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当院のドクター紹介

杏林は、医療に対する考えや真摯な姿勢がどこよりも素晴らしいと思います。

11月のドクター紹介は、呼吸器内科の滝澤始教授の紹介です。
今年の4月に当院の教授に就任された滝澤先生。小さな頃の様子やこの半年で感じた杏林大学の印象を伺いました。

滝澤 始
 
名前 滝澤 始 (たきざわ はじめ)
血液型 O型
趣味 読書:特に歴史小説が好きです。
ガーデニング:最近はゴーヤを育てています。今年もたくさん実を付けました。虫はつきませんし、花もかわいく香りもよいのでお勧めです。
専門 呼吸器全般、特に気管支喘息、COPD、各種びまん性肺疾患
所属 呼吸器内科  教授
プロフィール 昭和30年 新潟県新潟市に生まれる。 昭和54年3月東京大学医学部医学科卒業。 昭和57年7月東京大学医学部附属病院物療内科助手。 昭和63年アメリカ合衆国ネブラスカ州立医科大学留学:気道上皮の再生・修復機構の研究。 平成13年9月東京大学医学部附属病院呼吸器内科助教授。 平成18年8月帝京大学医学部附属溝口病院第四内科教授。 平成23年4月杏林大学医学部呼吸器内科教授、現在に至る。
主要学会活動:日本内科学会指導医、日本呼吸器学会指導医・代議員、日本アレルギー学会指導医・代議員、日本呼吸器内視鏡学会指導医、Am. J. Respir. Cell Mol. Biol. Associate Editor, Recent Patents on Inflammation and Allergy Drug Discovery, Editorial Board

■ ご出身地はどちらですか?
 生まれは田舎のあった新潟ですが、育ったのは東京です。3歳頃まで神田で暮らし、小学校に入学する頃までは熱海で過ごしました。父は転勤の多い仕事をしていて、その都度、家族で引っ越しをすることもあれば単身赴任をすることもありました。私が小学校に上がる頃には、父は定年を迎える年でしたので、それ以降は横浜市の保土ヶ谷区に落ち着くことになりました。
 保土ヶ谷はいまでは随分開けてしまいましたが、当時は原生林といかないまでも田畑が広がり、人の手の入っていない山が多くありました。野草好きな人が羨むような珍しい野草を沢山見ることができる、とても自然豊かな場所でした。

■ 子供の頃に夢中になったものは。
 小学校の校庭の脇にはすぐにジャングルのような森が広がっていて、蝶やトノサマバッタなど今は見かけることの少ない昆虫が沢山いました。水はけの悪い所は沼になっていて、ザリガニやゲンゴロウなどの水生昆虫もいましたし、オニヤンマも堂々と飛んでいましたね。そんなわけで小さな頃から昆虫採集に夢中になりました。  
 小学生の頃は標本を作っていましたが、中学生になってからは採取と標本作りはやめて、飼育研究をするようになりました。食草から卵を採ってきてケースの中で孵し、食草を与えて観察するようになりました。最初は成長過程を見るのを楽しんでいましたが、次第に昆虫の成長に疑問を持つようになってきました。たとえば、蝶の蛹は緑色もあれば茶色のものもあって、なぜ2色あるのかということを不思議に感じるようになりました。そこで、一つの仮説を立て、周りから身を守るために緑の上に置けば蛹は緑色になり、茶の上に置けば茶色になるのではないかと考え、実際に何度か試してみました。結局その関係ははっきりとはわかりませんでしたが、そのようなことを通じて、次第に研究することに興味が沸くようになりました。

小学校3年生ごろ、愛犬とともに。

■ 中学生の頃から本格的な研究をされていたのですね。
 中学で所属した生物部では、ショウジョウバエを飼育して遺伝子の研究をしました。ショウジョウバエはたくさんの遺伝子変異を持った昆虫で、普通は赤い眼をしているのですが、黒や白の眼をもったものや、体が飴色をしていたり黒かったりと、様々な様態をしています。赤眼と黒眼で交配させると三分の一の確率で黒眼、三分の二の確率で赤眼が生まれるのですが、それがとても原則的な形で出てくるものもあれば、代わった形で出てくるものもあり、それがとても興味深く、中学生の頃は、それらの観察に明け暮れていました。
 けれど、表向きには生物部の所属でしたが、背が高かったこともありバスケット部に顔を出したりもしていました。私が進学した学校は、中高一貫教育の聖光学院というところで、部活動は一つしか所属してはいけないという決まりがありました。そのため、バスケの大会などには出られませんでしたが、仲の良い友人が部長をしていたこともあり、たまに練習に参加させてもらっていました。

■ 医師の道に進んだのも生物や遺伝子に興味があったことが関係しているのでしょうか。
 具体的にはっきりと医師になろうと考えたことはありませんでした。生物などに興味があったこと以外にも、いくつかの要素が重なり、結果として医学に興味を持つようになったのだと思います。
中学1年生の頃ですが、精神科医で作家でもある北杜夫先生の「どくとるマンボウ航海記」という本を読みました。この本は、北先生が船医の体験に基づいて書いたユーモアあふれるエッセイで、ベストセラーになった作品です(つい先日亡くなられました。大変残念ですね)。それを読んで、なんとなく医師に憧れた時期があったり、高校1年生で理系か文系を選択するときに、理系に進んだことで何となく方向が決りました。しかし、最終的に医学部を選んだのは、進路を決める段階でした。
ですから、両親含め親戚にも医療の仕事についている人はいませんでした。父は「自分の好きなようにしろ」というタイプですし、母は「医学部なんてかっこいいじゃない」と一言言っていただけでしたので、特に相談も反対もなく医学部に進むことになりました。

■ どのような学生生活を送られましたか。また、医学部の授業を受け、どのようなことを感じましたか。
 大学では医学部のテニス部に所属しました。小学生の頃は野球を、中学ではバスケと、球技には触れていましたがテニスは初心者でした。けれど、仲の良い友達がテニス部に入ったことと、当時、大学生になったらテニスをする、というのが流行っていました。そのような簡単な理由でテニス部に入部しましたが、一度、東医体にも出場しましたし、日々の練習や合宿などを通じて部の仲間とは強い絆ができました。それは今でも続いています。
 大学の授業を受けて感じたことは、特に基礎系の教授に多いことでしたが、人にものを教えようという気が全くないということでした。今思うとノーベル賞候補になったり文化勲章をもらうような錚々たる先生方でしたが、自身の興味のある分野や、いかに苦労して研究をしているかということを熱心に話し、医学の教科書に沿って授業をすることなど一切ありませんでした。後で教科書を見ても、講義の内容は全く載っていないのでわかりません。ですけど、最終的に試験はあるのです。 では、どのように試験対策をするかというと、それはうまくできていて、先輩から延々と伝わる試験の山を張った教科書のようなものが受け継がれています。そして、代々、加筆・修正することで、内容をバージョンアップさせていきます。これぞ大学だと感じました。高校までは教科書に沿って授業をしますが、大学に入ってからは何だかよくわからない講義で、そのような中でも自ら学んでいくのだとわかりました。当時の大学は、全て自己責任でした。なので、午後の授業を休んでテニス部の練習をすることも多々ありましたが、それも自己責任でした。それが大学に入って感じたカルチャーショックでした。
 また、医学部の授業の中で今でも鮮明に覚えているのはやはり解剖実習です。非常に強い衝撃でした。初めてご遺体を前にして学んだことで、医師になるという肝が据わる思いをしました。

■ 大学を卒業し専門を選ぶとき、なぜ呼吸器内科を専門にされたのですか?
 この質問についても何か真摯な理由があればよいのですが、私はこういうことに本当にラフな人間で・・・。
 当時は今と違って全ての科を研修するという制度がありませんでした。そのため、卒業と当時に、内科か外科か小児科かと、すぐに道を選ばなければなりませんでした。しかし、私は卒業する3月まで、内科か外科かで迷っていました。その理由も散文的で、外科に進みたいと考えていたのはテニス部の友人が、みんな外科を志望していたことでした。仲間と同じ科に進んだら何かと良いのではないか、と考えていたのです。でも、体力面から私には難しいだろうとは思っていました。それでも根本的には外科が好きなため、学生時代の実習はすべて外科の研修を受けていたのですが、外科志望を断念したもう一つの重要な理由として、私は靴紐もろくに結べないほど紐を結ぶことが大の苦手であるということでした。糸を縫合することをナートというのですが、さすがにナートをできないと外科医としては駄目だろうと思い留まり、内科に進むことを決めました。
 では、内科の中でなぜ呼吸器を専門にしたかというと、内科の研修中にある診療科を回った時に、そこには消化器や血液を専門にされている先生が多くいらしたこともあり、胸のレントゲンを撮っても病状をずばりと言い当ててくれる先生が非常に少なかったことに驚きました。それが反面教師になり「じゃあ自分がなってやろう」と思ったのが呼吸器内科を専門にした理由です。

■ 中学生の頃は遺伝子に興味を持たれていましたが、それを専門にすることは考えませんでしたか?
 呼吸器内科を専門に選んだあとも、遺伝子をテーマにした研究はしてきませんでした。それには2つ理由があって、一つは、私が学位を取った頃というのは遺伝子の研究をするハードルがとても高い時期でした。技術的な制約があったこともありますが、ちょうど個人情報の問題や重要性が広まった頃で、一時的に遺伝子情報を扱う研究は日本において非常に難しくなった時でした。もう一つの理由は、病態解析と言いますが、たとえば喘息の患者さんがある特定のアレルゲンを吸うと発作を起こし、その時にどのようなことをすれば一番良くなるか、または、あらかじめ治療薬を使っている方がそのアレルゲンを吸ったときに発作が起きないかなどの現象を見るほうに興味がありました。遺伝子よりも、病態論が好きでしたので遺伝子を専門にすることは考えませんでした。

呼吸器内科医としての最初のメンター故宮地純樹先生(右から3人目)と同僚(1983年ごろ、関東中央病院にて)

■ 医師になってうれしかったこと、また困ったことはありますか。
 うれしいと感じるときは、やはり患者さんの病気が良くなり、元気になった時です。外科医と違って内科医は、患者さんと長いサイクルでお付き合いすることになります。そのため、患者さんの病気が劇的に良くなるという瞬間はあまり多くありませんが、そのような中で、私が若いころに当直をしていた病院で、10代の男の子がステロイド依存性喘息のとても重い症状で搬送されてきました。一時、心肺停止の状態までに陥ったのですが、何とか手を尽し助けることができました。それから数年経ち、いまから10年くらい前ですが、たまたまその病院に用があり出向いたところ、偶然にもその男の子と再会しました。もう30歳くらいでしたが面影が残っていて、お子さんを連れていました。話をしたところ、あれ以来ずっと元気でいるとおっしゃっていました。その時は、本当にうれしく思いました。
 困ったことというのは、これは底の浅い話ですが、職業柄、親類縁者や友達の友達というお会いしたこともない方からの健康相談を受けたときは困ったなぁ、と感じることがあります。といいますのも、まったく医療情報がない中でお答えしなければならないからです。「喘息がなかなか治らなくて、どうしたらいいでしょうか」という抽象的な相談で、よくよく話をきいてみるとまったく喘息じゃなかったということもありました。その時に「喘息なのだ」というところから疑ってかからなければならないのだと知りました。これが少し大変に感じるところです。

■ 留学されたときのお話を教えてください。
 アメリカのネブラスカ州にある州立医科大学病院に留学しました。ネブラスカはアメリカの地図を広げて真ん中を指さしたところにある州です。グレートプレーリーといわれる大平原で、トウモロコシと牛の州とも言われています。ネブラスカで一番高い海抜は80mで、まったく山がありません。夏は暑く華氏で100度(摂氏37.8度)を超え、冬はウィンドチルというとても冷たい風が吹き、零下30度以下になります。夏は熱中症、冬は凍死に気を付けろとよく言われました。車に乗るときは、どこで車が故障してもいいように冬は毛布を、夏は大量の水を詰め込んでいました。

留学の仲間たちとボスのレナード先生を日本にお招きして(2002年ごろ)

  この病院に留学した理由は、私が関心を持っていた気道粘膜上皮の研究分野でトップランナーであった、レナード先生に師事するためでしたが、この留学では文化の違いを多く経験しました。  
 われわれ日本人は休みであっても研究室に顔を出してしまいがちでしたが、アメリカでは完全週休2日でしたので、休みの日は現地で親しくなったアメリカの友人や研究室の同僚たちと湖などいろいろな所にドライブしたりバーベキューをしたり、今思いだしても楽しい思い出です。もうひとつよかったと思う点は家族と十分な時間一緒に過ごせたことです。上の子は生後3カ月で行ったわけですが、オムツかえからミルクもやりましたし、2番目の子の出産のときも立ち会うことができました。
 また、日本では有給休暇があったとしても、すべて取得することはありませんし、それで、有給が数十日残っていることで先生から呼び出しを受けたことがありました。何としても全て使い切るようにと言われたのですが、それでも結局は10日残すことになってしまったら、なんと驚いたことに、その分が賃金として支払われたのです。「きみは本来休むべき10日を働いてしまった。良いことではないけれど、タダ働きはさせられない」と言われて、日割り計算をした10日分の給料を受け取ったのです。これには、ここはすごい国だと思いました。

留学中にレナード先生のお部屋で(1990年ごろ)

■ 今年の4月に杏林大学へ赴任されましたが、この半年間にどのようなことを感じられましたか。
 まず最初に感じた印象は、非常に真面目な方が多いということです。 先日、慰霊祭が行われましたが、杏林大学の慰霊祭は大変素晴らしいと感じました。たくさんの教職員だけでなく学生も参列していて、医療に対する考えや真摯な姿勢などは他病院より勝っていると感じました。学生さんの実習を見ても非常に真面目ですし、患者さんへも大変親切に接している姿を良く見ます。杏林大学の発展に今は私たちが寄与しなければなりませんが、将来も安心して見守っていかれるように思います。

■ 最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします。
 呼吸器内科医なので呼吸器に絞ってお伝えしますと、呼吸器の病気は難しい名前のものが多くあります。医師側はわかるように話しているつもりですが、なかなかお分かりになり難いかと思います。ですから、わからなかった点は、遠慮なさらず繰り返しご質問ください。病気に一緒に立ち向かうためには、患者さんとご家族も病気のことをよく知る必要があります。やはり同じ辛い病気でも、納得して立ち向かうのと、良くわからずに立ち向かうのとでは全く違います。  それから、特に最近の医療薬は進歩とともに注意点も増えています。副作用を起こさないためにも、やはり最新の知識を共有することが大切ですので、億劫がらずに何でも聞いていただけたらと思います。



座右の銘

Positive Thinking

日本語に訳すと陽性思考とでも言うのでしょうか。基本的に性格が楽天主義なのですが、悪いときでも前向きに物事を考えるのが大切だと思っています。



滝澤先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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