電話0422-47-5511

  1. トップページ
  2. 病院概要
  3. 当院のドクター紹介

当院のドクター紹介

医者が患者と付き合うことで一番大事なことは「優しくあれ」

今月のドクター紹介は、総合医療学教室感染症科の河合伸教授の紹介です。
出身地の島根県のことや子供の頃や学生時代のなどの思い出を伺いました。

河合 伸
名前 河合 伸 (かわい しん)
血液型 A型
趣味 読書:本はどんなジャンルでも好きで、暇があれば読んでいます。
野球:子供の頃からずっと好きで、今も現役です。
山歩き:登山と言うほどではないのですが、トレッキングは好きです。
犬の散歩:3歳になる柴犬「ブン」の散歩を毎日しています。
専門 感染症、呼吸器
所属 総合医療学教室 感染症科 教授
プロフィール 昭和29年 島根県飯石郡赤来町に生まれる
昭和54年 杏林大学医学部卒業
昭和58年 杏林大学第一内科 助手
平成 7年 同第一内科 講師
平成11年 同第一内科 助教授
平成15年 同感染症学教室 助教授
平成18年 同総合医療学教室 助教授
平成19年 同総合医療学教室 准教授
        付属病院感染症科 診療科長
平成24年 同総合医療学教室 臨床教授
感染症学会評議員・指導医、呼吸器学会指導医、化学療法学会理事など

■ 出身地はどちらですか?
 島根県の飯石郡赤来町というところです。今は近隣の町と合併して飯南町になりました。私が生まれたところは島根と広島のちょうど境あたりで、松江側の峠と広島側の峠のちょっと開けた盆地のようなところです。鉄道がないので、子供のころは広島や松江へ行くのにどちらもバスで山越えし2時間半から3時間ほどかかりました。実家は開業医で、父が医者でした。当時、町に開業医が2軒と町立の診療所が1軒で医者は3人しかおらず、内科・小児科など、なんでも屋でした。父は長崎大学を卒業後、町の人から地元に帰って来てほしいと要望があったので、1年間インターンをして田舎に戻りました。まだ医師として未熟なまま戻ってきたので大変だったようです。そんな時祖母の助言が多いに役立ったと言っていました。雪の多いところなのですが、往診もしていたので大変だったと思います。まさに小説に出てくるような山のお医者さんという感じでした。小さな町でしたがなんでもそろっていて、暮らしていく分にはそんなに不便ではありませんでしたが、実際に来たらびっくりすると思います。町と言っても端から端まで100メートルくらいしかなくて、川を越えたらその先はずーっと山と田んぼです。

出身地の島根県飯南町の遠景です。山間の小さな町です。

 時々帰省しますが、町役場に「なにもないけど美味しい空気と水はたくさんあります」というキャッチコピーのついたポスターがありました。あまりにその通りなのでとちょっと笑ってしまいました。そういうところなので、帰省は「息抜き」じゃなくて「息吸い」に帰っています。町は相変らず医師不足のようで、田舎に帰ると近所の人にいつも「まだ帰ってこないのか」と言われます。医療機関がないと困るんですよね。医療機関がみんなの心の拠り所になっていないと、町が成り立たないんです。町立病院があるのですが、医師不足でぎりぎりでやっているようですし、僻地医療の深刻さは現場に行かないと分からないように思います。

■ 子供の頃はどんなお子さんでしたか?
 子供の頃から割と内気な子でしたが、なじむと先頭に立っていたずらとかしていたようです。体は丈夫で、病気はほとんどしませんでした。夕方遅くまで友達と野球をしたり、川や山や田んぼで遊んでいました。林業の工場があって、たくさん丸太が積んである中で戦争ごっこなんかをしていましたね。夏は半ズボンにランニングシャツ、麦わら帽子、足は草履。雨が降ったらトトロみたいに蕗(ふき)を傘にしていました。まさに“ザ田舎の少年”です。水はきれいで、ホタルもたくさんいて、家の中にも入って来ていました。
 私が小学校4年生の時にものすごい大雪が降ったことがありました。昭和38年の三八豪雪という記録的な大雪でした。その時、両方の峠が通行止めになって町が孤立してしまい、一週間くらい物資が入りませんでした。田舎なので米と野菜はあったのですが、肉・魚類がほとんどありませんでした。その時は、ヘリコプターで荷物をどさっと落としてもらったり、ブルドーザーで峠を越えて大きな牛乳缶を5、6本ずるずる引っ張ってきたりしました。みんな屋根から雪を下ろすので、どんどん道に雪が溜まっていくでしょう。一番ひどい時は、電線をまたいで歩いていました。あれは凄い経験でしたので、今でもよく覚えています。
 雪の多い土地だったので、冬は毎日雪かきをしなければいけないんですよ。家の裏に川が流れていたので、そこにぼんぼん投げていたのですが、毎日やっていたのでいいトレーニングになりました。雪かきはコツがあって、腕の力でやるとすぐにくたびれちゃうんですが、背筋と腰をうまく使ってシュッと投げるとそんなに疲れないんです。あれで背筋が強くなりました。大学でピッチャーをやっていて結構速い球を投げていましたし、今も野球ができるのは雪かきのおかげかもしれません。

家族で新しくできたトンネルを見に行った時の写真。左が小学生の私で右が弟です。

 小学生の頃から野球が大好きで、中学校で野球部に入ってから大学までは野球三昧でした。中学の野球部は地域で一番弱くて負けてばかりでした。3年生の時にキャプテンになったので、なんとかチームを強くしようとしたのですが、いい指導者もいなかったし、やる気を出させるというのは難しくて、苦労したことを覚えています。
 中学生の時に一番記憶に残っているのは、中学3年生の時のことです。僕の中学校では放送部が掃除の時間に音楽を流していました。流す曲はだいたい決まっていて行進曲やクラシックで、その当時はそれしか流しちゃいけなかったんですね。その時私が、生徒会長だったのですが、副会長が音楽好きの友人だったので、二人で相談して当時流行していたビートルズの曲を流そうと企てました。絶対許可は下りないから、先生には内緒で掃除の時間に2曲くらい流しました。ビートルズが山にこだましましたね。その後、先生にすごく怒られました。あの当時は学校の放送で歌謡曲とか外国の音楽を流すなんてとんでもない事でしたからね。怒られましたが、音楽の先生は半分ニコニコしていたので、まあよかったんじゃないかと。あれは今でも楽しい思い出として良く覚えています。

自宅の庭で。坊主頭の中学生です。

 高校から松江に出て、それからずっと実家を離れています。松江北高校という学校で、百何十年の歴史があります。寮に2年間、下宿屋に1年間お世話になりました。最初の一週間くらいは寂しかったのですが、住んでいる人はだいたいみんな島根の郡部から出てきている人ばかりで、同じような人達だったので、すぐに仲良くなりました。
 田舎から松江市内に出てくるだけでカルチャーショックでしたが、松江と田舎の学校で勉強の進み具合が違ったとわかったことが最大のショックでした。こんなことを言ってはなんですが、僕が通っていた中学校には英語の先生がいませんでした。国語の先生が英語を教えていましたね。それに古文とか漢文はさわりしか教えてもらわなかったように記憶しています。高校の同級生たちはもうすでに勉強してきているわけです。あれは結構ショックでした。高校の先生も勉強してきていると思って話をすすめるので、追いつくのは大変でした。
 高校でも野球部に入りました。伝統ある部だったのですが、これも弱かったですね。中等学校野球と呼ばれていた大正15年に1度出場、昭和24年に1度甲子園に出場していました。私達が入部した頃は3年生が3人、2年生が2人、自分たち1年生が5人入って部員は全員で10人だったので、1年生の時からレギュラーでした。私が2年生の時は新人戦では準優勝したり、松江商業という甲子園の常連校と対等に戦ったりしましたが、次の年は全然相手になりませんでした。やはり練習量が違うのでしょう。高校野球大会地区予選では最高で2回戦までしかいけませんでした。

高校の野球部の集合写真。
上段右から3番目が私です。

■ 先生は杏林大卒ですね。学生生活はいかがでしたか?
 大学生活は楽しかった。私は杏林大学医学部の4期生だったので、入学した時は最高学年が4年生でした。当時は1年生の教養課程は八王子校舎で、全寮制でした。最近は関東からの入学者が多いですが、あの頃は北海道から沖縄まで、全国から集まってきていました。すぐにみんな仲良くなって大騒ぎして遊んでいました。その辺が高校と違うところですね。
 一番嬉しかったのは、国家試験が終わった時です。試験が終わった後、野球部の友人と飲みに行こうと思っていたのですが、あまりにもくたびれたので、今日はもう帰って寝ようということになりました。6年生の夏休みから半年間は死ぬほど勉強しました。友人5、6人のグループで取り決めを作っていました。日曜から金曜までは朝8時から集まって勉強して、大学の講義を受けて、夜帰って勉強して、睡眠は7時間位とることにしていましたが、ご飯とトイレと風呂以外は全部勉強。そして、土曜日にグループの皆と飲みに行くと決めていました。時には「やっぱり今日は飲みに行かない?」とかもありましたが、9割以上は取り決めを守っていました。こういう取り決めも結構大事かなと思います。国家試験に受かった時もほっとしましたが、試験が終わった時の方がこの生活から解放されると思って嬉しかった。学生の皆さんにこういうやり方もありかなと勧めたいですね。自分だけで取り決めを守るのは相当な覚悟が必要です。その覚悟を分散できるのがいいかもしれませんね。

 もうひとつはやっぱり野球です。1~3年生の秋は関東医科リーグで連続優勝しています。私が1年生の時、消化器・一般外科の杉山政則教授が東大の4年生だったと思いますが、何度か試合をしました。杉山先生は私のことを覚えていていただいたようで、以前のドクター紹介でお話下さいました。あれを読んで感動しましたね。僕はピッチャーで、1年生の夏からエースでした。高校で野球をやっていたので即戦力ですよ。入った時は野球経験者が先輩に2人と、整形外科に進んだ小田由雅先生と私の4人しかいませんでしたが、野球っていうのはセンターラインが固まると自然に形ができるものなのです。最高の思い出は4年生の時にノーヒットノーランを達成したことです。相手は昭和大学でした。関東医科リーグで初だったと思います。あれはものすごく嬉しかった。大学の野球部に入部した当初は高校時代みたいな厳しい野球はやりたくなくて、楽しく野球をしたかったのですが、やっているうちに野球の虫がムクムクと頭をもたげてきました。やっぱり勝たなきゃダメなんですよね。4年生の秋からキャプテンをやっていたので、東日本医科学生総合体育大会で優勝を目指してみんなに厳しい練習を課したりしていました。結局、ピッチャーの不足がたたりました、私が途中でくたびれちゃって残念ながらベスト8止まりでした。本当に惜しかったんですよ。優勝は出来ないにしてもベスト4に入れるくらいの実力は十分ありましたから。あれが一番残念なことです。

大学4年生の時の東医体の試合。

 大学の時は友人と車でたくさん旅行しました。夏休みにボロ車で北海道・四国・九州を一周したりしました。学生の時にかなりあちこち回りましたね。東京に出てくるまではただの田舎者だったから、何を見ても感激していました。池袋に東武デパートや西武デパートがありますよね。東京に出てきた時、あれを見上げて驚きました。松江市内には5階建以上の建物がありませんでしたからね。デパートは10階くらいあるでしょう。「うわ~、でかいな~」って、あれはもう唖然としました。もうひとつ東京に出てきて驚いたことは町が切れないこと。田舎ではすぐに町並みが切れるのでどこまで行っても家がなくならないのは不思議でしたね。あと山がないこと。関東平野は広いなと思いました。

友人と行った北海道旅行。支笏湖で記念撮影。左上でピースをしているのが私です。

■ なぜ医師を目指したのですか?
 なかなか難しい質問なんですよね。やっぱり家が医院だったっていうのが大きいのかな。意識はしていないけど、父の背中を見てっていうのがあるんですかね。小さいころから医者としての様々な面を見ていましたからね。高校2年生くらいまでは考えていなかったんですが、いよいよ進路を決めきゃいけないという時に「何しようかな、やっぱり医者かな」なんて思いました。生まれた所が無医村に近いようなところだったので、自分が医者になって帰ればいいのかなと思っていました。まさか大学に残るとは思っていませんでした。大学に残った大きな要因は小林宏行先生に出会ったことです。あの頃は今と研修システムが違っていて直接医局に入ったんです。なぜ第一内科(呼吸器内科)に入ったか。それは小林先生が野球部の顧問だったからです。5年生くらいの時に「呼吸器内科に来いよ」と言われて「はい、そうですね」なんて言ったものだから、もうなんとなく呼吸器内科に入ることが決まっちゃっていました。あの当時は呼吸器内科を専攻する医師が少なくて、僕らが入局した時は医師は4、5人しかいませんでした。本当は外科をやりたいなと思っていたのですが、父に反対されました。なぜ反対されたのか良く分からないのですが、やっぱり田舎に帰ってきて欲しかったのかもしれません。口じゃ一言も帰って来いとは言いませんでしたけどね。呼吸器は本々好きな科目でしたから、小林先生のところで勉強することに決めました。

研修医の頃。旧1-3病棟だと思います。

感染症国際学会でイギリス・ロンドンへ。

   

■ 故・小林宏行名誉教授の思い出を聞かせてください。
 小林先生の思い出を話すとたくさんありすぎますが、要約して言うと、豪快さと気配りですね。声は大きいし怒ると怖いけど、相手への気配りが素晴らしかった。気配りとか礼儀とかに厳しくて、「お前みたいな島根の田舎から出てきた奴は礼儀もできてないから、俺がちゃんと教えてやらなきゃいけない」とよく言われました。だけど理不尽なところもあったんですよ。少し話がそれますが、私の研究テーマは「敗血症における急性肺障害の発生メカニズムと治療」というものだったんですが、当時、肺に病変の主座が無いのに、なぜ敗血症の時に肺の障害が起こるかについては、研究がはじめられたばかりの頃でした。この現象には好中球が関与していることは今では常識ですが、当時はまだよくわかっていなかったため、これを追求するために一生懸命研究をしていたんです。小林先生はとてもユニークな発想を生み出される方で、一緒にこれらの研究を進めていました。とにかく毎日夜中の12時頃まで研究室にいたように思います。それで実験の方法などを相談に行くと、「こうしたらいいよ」とアドバイスをくれるんです。それを他の医師と一緒に実験して、何日か後に先生に結果を持って行くと「なんでこんなことやっているんだ」って言うんですよ。「先生からこうやったらいいと言われたので」と言うと、「そんなことを言った覚えはない。もう一回やり直し!」って。前言撤回どころじゃなかった。何度も何度もやり直しさせられました。しかし研究成果というのは何度も何度も吟味しなければいけないものなんですよ。研究に対して真摯に向き合う研究者としての姿勢のようなものを小林先生独特のやり方で教えていただいたんですね。今はとても感謝しています。

JICAの医療支援でマレーシア・ボルネオ島へ。JICAの日本代表だった小林宏行先生と。

■ 医師生活の中で思い出深い事は何ですか?
 まず、研修医の頃はとても楽しかったですね。あらゆることが新しくて、毎日が本当に充実していたよういに思います。研修医の頃、ある先生に「医者というのは最初の2年を如何に過ごすかで、その後の10年が決まり、その10年を如何に過ごすかで一生が決まる」と言われたことがあります。とても感銘深い話であり、若い人たちにも時々この話はしています。
 阪神・淡路大震災の医療派遣も思い出深いですね。私は、震災10日後くらいに三鷹市の要請で三鷹市の職員の方たちとともに芦屋市に行きました。当時は今のようなD-マットやJ-マットのようなシステムはありませんでしたから、とりあえず現地に行ったという感じでしたね。現地は皆さんの御記憶にあるとおりの状態で、4日間芦屋の半分傾いた市役所に寝泊まりしたのを覚えています。私の後輩の清川医師とともに避難所を回りました。
 JICAの医療派遣も思い出深い事の一つです。1996年には、カリマンタン(ボルネオ)島に2ヶ月くらい行きました。JICAの仕事は結構忙しく、病院職員に対する講義や実地指導など結構大変でした。2002年には、ケニアにも行きました。これは2週間という短期派遣だったのですが、保健学部の田口教授とともに気管支鏡的なHIV関連日和見感染の診断を指導するために派遣されました。休日にはナイロビから少し足を延ばしました。ナクル湖で見た何万羽のフラミンゴが一斉に飛び立つ様は今でも忘れられませんね。

阪神大震災の時には災害医療派遣で現地に行きました。

ボルネオ島で一緒に活動した看護師さんと現地のメディカルアシスタント。

同じくJICAの医療支援でケニアへ。後ろはナクル湖でフラミンゴの群れが湖面をピンクに染めています。

■ 医師になって良かったこと・困ったことはなんですか?
 一番嬉しいことはやっぱり患者さんの病気が治って笑顔で退院する時、重い病気だった人だと特に嬉しいですね。困ったことは、人と人との関わり合いだからすれ違いとかはたくさんありますね。そんな風に、意思の疎通がうまくいかないような時はちょっと困ってしまいますね。医者は人と人との関わりで成り立つ職業なんです。それも表面だけじゃなくて、病気という媒体を通じて深く関わるわけですよ。なので、あまり取って付けたような礼儀だとか作法をマニュアル的にやりすぎると逆に相手に不快感を与えることがあると思うんです。私はわりと自然体で患者さんと付き合うようにしています。医者が患者さんと付き合うことで一番大事だと思っていることは、ひとつは「優しくあれ」なんです。もうひとつは真摯に向き合うこと。患者さんは敏感に感じますからね。それを取って付けたようにやるのではなくて、自然にできるようになるといいんじゃないかと思います。一番大変さを感じる時っていうのは、患者さん本人にとってつらい話もしなければならない時もあるでしょう。そういう時にどういうふうに話そうかなっていう時が一番悩みます。

■ 杏林大学病院について思うことを教えてください。
 杏林大学病院はもうすぐ創立50周年を迎えようとしていて、大学病院という高いレベルの医療を提供している病院としてはすごくアットホームで、そこがいいところだと思います。他の大学病院は分院があったりしますが、杏林大学病院はこの三鷹だけというのも要因かもしれませんね。これは職員だけでなく、患者さんもそう感じているんじゃないかと思います。昔からの伝統みたいなところがあって、診療科の垣根が意外と高くないんですね。本来病院はそうあるべきだと思います。一人で全部を診療できるわけではありませんので。特に感染症科は全科に関わるので、あまり垣根が高いとこっちも困りますからね。
 私はInfection Control Team(ICT:感染制御チーム)のリーダーをしていて、ICTには医師、看護師、薬剤師・検査技師などのコメディカル、それに事務員がいます。今でこそチーム医療と言いますが、10年以上前からチーム医療をしていたということですね。これはすごく大事なことなんですよ。これが機能しないとICTなんて絶対無理。チーム医療を推進しようという意識が特別強いわけではありませんが、自然にチームが形作られて来たという感じです。これが本来の姿でなんじゃないでしょうか。今後ますます医者だけの力じゃ難しい局面が増えてくるだろうし、杏林大学全体としても垣根が低いという杏林の良い伝統を今後も広げ、お互いの仕事を尊重しながらやっていくことは大事だと思います。

■ 趣味や好きなことは何ですか?
 まず、読書が好きです。本はどんなジャンルでも読みますが、最近はノンフィクションやミステリー系の小説が多いです。20~30代の頃は歴史ものが好きで、司馬遼太郎とか山岡宗八などはほとんど読みました。かなりハイペースで読むので家に本を置くところがありません。今年のお勧めは外国の本だと「ミレニアム」、日本の本なら「ジェノサイト」です。
 野球は子供の頃からずっと好きです。今でも呼吸器内科の野球好きの集まりがひとつと、外勤先の病院でチームに入っています。去年は8試合くらい投げて、最後は肩が壊れました。肩が痛くて上がらなくなったので、整形外科で診てもらったらインナーマッスルが傷んでいるといわれました。まあ広い意味で五十肩ですかね。でもだいぶ良くなったので、また今年もやります。
 山歩きも好きです。最近はあまり行っていませんが、前はよく医局員や病棟のスタッフを集めて北アルプスの方にも行ったりしました。富士山も2回登りました。
 犬を飼っています。柴犬で名前はブン、もうすぐ3歳です。性格はシャイですね。犬の仲間の中では引っ込み思案ですが、人は大好きです。飼い始めたのは私の奥さんで、3年前の7月、僕が病院にいる時に突然電話がかかってきて、「今から犬を買いに行くから」って言うんですよ。「絶対ダメ!忙しいし、散歩なんかする時間ないし、絶対ダメだからね!」と強く反対したら、「うん、わかった」って言ったんですよ。それでその日、家に帰ったら犬がいたんです。激怒しましたね。結局、私も実家で犬を飼っていたし犬が好きだから、もうしょうがないかと思って今では毎日散歩しています。年2回くらい山に連れて行くんですが、大喜びでぐいぐい引っ張ってもらっています。以前はチンチラを飼っていたこともあります。トトロの原型と言うか、モデルらしいですね。これも奥さんが香港に行った時に見て、欲しくなって買っちゃったんですよ。つがいで飼っていたら子供をぽこぽこ産んだので、飼ってくれる人にたくさんあげました。

第一内科と病棟スタッフの有志で山登り(鹿嶋槍ヶ岳山頂にて)。

愛犬のブンです。人と散歩と食べ物が大好きです。

■ 患者さんへのメッセージをお願いします。
 私の場合は自然体で向き合うことが基本的なコンセプトなので、患者さんも自然体で向き合っていただければいいかなと思います。患者さんが医者に自然体でというのは難しいかもしれないですが、そういう雰囲気を出したいなと思っています。私もぱっと見た感じがちょっと怖いようなので、怖がらず話していただけると色んな話ができると思います。患者さんの中には医者の前では頭が白くなっちゃって全然話せないという人もいますが、自分の悪いところを出してもらって初めて診断や治療に結びつくものですので、なんでも話してもらえたらいいですね。私も言わなければならないことはちゃんと言いますが、人と人との付き合いなのでお互いに礼儀は必要と思っています。お互いそんな気持ちで向き合えば信頼関係がキチッとできていくのではないかなと思います。



座右の銘

覚悟に勝る決断なし

 これは誰かの有名な言葉でもないと思います。何かの本を読んでいて、とてもいい言葉だと思って座右の銘にしています。人の一生っていうのは、日常の営みにおいても、また私たちのように医療にかかわる者にとっても決断の連続なんだと思います。決断には楽しい決断や嫌な決断、些細な決断やとても重い決断など色々あります。でもどんな決断でも程度の差はあれ覚悟が必要なんだと思います。覚悟のない決断は、後悔やストレスを生み、様々な問題を生みます。また自分自身にとって嫌なことってたくさんあるじゃないですか。嫌だけど、どうしてもやらなければいけない時に、覚悟を決めてやるかと、そういう時にこの言葉を思います。もともと内気な人間だから本当は逃げたい、でも逃げられない、そしたらもう覚悟を決めてやるしかない。決断する時は覚悟をもってやるという意味でこの言葉が好きです。



河合先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

取材担当
企画運営室
広報・企画調査室







病院概要
医療安全管理・感染対策
施設のご案内
新着情報
情報公開
患者支援センターのご案内
人間ドックのご案内