電話0422-47-5511

  1. トップページ
  2. 病院概要
  3. 当院のドクター紹介

当院のドクター紹介

2011.06

杏林は地域医療のみならず、日本や世界に貢献できると考えています。

6月のドクター紹介は、感染症内科/保健学部の小林 治客員教授の紹介です。
(2016年4月現在 保健学部教授、病院管理部副部長) 
幼少期にドイツで過ごされたという小林先生。そこで子供ながらに感じた文化の違いや、杏林大学医学部学生時代の思い出などをお伺いしました。

小林 治
名前 小林 治 (こばやし おさむ)
血液型 AB型
趣味 モーターサイクル:ひたすら無事に帰宅する事だけを考えて楽しんでいます。
料 理:キャンプや海外留学時に料理を覚えました。研究者には料理上手が多いようです。
ゴルフ:父に連れられ小学生の頃から半強制的にやらされていました。昔は嫌々やっていたのですが、最近になって審判不在のスポーツとしての魅力が少しずつ解ってきました。
専門 感染症
所属 感染症科/保健学部客員教授
外来日 月・土曜 午前中
プロフィール 1963年 東京都国分寺市に生まれる。
1990年杏林大学医学部を卒業後に第一内科に入局。コペンハーゲン大学付属王立病院臨床微生物学教室への留学を経て呼吸器内科助手、感染症科講師、総合医療学講師、2010年保健学部看護学科医療科学Ⅱ教授、2014年10月客員教授に就任。現在に至る。
日本感染症学会評議員、日本化学療法学会評議員など。

■ 小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
 一言で表すとお調子者でした。
生まれは東京都の国分寺市です。国分寺駅南口の住宅街の一角が私の遊び場でした。当時の子供はウルトラセブンに熱中していて、私も自分の事をウルトラセブンのような正義の味方だと思っていました。ウルトラ警備隊のヘルメットを被りプラスチックの刀を背負って近所の子供を集めては、よくパトロールをしていた記憶があります。いまでも国分寺には私のことを覚えている方が何人か住まわれているので、町で出会うと「今日はパトロールじゃないの?」と声を掛けられます。そのためここ最近は国分寺には寄りつかないようにしています。

 子供の頃は自分の才能は無限大だと思っていました。将来はスポーツ選手でも学者でも、何にでもなれると信じていました。いろいろな本を読んでは影響を受け、探検隊の本を読めば探検隊になろうと思いました。写真を見ていただいてもわかるとおり、とにかく元気でお調子者の子供でした。

3歳頃。庭先でパトロール前の訓練をしております。

まさに漫画「20世紀少年」の時代です。真ん中で友達のシャツを上げているのが私です。

■ 幼少期にドイツで過ごされたことがあるそうですね。
 父の研究留学に伴い、4歳から西ドイツのBorsterという町で2年間過ごしました。地元の小学校に通いましたが、その学校では初めての日本人入学者だったようです。もちろん授業を受けるのもコミュニケーションを取るのもドイツ語でしたが子供の頃は外国語を覚えるのが早く、困ることは一切ありませんでした。そのかわり忘れるのも早く、大学生になりドイツ語を履修した時には完全に言葉を忘れていました。
Borsterは自然の豊かな場所で、33人のクラスメイトの多くが農家の子弟で、それ以外は研究所村の職員の子供でした。みんなで牛を追いかけたりトラクターに乗せてもらったりして遊び、東洋人だからと言って差別もなく非常に楽しい思い出が多くあります。ここで、人を差別しない、自分の気持ちに素直に生きるということを知らず知らずのうちに学んだように思います。
 ドイツでは差別はありませんが大人でも子供でも自分の身分や立場をわきまえることを強要されるところがありました。いまのドイツではありえないことだと聞きましたが、当時大人が行くような高級レストランの前にはジャングルジムなどが設置されていて大人が食事をしている間は子供はそこで遊んで待っていました。大人の行くべきところに子供は入らないというのが常識であったのです。日本でもそのような時代があったと思いますが、ドイツの方がもっと強かったように思います。

教会で行われる入学式。

1968年 父が留学した研究所の前で。

2年前、妻と再訪しました。当時とまったく変わらない景色に感動しました。

■ 学生時代の思い出を教えてください。
 帰国後はまた東京に戻り、私が小学3年生の頃に父は杏林大学へ赴任しました。
 父が研究室を立ち上げた1973年頃は杏林大学も黎明期で、当然のことながら十分な実験器具は揃っていませんでした。しかし父は「金がなければ頭を使え。頭がなければ体を使え」と言っては近所のホームセンターへ行き角材などを調達しては研究室の方々と実験器具を作っていました。私はよく学校が終わると研究室へ呼ばれて、実験動物の世話や実験器具の制作、実験結果をグラフにまとめる作業をさせられていました。当時はパーソナルコンピュータなどありませんから、データのまとめはロットリングというペンと定規を使い一つ一つグラフ用紙に書き、それを写真屋に持参してはブルーバックで焼いたスライドを作成していました。そのような研究のプロセスを全て手伝う生活は中学時代まで続きました。クラブ活動が終わってから杏林大学の研究室に向かうという生活は、実は学術的な興味ではなく、手伝いの対価として与えられる出前の大盛りラーメンの魅力でした。今は廃業してしまいましたがその定食屋さんの看板メニューである「びっくりラーメン」は目玉焼きとコーンがのっていて大変美味かったのです。

■ 中学生の頃から医学の世界に触れたことで、自然と医師を志すようになったのですか?
 呼吸器研究室の真摯なまでの研究活動には驚きましたが、私には医師になろうという気があまり湧きませんでした。
 高校は国立高校に進学しましたが、そこは三多摩の中学校の生徒会長が集まったようなものですから有能な友人が沢山出来ました。2年の時には野球部が夏の甲子園に西東京地区代表で出場し、数年後は東大野球部のレギュラーメンバーのほとんどが同窓生でした。高校で彼らにもまれ様々な職業の可能性を知り、エンジニアやデザイナーなど、「もの創り」をするような職業に就きたいと思うようになりました。ところが工学部や美術学部に進む為に研鑽を積んだつもりでも入試で失敗しました。
 そのような時に父から、「医師は人の病気を治療するだけでなく、新しい治療法の確立や新薬の研究など、新しいことも創造できる。そして、何よりも仕事として善である」と言われました。苦渋の浪人生活に溺れそうな時の助け船です。ここは素直に杏林大学医学部を志願し、なんとか受け入れて頂いたのです。

■ 当時の杏林大学はどのような様子でしたか? 
 当時の杏林大学は開業医の子弟が多く、高校の友人とはまた異なる独自の雰囲気がありました。地方の産婦人科医院の子弟であれば、「地域の妊産婦さんから頼りにされている医院だから必ず自分が継がなければ」や、寒冷地域の脳外科病院の子弟であれば「うちの脳外科があるからこの地域で脳卒中に対応できるのだから、自分は何としても脳外科医にならなければ」というような確固たる使命感を抱いている友人が多くいました。そういうことからも、医学部のキャンパスライフは高校の友達から聞くものとはだいぶ異なっていて、杏林の学生はよく学校に来ていましたし、真面目に授業にも出席していました。

在学中はスキー部に所属しました。卒後10年の同窓会の写真です。

■ 授業では現在各科で教授を務められている先生方の講義を受けられていたかと思いますが、思い出深い講義や先生方とのエピソードは?
 どの講義も大変興味深いものでしたが、最も感銘を受けた講義をいくつか紹介いたします。

 現在国際医療福祉大学の学長をされている北島政樹先生は外科医でありながら、切らない治療法を研究されていました。当時はまだ未解明であった消化性潰瘍をテーマに研究されていて、H2受容体拮抗薬やプロトンポンプ阻害薬の開発にも携わったと伺いました。多忙な外科医と研究者としての二重生活は大変苦労されただろうと想像したのですが、先生は臨床医が科学研究を行うことの重要性を強調されていました。講義のあと、「先生はH2受容体やプロトンポンプと胃潰瘍の成因のみ講義されましたが、ピロリ菌には注目されていないのですか?」と質問しました。北島先生は質問に対して丁寧に答えてくださり、是非とも外科医を目指すよう勧めても頂きました。私が入局する頃に北島先生は既に杏林大学をお辞めになられていましたが、先日ある集まりで偶然お会いした際に「外科医になればもっと出世していたのに残念ですね」と笑っておられました。
 腎・リウマチ膠原病内科の長澤俊彦名誉教授の腎疾患やリウマチの講義は、臨床と科学研究とを直結させた緻密なものでした。全身の様々な血管のうち、一定の太さの血管がいっせいに障害を受ける系統的血管炎は臨床医泣かせの疾患です。結膜炎と関節の痛みと手の痺れと呼吸困難を訴える患者さんは一体何が原因なのか、判断に困ります。結膜と関節と神経と肺、ここに分布するたまたま一定の太さの血管が障害を受けたことで臓器を超えた多彩な症状が出現するのですが、この系統的血管炎症候群という概念を日本で提唱されたのが長澤先生です。私はこの講義ではじめて耳にする病名と病気の考え方に衝撃を受けたことを覚えています。
 「『眼科、耳鼻科が医者ならば、蝶やトンボも鳥のうち』という言葉があるらしいが、あと10年もしたら内科や外科に負けない眼科を作ってみせる」と仰っていた眼科の故樋田哲夫教授の講義は、眼科学の歴史と今後の展望を濃縮したもので、感銘深いものでした。
 皮膚に起こる現象を詳細に観察し、専門分野のみならず広範囲の膨大な文献を検討し、そこから緻密な実験計画をたてて研究され、臨床現場に還元されている皮膚科の塩原哲夫教授の講義にも大変感激しました。現在でも臨床で困った現象があると的確な御助言を頂いている先生です。

 講義を通じて、その先生の信念や信条が垣間見えることがあります。臨床をやりながら研究をやるというのはどっちつかずで中途半端と思われがちでが、医学は実学ですので自分の目で確かめてあらためて検証して新しい価値を創造する、そういう素晴らしい仕事をされている先生は意外にも身近に存在していて、それは杏林大学を土壌として出来るのだという事を教えて頂きました。自分もあの先生方のような生き方をしてみたい、という気持ちが固まったのです。

■ では専門を選ばれるときは、講義から得た影響によるものが大きかったのでしょうか。
 私は消化器外科への憧れが強かったので、外科入局の希望を父親に三度話しましたが最後は烈火のごとく怒鳴られ、半ば強制的に第一内科に入局することになりました。
第一内科では呼吸器内科を専門にしました。私が入局した頃の呼吸器内科の患者さんは、びまん性汎細気管支炎や肺結核後遺症による慢性呼吸不全の方が多かったのです。そのような方々は緑膿菌という細菌に慢性感染されているせいで粘り気が強い痰と咳で悩んでおられ、調子が悪くなると入院してこられます。当時は現在のように厳しい規制が無い時代でしたので、患者さんにお願いをして検査用以外に研究したいので、と痰を分けて頂いていました。研究室で患者さんの痰を検査してみますと、緑膿菌が多数検出されます。菌は複数個に固まっていて、よく観察してみると菌の集まりの周辺に何かぬめり成分のようなものもあるようです。また、菌の集まりには肺炎などでは通常活発に集まってくるはずの好中球が少ないように思いました。教室の先輩方が帰宅した後の研究室で、夜中にこそこそと観察しては、翌朝、その患者さんのところに行き、昨晩研究室で観察した所見などを自分の考えを交えてああだこうだと話す毎日です。今思えば、孫ほどの年齢の主治医に情けを掛けてくれたのでしょう。とにかく、あらかじめ検査用の容器を渡しておくと、「先生、良い痰がでましたよ」と笑って渡してくれたものです。こうして、教室の武田博明先生(現、済生会山形済生病院統括診療部長)らがなさっていた、慢性緑膿菌気道感染症における細菌biofilmの意義に関する研究を、また別の角度から研究する事になりました。これも、心優しい患者さんが「先生、一生懸命研究して下さい」と御自分の痰や血液を分けて頂いたお陰だと思っています。

呼吸器研究室の仲間とKenyaから研究に来られた医師を交えての記念撮影。

1996年Risbonで行われた国際マクロライド会議にて。呼吸器内科や感染症科の重鎮に囲まれて恐縮しています。

■ 入局後から臨床と研究を両立され、杏林大学を土壌として新しい価値を作りたいという夢の第一歩になったのですね。
 大学院に進学し、教授から『慢性緑膿菌気道感染症の免疫反応』を研究テーマに与えられました。武田博明先生が細菌と抗生物質との関係を研究していたところに、私は患者さんの体の反応を分析するわけです。初めて本格的に従事する研究でしたが、何度も予備実験を行ってみても綺麗なデータが出ず、研究の方向性さえも見失いそうになっていました。そんな時に、同じ第一内科で腎・膠原病内科を専門にされている有村義宏教授から、ある提案をいただきました。

 腎・リウマチ膠原病内科の長澤名誉教授と有村教授は、先に述べた系統的血管炎症候群の患者さんの血液中に検出される抗好中球細胞質抗体(ANCA)という物質の臨床的意義の研究を続けられていたのですが、研究仲間でありイギリスCambridge大学の中国人留学生であったZhao先生が、欧米人の慢性呼吸器疾患であるのう胞性線維症 (Cystic fibrosis, CF) の血液中にもANCAがあると報告した、ついては共同研究してみないか、というのです。当時はインターネットの普及もまだでしたが、とにかく杏林大学の大学院生とCambridge大学の中国人留学生との共同研究が始まりました。CFの肺と日本人に多いびまん性汎細気管支炎とは非常に似ているため、ついてはまず、びまん性汎細気管支炎の患者さんの血清を送ってくれれば血清中ANCA値を測定するとのことでした。現在、ANCAは系統的血管炎症候群の中でもウェゲナー肉芽腫症患者さんの血中で上昇するPR3-ANCAと、顕微鏡的多発動脈炎やアレルギー性肉芽腫性血管炎の患者さんの血中で上昇するMPO-ANCAは一般診療でも測定可能ですが、私とZhaoがテーマにしたものは全く新しいBPI-ANCAというものでした。患者さん10名分の血清を凍結してCambridge大学に郵送し、結果をファックスで受け取り、臨床データと合わせてファックスでやりとりする、というのんびりとした共同研究です。そのうちCambridge大学近くのバイオテック関連会社がBPI-ANCA測定キットを市販するというので日本からのデータなどを無償で提供し、正常値の算定などに協力しました。キットが完成したおかげで、BPI-ANCAの測定も可能になり、研究は俄然波に乗りました。

 そんなある日、当直明けに病棟業務を行っているとポケットベルが鳴りました。教授からの連絡で、「大変なことになったからANCAのデータを持って(旧)外来棟の会議室に来い」というのです。まだ立て直す前の外来棟のエレベータはなかなか来ず、データを持って会議室がある6階まで駆け上がりました。部屋には高級そうなスーツを着た西洋人が4~5名ほどいて、聞くと、Los Angelesのバイオテック関連会社の社長以下役員で、私が研究しているBPI-ANCAの抗原であるBPIを製薬として開発中とのことした。ついては、私の研究の内容を説明して、会社の研究結果で獲得した特許に抵触しないか確かめたい、というのです。私は動揺しながらこれまでの研究結果と自分の考えを素直に述べました。社長は私の説明を黙って聞いていましたが、研究の中で欠落している部分をズバリ指摘しました。それは、好中球の成分であるBPIを使わなければ不可能な実験で、実現させるためには大量のヒト白血球が必要です。私は日本赤十字社にお願いして廃棄する白血球を分与してくれないか頼んで門前払いをくらったばかりでした。その事を説明すると、社長は「それならば我が社で精製したBPIを分与しよう」と笑顔をみせ、特許リストと関連した論文の山を渡しながら「どうか特許に抵触しないよう、研究の成功を祈る」と言って杏林大学前の道にずらりと並べたキャデラックのストレッチリムジンのハイヤーで帰られました。数日後、LAから耳かきの先にのる位の精製BPIが届き何よりも嬉しかった事を思い出します。これをもって私の博士論文は完成しました。びまん性汎細気管支炎の患者さんの血液からANCAが検出されるのは、biofilmに囲まれて肺の中に長期に定着している緑膿菌との関係がある事、ANCAは病気の進展とは関係が無い事、それ故に調子が良いか悪いかの判断さえ、血液中のANCAの値では評価が出来ない事が判りました。データが揃ったのは大学院4年目の夏。まさに滑り込みの論文だったのです。

 私が入局したのは呼吸器内科でしたが、不思議なことに共同研究の引き金になったのは腎・リウマチ膠原病内科の有村教授のおかげでした。Zhao先生にも、LAの社長にも感謝しています。でも、本当に応援していただいたのは、粘り気のある痰で苦しんでおられた患者さん達だと思っています。あらためて、皆様には感謝しております。

長澤名誉教授と本学卒業生の吉田雅治先生(東京医大教授)と。2000年Birminghamで開催された国際ANCAワークショップにて。

1998年Berlinで開催された。ヨーロッパCF会議にて。この学会で、留学先をCopenhagenに決めました。

国際ANCAワークショップにて。私のポスターの前でパンをかじっていた紳士に無理矢理発表内容を説明したところ、時期学会会長でした。

■ 呼吸器内科から感染症科に移られた経緯は。
 博士論文を書き終えた後、引き続き研究をするためにCopenhagen大学付属王立病院臨床微生物学教室に留学をしました。ここの研究室はチームワークが良く、国際学会で観察していると研究者はちょこっと集まってはてんでに好きなセッションの最前列で話を聞くために散り、しばらくするとまた集まっては何か笑いながら話している、という雰囲気です。
 わずか1年の間でしたが、この大学に設置されたCFセンターでは医師とカンファレンスをし、研究室では夜中まで実験し、たまの週末は仲間の家で料理を作ってビールを飲んで過ごしました。 また、この間の研究成果に注目頂き多くの国際学会にシンポジストとして招請していただけた事で、この世界にも多くの仲間が出来ました。

2009年9月、家内を連れて留学先の研究室を再訪しました。右がHoiby教授、左は親友のClaus准教授です。

1999年Copenhagen留学中の写真です。国土が平坦なので自転車を愛用していました。今も日本で愛用しています。

 2000年に帰国したのですが、その頃は、高度医療における感染制御がときに患者さんの予後を左右することが注目されてきました。杏林大学医学部付属病院においても、医療安全管理の面から、また、臓器別に特化した医療システムの中で横断的な役割を果たす意味から感染症科設置が必要と判断し、2003年に診療科としての感染症科が設置されました。
 この時の病院の判断は正しかったと思います。それは、感染症科の設置と前後してアジア地区を中心としたSARSの流行があったからです。

■ 当時ニュースでも大きく取り上げられていましたが、どのような対応をされていたのでしょうか。
 SARSは香港、ベトナム、台湾、中国本土を中心に、2002年11月頃から散発的に報告されていました。当初は「謎の肺炎が東南アジアや中国で集団発生しているらしい」という程度の認識でしたが、2003年2月末、中国暦の正月にあたる頃に病気が旅客機に乗っているかのごとくSARSは一気に世界中に拡散しました。これは近いうちに日本でも発生するかもしれないとは誰もが考える事ですが、その対応を検討するためまずは現場を見に行くべきだという発想はまさに「金が無ければ頭を使え、頭が無ければ体を使え」の精神です。医療支援先は、香港のQueen Mary病院 (QMH)で、現地での感染拡大の様子や経路に注意を向けながら、SARS対応についての病院でのシステム作りを見学するつもりでした。これは「地球の平和を守る正義の味方」のつもりです。
 成田空港から400人乗りのジャンボジェット機に乗ったのですが、客室乗務員10人に対して香港行きの乗客は20人しかおりませんでした。香港に到着しても、N95マスクを装着したまま病院に向かう異常事態でした。結局、私の中のお調子者が顔を出し、常に専用のマスクをして、専門病棟には防護服を着てメガネを付けて入室し、その恰好のまま現地の医療スタッフとディスカッションをしました。病棟外であっても、マスクは必ず着用し、握手もしないなど、感染のリスクになることは極力避けた中での業務でした。
 今までの研究は、びまん性汎細気管支炎の患者さんが対象でした。今度は、自分がSARS患者になって死んでしまうかも知れません。実際、QMHの感染症科の医師、病院勤務の看護師、実習に来ていた学生からも死亡者が出ていました。もう正義の味方どころではありません。必死になって調査し、現地の医療スタッフとディスカッションをし、なんとか無事に帰国した時はマスクを外してビールでも飲みに行きたい気分でしたが、SARSの潜伏期間内はおとなしく自宅待機をしていました。 この視察により、SARSの概要が把握でき、杏林大学医学部付属病院でも対策訓練を行いました。幸い、日本では感染者が出現せず、アジア諸国でも流行は終息しました。SARS流行で強く感じたことは、効きにくいと言われている緑膿菌でさえも細菌感染症に対する抗生物質は多少の選択肢があるのですが、SARSのようなウィルス感染症に関して、我々は薬の選択肢が少ないのです。この経験を生かし、新規抗インフルエンザ薬の開発に参加しております。

 ところで、このQMHを訪れた際、Kenneth准教授と行動を共にしていたのですが、日本でSARS研究会をしたときに偶然彼と隣同士の席に座りました。しかし、現地ではマスクに防護服でしたので、お互いの顔を見たことがありませんでした。名刺交換をして見覚えのある名前を見てお互いのことに気が付き、その時初めて彼と握手を交わしました。当時はお互い苦労したこと、日本ではSARSが発生せずよかったということなどを話しました。

■ 感染症科では、日々の診療に加え院内感染対策やインフルエンザ 等の流行時に中心となり対応するなど、業務が多岐にわたりますね。
 私たちの診療は、時に診療科や組織の枠を超え、相互に連携し対応することが必要になります。 その例として、2009年の新型インフルエンザ流行では、三鷹医師会ととても良い連携ができました。当院と医師会の先生方とで最新のインフルエンザ情報と、その対応方法を共有することでスムーズな対策がとれたのです。発熱の患者さんが来た場合、流行下においてはインフルエンザの可能性が高いわけですが、医師会の先生方の病院に患者さんがいらしても、通常のインフルエンザ患者さんと同様の診察をしていただいて大丈夫であることを伝えたところ、医師会の先生方の中で、専用の窓口を作り対応してくださいました。そのおかげで、杏林の1・2次救急外来には発熱患者さんが最大でも100人程で、混乱せず通常の救急外来に専念することができました。

 今までの経験をお話してお分かりいただけると思いますが、人と人とのつながりはとても大事です。三鷹医師会の先生方にも、今は大学を辞めて感染症コンサルティング施設を立ち上げて大儲けしている香港のKenneth先生も、CopenhagenのHoiby教授やClaus准教授にも、ANCAのZhao先生も、彼らと仕事を通じての苦労やときに命の危険にさらされながらの恐怖を共有しながら国境を越えた友情をたかめあえた事はもの凄くよかった、と感じます。

2009年に杏林大学病院で行ったインフルエンザ対策訓練で、NHKの取材を受けました。

■ いま、杏林大学について思うことは。
 杏林大学 には、優秀な先生が沢山出てこられました。この組織の中でも、もっともっと人のつながりを濃くして新しいことに取り組んでいきたいと思います。私はいま保健学部看護学科医療科学研究室に所属していますが、この組織には精神科医の大瀧純一保健学部長 、法医学医 の松村桜子先生や産婦人科医の勝又木綿子先生、英語の山本真智子先生などがいらっしゃいます。診療科や専門の枠を超え、それぞれのスキルを合わせて頑張れば、地域医療のみならず、日本や世界に貢献できると考えています。専門は異なりますが、患者さんの助けになりたいという気持ちは同じです。とてもよい雰囲気だと思います。



座右の銘

君子は和して同ぜず  小人は同じて和せず

孔子の論語にある言葉です。君子は協調性に富むが、きちんとした信念がある。小人はやたらと同調するようにみえるが真の意味の協調は無い、という意味だと思います。



休日の過ごし方

 休日は趣味のモーターサイクルに乗ってキャンプに行くこともあります。土日で鹿児島まで往復出来るのは道路整備と技術革新の賜物です。
 モーターサイクルはリスクが高い乗り物です。また、安全への考え方についてもクルマとモーターサイクルは全く異なります。突然のアクシデントに対して、シートベルトで車両本体に体を固定した方が安全なクルマに対して、モーターサイクルは大切な車両を投げだす一瞬の反応が乗り手の怪我を少なくします。したがって、アクシデントの際に車両を投げだす事をためらうような要因、分不相応に高価だったり月賦での車両の購入や、車両の貸し借りはモーターサイクルでは勧められません。原付や大型モーターサイクルの事故で搬入された患者さんに、「モーターサイクル事故で最も生命リスクが高いのは頭部外傷と胸部外傷です」と説明するだけではなく、「事故は乗り手の責任。トラックがぶつかってきそうになったらモーターサイクルを捨ててトラックの荷台によじ登れ」とアドバイス出来るのも、私が現役のモーターサイクリストだからだと思います。
 無事、これ名人なり、です。

仲間とチームを組んで小型モーターサイクルによる耐久レースに参加しました。先頭を走っているように見えますが、実は先頭集団に周回遅れにされるところです。

鹿児島までのキャンプツーリングの途中、宮崎の鵜戸神宮に立ち寄りました。九州には関東とはまた違うどこか牧歌的でかつ神秘的な雰囲気を感じています。

 また、年に3、4回はキャンプに行くのですが、そこで料理を覚えました。行先の地域地域でキャンプを主催するモーターサイクルクラブがいくつかあるのですが、そのようなクラブにはたいてい料理人が数人います。我々のキャンプのメニューはチリコンカルネ、鰹の叩き、豚の丸焼き、鮭のチャンチャン焼きなど豪華そのものです。彼らの見よう見まねで料理の技術を磨き、今ではキャンプ場で焼きそばやカレーライスを作っている隣の見知らぬ若者達に技術指導を行っております。そして我が家の休日午前の料理番は私です。

最近作った力作のビーフシチューです。

小林先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

取材担当
企画運営室
広報・企画調査室







病院概要
医療安全管理・感染対策
施設のご案内
新着情報
情報公開
患者支援センターのご案内
人間ドックのご案内