川病院、井の頭病院、吉岡リハビリテーションクリニック、武蔵野赤十字病院が協力しています。そして、介護・福祉スタッフが最初に連絡する診療所・病院として協力していただける相談医は、三鷹市と武蔵野市の医師会の先生の中から手を挙げていただいた先生方にお願いしています。専門病院での検査結果・治療方針は、ワーキンググループで作った情報交換シートで診療所・病院へ報告され、さらそこから介護・福祉スタッフに情報が届き、これによって具体的な日々のケアプランが立てられるようになっています。このような有機的なつながりが大切だと考えています。

 認知症の患者さんは、多くの場合、糖尿病や高血圧などの病気を同時にもっていることが多いです。普段は通いやすい地域の診療所や病院で、認知症やそれ以外の疾患の治療を受け、経過をみるために半年~1年に一度杏林大学などの専門病院を受診するなど、それぞれの役割に応じた診療体制を構築したいと考えています。これまでは、行政は行政で患者さんに病院を受診してもらいたいけど、どうしたらよいかわからない、開業医の先生は開業医の先生で、デイケアやデイサービスなど介護保険を利用するサービスやヘルパーさんの導入がうまくいかない、などの問題があったと思います。そこには情報の伝達もしくは共有が必要です。『三鷹・武蔵野認知症連携を考える会』の連携によって、在宅関連、かかりつけ医(相談医)、専門病院が連携し、情報を共有することで、一人の患者さんに対してそれぞれの立場できちんと役割を果たすことができます。これによって患者さんへよりよい医療・介護の提供やサポートが出来ると信じています。この三鷹・武蔵野の連携は誇ることのできる取り組みだと思います。

■ 認知症外来では患者さんの病状のほか、生活背景なども考えなければならいことが多いかと思います。先生が、診察をする中で大変だと感じることはどのようなことでしょうか。
 認知症の外来をやっていて一番大変だと感じることは、患者さんご本人は勿論ですが、ご家族の方がとても困っていることです。比較的早期の認知症患者さんのご家族に多いのですが、親や伴侶が認知症になり、この先どうなっていくのかわからない不安は強いものがあります。その気持ちはよくわかりますので私もできるだけ話を聞きたいと思うのですが、それだけで何十分も時間が経ってしまい、診察に十分な時間が取れないのが、医師側も患者さん側にとっても辛いところです。

 そこで、前任の鳥羽教授が考案されたのが『もの忘れ教室』です。これは患者さんのご家族を対象に、認知症のことを学んでいただく勉強会で、1回に6家族を対象に月5-6回程開催しています。参加することで認知症という病気に対する理解ができ、自分の家族がこの先どうなっていくのかある程度予測できます。そうすれば、今後何をしなければいけないか、例えば家の中の整備や介護保険の申請、成年後見の申請等がわかります。そして何より自分の気持ちの整理を行うことができます。『もの忘れ教室』に参加すれば、多少とも不安を和らげることができると思います。認知症の診療では、患者さんご本人だけでなくご家族のケアも大切なのです。

 でも、つらいことばかりではありません。高齢診療科の患者さんは、人間的にゆとりのある方が多く、にこにこと笑顔で「ありがとうございました」と言ってもらえると、とてもうれしく感じます。

■ それでは最後に、患者さんへのメッセージをお願いします。
 年齢を重ねると、いくつも病気や問題を抱えることになります。そういう場合に、あちこちの病院や診療科にかかっても、必ずしもうまく解決しないことがあるかと思います。高齢診療科では、頭から足までご相談にのることができます。いくつも悩みを抱えられている方は、高齢診療科を受診していただければきっと良いアドバイスができると思います。



座右の銘

Think positive, prepare for the worst.

留学でお世話になったRussell Ross教授の言葉です。
「前向きに考えなさい」でも「一応、最悪な事態は想定して準備しておきなさい」、という意味です。悪いことを先に考えてしまうと物事はなかなか進みません。常に前向きな気持ちでいて、怠りなく準備をしておくことだと学びました。

神﨑先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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