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当院のドクター紹介

定型的なものが一つもない自由さ、それが形成外科の魅力であり、難しさです。

3月のドクター紹介は、形成外科・美容外科の多久嶋 亮彦教授の紹介です。 
医師になりたい、というよりも外科医になりたかったという多久嶋先生。形成外科を選んだ理由や、高校・大学時代に夢中になったラグビー部での活躍を伺いました。

多久嶋 亮彦
名前 多久嶋 亮彦 (たくしま あきひこ)
血液型 A型
趣味 音楽:小さな頃から音楽好きで、高校からはJAZZに、30代半ばからはクラシックにのめり込みました。コンサートやジャズクラブに行くこともありますが、もっぱら車中や通勤途中に聴いています。
ラグビー:高校・大学と10年近くやりました。今でもOB戦で年に1、2回は試合に出ています。休みの日はたまに秩父宮までトップリーグの試合を見に行きます。
専門 マイクロサージャリー、頭頚部再建、唇裂・口蓋裂
所属 形成外科・美容外科教授
外来日 月・火曜日 午前中
プロフィール 昭和35年 福岡県北九州市小倉に生まれる
昭和61年熊本大学卒業後、熊本大学皮膚科医局に入局。研修医終了後、東京大学形成外科医局に入局。焼津市立総合病院医長、東京大学形成外科助手、医局長を経て、平成15年杏林大学形成外科助教授(准教授)、平成20年臨床教授に就任し、現在に至る。日本形成外科学会評議員等、関連学会評議員を務める。

■ 小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
 よく親から「落ち着きのない子だ」と言われていました。
子供の頃の自分はどんなであったかはこれまであまり考えたことがありませんでしたので、今回このインタビューを受けるにあたって考えてみたところ、「いつもきょそきょそしている」と、よくそう言われていたのを思い出しました。これは福岡地方の方言で、まさに落ち着かない様子を表現した言葉です。同じように学校の通信簿にも、落ち着きがないと書かれていて、夏休みになると父から「また通信簿に落ち着きがないと書かれている。お線香が一本消えるまで仏壇の前で座っていろ!」と言われ、夏休みには毎日仏壇の前で線香一本分の座禅をさせられていました。当時はそれをものすごく苦痛に感じていました。

九州の小学校の定番、別府温泉への修学旅行。

■ 生まれ育った町の様子を教えてください。
 北九州の小倉に生まれました。小倉は筑豊で採掘された石炭などを港の方へ運ぶ際に経由する町で、土地柄としては少々荒っぽく、負けてはいけないといつも人と争っているようなところがありました。しかし、義理人情にも厚く、小倉の町が舞台となった無法松の一生という映画がありますが、まさにそのままの様子の町でした。自分のいけないところは負けん気が強すぎるところなのですが、この気質はその頃に培われたものだと思っています。ちょうど時代背景としては、高度成長期でしたので活気あふれる町でもありました。

弁天町の野球チームに所属していました。体を動かすことが昔から好きでした。

■ 子供の頃の将来の夢は何でしたか?
 昔はずっとパイロットになりたいと思っていました。けれど、中学生の時に友達と校舎の上に登って下を見た時に自分だけが怖いと感じていて、そこで初めて自分は高所恐怖症なのだということに気が付きました。これは、パイロットは無理だと思い、それであきらめがつきました。

 なぜパイロットになりたかったのかと聞かれると理由ははっきり覚えていませんが、たぶん乗り物が好きだったからだと思います。私たちの子供時代は、ちょうど蒸気機関車が電気機関車に取って代わられる頃で、SLを懐かしむ人が多くいました。今でいう鉄道おたくでしょうか。当時はいろいろな所に機関庫がありましたので、私もしょっちゅうSLの写真を撮りに九州、中国地方の各地に両親に連れて行ってもらっていました。いまでも蒸気機関車の種類は見ればすぐにわかります。

向かって右側が私です。

■ 先月のドクター紹介でご登場いただいた神﨑先生から、中学・高校の同級生と伺いました。
 その通りです。私も神﨑先生と同じく中学から鹿児島県のラ・サール学園に進学しましたので、中・高と寮生活を送りました。

 親元を離れての寮生活は、親不孝なことに寂しいことなど一切なく、周りが同い年の男の子同士でしたので楽しくてたまらない日々でした。唯一、家から離れることで残念だったことは、習っていたピアノをやめなければいけないことでした。小さな頃から音楽が好きで、自分で親に頼んでピアノを習いにいかせてもらったくらいなので、レッスンが途切れてしまったのが今でも残念です。

 中学になったら音楽好きの友達と集まってバンドを組むようになり、ギターを弾くようになりました。中学生時代はロックが流行っていましたので、ディープパープルなどをコピーして演奏していたのですが、先日あった同級生の集まりで、友人が当時録音したテープをいまだに持っていて聴かせてくれました。中学生ですので相当ヘタな演奏なのですが、周りはすごく盛り上がって大笑いしながら聴きました。

高校生になってからは、今でいうフュージョンが流行り始め私の音楽の趣味も少し方向転換するようになりました。当時はクロスオーバーと表現していましたが、フュージョンはジャズとポピュラーがまじりあって生まれた音楽です。その影響で私もフュージョンを聴きだしたところ、一気にジャズそのものにはまってしまいました。その趣味が今でも続いているのです。

中学校1年生の頃。カトリックの学校なので、聖書研究会というものがあり、お菓子を目的に参加していました。そこでのハロウィンパーティーでは、みんなで仮装して楽しみました。

■ 高校からはラグビー部に所属されたそうですね。 
 中学の頃は、のらりくらりと遊んでいた感が強くありました。そのため、高校になってラグビー部に入ってから真剣に鍛えられた、という感じがします。ラグビー部の練習は本当にきつかったのですが、そのおかげでチームは伝統的に強く、私たちは高校2年生の時の試合(3年生はいません)では県大会で優勝しました。

 合宿は春と夏の2回、鹿児島の炎天下の下で行われ朝5時、6時から起きてすぐ練習でした。朝練をしてお昼休んで午後からまた練習という、相撲部屋のようでした。平日は確か授業が16時半頃までで、17時からすぐ練習でした。九州は結構いろいろなスポーツが強いですが、その理由の一つは日照時間が長いからだと思います。夏ですと夜8時頃まで明るいので、日が暮れるまで練習をして、日が暮れたら個人練習をしますので、さらに強さが磨かれるのではないかと思います。

■ ラグビーを始めたきっかけは?
 友達に誘われたというのもありますが、団体スポーツ、とりわけ球技が好きでしたので入部しました。それから、なぜかわかりませんが私の学年はみんなで揃ってラグビー部に入部したのです。ラ・サール高校は一学年250人ですが、そのうち29名がラグビー部員でした。いまだにラグビー部OBで集まるときは、私の学年は一番人数が集まりますし一番威張ってもいます。

■ チームメイトとの思い出はさまざまなものがあると思いますが、一つ思い出というとどのようなことが思い出されますか?
 県大会で優勝したことも良い思い出ですが、一番思い出に残っているのは高校3年最後の大会の決勝で負けたことです。

 ラ・サールは進学校でしたので、その頃は自然と受験に意識が向いてしまう時期でした。そのため、必ずしも県大会に集中できていたかと言われるとそうでもなくて、「まぁ、勝てるんじゃない?」という気持ちがどこかにあったんだと思います。けれど、その対戦相手というのが県大会の常連校で圧倒的な強さを誇っていて、さらに高校2年生の時に私たちが勝った相手でした。そのため、対戦校は時間をかけて私たちの弱点を研究し、必死に練習を重ねてきてたそうです。南日本新聞に試合後のインタビューで監督がそう答えていました。受験に気を取られてしまったという仕方のないことでしたが、やはり悔しかったです。ラグビーでの思い出は、勝った試合よりも負けた試合の方が思い出に残っています。

 実は数年前に、残念ながら私は参加できなかったのですが県大会の決勝で当たったその高校と私たちの高校のその当時のメンバーが集まって、30年ぶりの対戦を果たしました。この試合に参加できなかったのは本当に残念でした。
ラグビーは、人とのつながりが非常に強いスポーツです。昔の仲間とはしょっちゅう会いますし、大学でラグビーをやっていたという医師に出会うと、すぐに話が通じて意気投合します。きついスポーツをやっていた同士という点で、お互いをすぐに認め合える仲になります。不思議なスポーツです。

練習風景。県大会で優勝したときは新聞で特集記事が組まれました。

■ 高校3年生で受験を迎え、医学部進学を選んだ理由は?
 もともと理数系でしたので工学系に行きエンジニアになるか、医学部へ進学し医師になるかの道で考えていました。時代は高度成長期でしたので父からはエンジニアになることを勧められ、母からは人助けになる医師になるのを勧められました。私自身は、手を動かして物を作ることが好きでしたのでエンジニアになるのもよし、もし医師になるのならば外科医になろうと決めていました。

 結果、母のいうことを聞き医学部に進学しましたが、高校生の男の子でしたので母の言う人助け云々というよりも、「外科医になれば手を動かす仕事ができる」という思いの方が強かったように思います。なので、私の場合は医師になるというよりも、外科医になるということを先に考えていました。

 医学部の授業は実習が多いので、とても楽しかった思い出があります。顕微鏡を見るのも楽しかったですし、組織学や病理学で絵をかくのも好きでした。けれど、病棟実習で初めて患者さんと接した時、ただ手を動かすだけの職業ではないことを学びました。医療とは感情がある人間を対象としている職業ですから、そこに恐れのようなものを感じたように思います。

■ 大学時代の思い出を教えてください。
 大学は熊本大学の医学部に進学しました。大学でもまたラグビー一色の生活でした。ここでも強いチームに所属していて、部員数も当時でも珍しい50人近くいるチームでした。ラグビーは15人で行なうスポーツですが、15人集めるのは結構大変なのです。ですけど私たちの頃は2軍も作れるほどで、内部で練習試合をすることもできました。

 大学では2年生からレギュラーになったのですが、大学の頃は、私自身2年生から6年生の最後のゲームまで、医学生相手には一度も負けたことがありませんでした。 九州は、九州・山口医科学生大会と西日本医科学生総合体育大会(西医体)の2つが大きな公式試合になります。九州大会は優勝するのに3試合、西医体は優勝するのに5試合あって、2年の時から年間8試合をすべて勝ち続けて優勝してきました。だけど、なんと6年生の最後の大会で、それも準決勝でまさかの敗北を喫しました。唯一、その一試合だけというのが、また悔しさが倍増します。まさかここで足元をすくわれるとは思っていなかったので、本当に悔しい試合でした。

 先ほど、高校の県大会で対戦したチームと30年ぶりの対戦を果たしたと話しましたが、熊本大学のOBともチームを再結成して試合をしました。メディカルセブンズという7人制のラグビーの大会で、おととし熊本大学のOBチームとして出場しました。その時は、杏林大学ラグビー部のOB・現役チームも出場していて、お互い普段は見ないユニフォーム姿で挨拶した時は、気恥ずかしさではありませんが、不思議な感じがしました。

■ 医学部を卒業し専門を選ぶときは迷わず形成外科を選ばれたのでしょうか。
 ラグビー部の先輩が多くいましたので一般外科へ行くことも考えましたが、天邪鬼な面があるので他に自分に合う科がないか探していたところ、面白そうだ、細かく手を動かすことが好きな自分に合いそうだと思ったのが形成外科でした。

 でも、母校の熊本大学にはまだ形成外科がなく、当時は東京大学の形成外科で4年学んできた松永若年先生が皮膚科の中で形成外科の診療をされていました。形成外科学講座がある他大学で研修を受けることも考えたのですが、私は熊本が好きでしたので離れたくない気持ちがありました。それから、今と違い当時は自分の足場を固めるという意味では、自校の医局に入るというのが基本でした。そのため、私は松永先生に弟子入りをして、大学卒業後2年間は皮膚科で研修をしました。

■ 先生の感じる形成外科の魅力とは?
 自由さというと失礼かもしれませんが、形成外科には定型的なものが一つもありません。顔の手術であれば、顔は人それぞれ違いますのでそれによって手術法が変わってきます。同じように見える手術であっても中身が違う、それが形成外科の魅力です。

 私は最初から形成外科医になることを決めていましたので、熊本大学の皮膚科で2年学んだあとは、松永先生の勧めで東京大学の形成外科に入局することにしました。そこで松永先生から紹介されたのが当時、東大で助教授を務められていた波利井清紀先生です。以来、波利井先生の下で学んでいますが、私がいま専門にしているのも波利井先生が専門にされている顔面神経麻痺やマイクロサージェリーを基本とした再建外科で、波利井先生の専門をそのまま引き継がせていただいたものです。手を動かす仕事に就きたい、外科医になりたいという、思い描いていた通りの仕事が出来て、とても幸せに思います。

■ 東京大学にいらして以降、そのまま東京に残られたのですね。
 波利井先生がマイクロサージェリーを開発されたことで、その技術を学ぶため東大には世界中から留学生が集まっていました。私も遠い九州から出てきていたので、彼らと同じ留学生の気持ちでいましたが、結局、そのまま留学先に居ついてしまいました。途中、地方の病院へ赴任したこともありましたが、基本は東京で過ごしています。

 東京大学へ行ったことによって、形成外科の技術を修得するだけでなく、貴重な出会いが沢山ありました。波利井先生の手術を見学に来る先生方は、ちょうど私くらいの年の方が多かったので、すぐに意気投合し、よくごはんを食べに行ったりしていました。その時の友人はいまそれぞれの国で形成外科医として活躍しています。2年ほど前ですがイタリアの友人に執刀医として招かれライブサージャリ―(手術を見学しながら技術を学ぶ勉強会)を行いました。海外の講演会に演者として招待されることもあり、今年の秋にも台湾でライブサージャリ―をする予定です。

イタリア、ミラノ大学のProf. Biglioliと。
いつか一緒にサルディーニャ島で夏休みを過ごそうと約束しているのですが、実現はいつのことやら。

■ 杏林大学病院に思うことは。
 2003年4月に杏林へ来てまず思ったことは、とても働きやすい職場だということでした。職員同士の縦と横のつながり、関係が非常によく、家族的でみんなで団結して仕事にあたるという気風が自然とできていると思いました。医師としていろいろな病院を経験してきましたが、一般病院のようなアットホームさを、そのまま大学病院でも実現できている病院はなかなかないように思います。

形成外科もいいチームを組めていると思います。けれど、仲が良すぎて友達のようになり、いろいろなことがなあなあになるのは、絶対に良くないことだと思って厳しくもやっています。

■ それでは最後に、患者さんへのメッセージをお願いします。
 今の医療は、報道などの影響もあると思うのですが、悲しいことに医師と患者がまるで対立関係にあると感じるときがあります。それは間違っていて敵は病気であり疾患です。医師と患者は協力して疾患をやっつける、先ほどの団体競技で言えば同士、チームメートであるはずだと思うのです。私は形成外科医として、形成外科疾患に対して世の中にあるベストな医療を提供できる自負があります。患者さんには、多久嶋という医師が自分の仲間だと感じて欲しいと思っています。



好きな言葉

根性

人間最後は根性です。

多久嶋先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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