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当院のドクター紹介

医師にとって一番なのは、患者さんが元気になることです。

今月のドクター紹介は、心臓血管外科の布川雅雄教授の紹介です。
学生時代の思い出や留学中のお話しを伺いました。

布川 雅雄
名前 布川 雅雄 (ぬのかわ まさお)
血液型 O型
趣味 読書:本は小説でも漫画でもなんでも読みます。最近読んだ中では「銃・病原菌・鉄」という本がおもしろかったです。「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の1位にもなった本です。
サッカー:今ではテレビ観戦専門です。去年は女子のW杯とかオリンピックの予選があったので、楽しませてもらいました。ただ、家族には私が見るといつも負けるので見ないようにと言われます。
専門 血管外科
所属 心臓血管外科 教授
プロフィール 昭和32年8月 福井県大野市に生まれる
昭和58年6月 東京大学医学部附属病院研修医
昭和59年6月 茅ヶ崎市立病院外科医員
昭和63年12月 東京都老人総合研究所臨床病理部研究員
平成4年1月 東京大学第一外科(現血管外科)助手
平成5年10月 フランス、パリ-オテルデュー病院血管外科
平成6年9月 東京大学第一外科(現血管外科)助手
平成8年2月 杏林大学医学部胸部外科(現心臓血管外科)助手
平成12年 4月 同 講師
平成15年4月 同 助教授
平成19年4月 同 准教授(名称変更)
平成24年4月 同臨床教授


■ 子供の頃はどんなお子さんでしたか?
 出身は福井県大野市で、九頭竜川の途中にある小さな盆地の田舎町です。小学生くらいまでは暗くなるまで野山を駆け回る田舎の鼻たれ小僧でした。この頃は飛行機や車など、機械系の動くものを作る人になりたいと思っていました。夏休みの宿題で工作があると喜んで作っていましたし、プラモデルなどの細かい作業も好きでした。
 中学からサッカーを始めました。野球部でもよかったのですが、たまたま私が入学する前に不祥事を起こして廃部になってしまったんですね。運動部に入りたかったので、野球部がつぶれて広いグランドを独占して走り回っていたサッカー部に入部しました。サッカーは自分がやり始めてから好きになりました。1970年頃はペレとかネッツァーとか有名なサッカー選手もいました。
 高校に入学してからはサッカーをやめてしまいました。部活なんかしていたら勉強ができないだろう、と親に言われてね。でも結局遊んで帰ったりしていたので、サッカーをしていても変わらなかったと思います。高校はわりとのんびりした学校で、学校の裏に大野城というお城があって、春はきれいに桜が咲くんですね。ノリのいい先生に「花がきれいだから花見に行こう」というと、授業をつぶしてみんなでぞろぞろ花見に行ったりしました。

■ 学生生活はいかがでしたか?
 一浪して東京大学に入学しました。東大はとても広い学校で、学生は放し飼いのような感じで、授業は出なくても試験に通ればいいという雰囲気でした。もちろん医学部ですから、最後に国家試験がありますので、最終的にそれに合格するために勉強しなければならないのですが…。一応6年間で無事卒業できましたよ。私はちゃんと学校に来て授業に出席していました。授業に出て、勉強しながら一緒に遊びに行く友達を探していました。
 ある日、階段教室で授業をしている時、椅子を並べて横になって寝ている学生がいたんです。教壇の方から見ると足が浮いて見えていて、先生が近くの人に「横になっている人を起こしなさい」と言って起こしました。先生はその学生に「横になって寝るのは失礼だろ。せめて見えないようにしなさい」と注意しました。今、自分が教える立場になって思うことは、全ての学生をやる気にさせることは非常に難しいということですね。今の学生だって、ちゃんと授業を真剣に聞いている学生もいれば寝ている人もいます。今も昔もそこは変わりません。

■ 学生時代に何かスポーツはしていましたか?
 入学してすぐにサッカー部に入りました。同じ学年で入部した人は6人いるのですが、運動神経がよくて、体格がいい人達が揃ったので、チームはぐんと強くなりました。医学部はだいたい1学年100人くらいなので、6人も新入部員が入ればわりと大所帯になるんですね。部員が30人いれば紅白戦をやっても控えの選手が出ます。
 たまたまサッカーが上手な人が揃ったので、東日本医科学生総合体育大会で3年生で4位、4年生で準優勝しました。丁度サッカーを始めて3~4年経って体力も技術もついた頃だったんでしょうね。医学部に入る人は高校の時に勉強ばかりしていた人が多いので、皆あまり体力がありません。なので1年生の時は戦力にならなかったのですが、だんだん体力もついて技も磨かれて、うまい具合に勝てたんですね。準優勝した時の対戦相手は慈恵医大ですごく強かったのですが、1対1の接戦でした。チャンスはあったんです。フォワードのNさんがゴール前にいた時に、彼の前をボールが横切りました。体のどこかに当たっていればゴールしたのに、彼は空振りしたんです。最後はPK戦で負けてしまいました。慈恵医大の選手がNさんにジョークで「祝賀会をやるから、Nくん、君も来るかい?」と言っていました。体力や技は慈恵医大の方が上だったので、結果は実力通りという感じで、我々は満足の準優勝でした。今でもサッカー部の連中が集まるとその話題になります。

大学4年生の時に東医体サッカーで準優勝した時の記念メダル。

 東医体で4位までに入ると、これは非公式な大会なんですが、全日本医科学生体育大会という大会に出場できます。4年生の時は岡山県でやったのですが、なぜかみんな体調不良に見舞われて1回戦負けでした。僕はセンターバックというポジションだったのですが、相手が身長190cm位ある大きな人で、みんな彼に向かってボールをあげてくるんです。どうしたって身長差では勝てませんから、そこは頭脳プレーで競り勝ちました。みんなから「よく押さえた!」って言ってもらえるくらい活躍したんですよ。大学の友人とは今でもよく飲みに行ったりしています。

■ なぜ医師を目指したのですか?
 叔父に二人医師がいたので、なんとなく医師という職業は身近ではあったんですね。それと、中学生の時に蓄膿症で手術を受けているんです。その時の先生がとても親しみやすくていい先生だったんですね。その先生みたいになりたいなと思って漠然と医師を目指すようになりました。でも、ものづくりも好きだったのでどうしようかと迷っていた時に、親に医学部を勧められました。それと、学校の成績がいいと、なんとなく医学部を受けたくなるんですよね。

■ 今の専門を選んだ理由はなんですか?
 専門は、手先を動かすことが好きで器用だったので外科を選びました。最初は外科でひととおり手術を勉強するんですね。色々な手術を勉強している時、30歳になる前の話ですが、東大の血管外科グループのトップだった重松宏教授が私に「血管外科をやらないか」と声をかけてくれたんです。血管に興味があったことは確かですが、それより決め手になったことは、重松先生の手術がとても素晴らしかったからです。私が知っている外科系の医師の中で一番優れていると思います。普通、医師は手術の際に血管を切らないように進めていくのですが、重松先生は万が一、血管を切ってしまっても縫って治せる自信があるんですね。なので難しい部位にも切り込んでいけるんです。そのため、病変部位をきれいに取り除くことができて、まるで標本のようでした。そんな尊敬している先生に声をかけてもらえたのが嬉しくて、血管外科を専門にすることを選びました。それと、血管外科は勝負が早いところが私にとって魅力のひとつです。ちゃんと縫えていないと血が出てきますので、その場ですぐに対処ができます。今後も血管外科を続けていきたと思います。

95年の夏。東大第一外科の納涼会にて。私は上段右から2番目。私の前にいる黒いシャツを着ている人は宇宙飛行士の古川聡さんです。当時は一緒に東大の外科で働いていました。

95年頃。東大病院で看護師さんと。ネクタイもせず白衣もだらしないから、日曜日にふらっと行った時だと思います。

■ 留学中の思い出を聞かせて下さい。
 留学はフランス・パリのオテルデュー病院で研修させていただきました。ノートルダム寺院の近くで、パリの真ん中にあります。「オテルデュー」とは、「神の館」という意味です。
 当時の東大第一外科教授の森岡恭彦先生(昭和天皇の手術を執刀した先生です)が、「知り合いの血管外科の教授が留学生を受け入れると言ってくれているので誰か行ってきなさい」ということで、1993年7月末に行かせてもらう事になりました。最初の2カ月はヴィシーという小さな町にあるカビラム語学学校に語学研修に行きました。日本からの留学生はこの学校で研修させてもらうことが多いですね。留学というと、研究をメインにすることが多くて、手術をやらせてくれる病院は少ないんですよ。ひとつは医師免許の問題があるからなのですが、当時のフランスはインターン制度が残っていて、教授の責任で手術をさせても良いことになっていました。そこで沢山のことを勉強させてもらいました。
 最後の1カ月はちょうど夏休み期間で、アルプスの麓、ミラノ、フィレンツェ、ベネチア、ザルツブルグ…家族でヨーロッパの色んなところを回りました。7歳だった娘は少し覚えているようですが、3歳だった息子は全然覚えてないようです。子どもたちはずいぶん現地の人達にかわいがられましたね。

フランス留学中にヴィシーという町の山の上から。93年の夏。

■ 医師になって良かったこと・困ったことはなんですか?
 色んないいことがありますが、やっぱり一番嬉しいのは難しい手術がうまくいって患者さんが元気になって帰っていくことですね。医師にとって一番なのは、患者さんが元気になることですから。
 困ったことでは、私のミスから患者さんが不信感を持ってしまい、コミュニケーションをとれなくなってしまったことがあります。この患者さんはがんでした。「私のミスもあって、まだがんを取りきれていないので再手術をしましょう」と伝えたんですが、患者さんには、私のミスをごまかすために手術をしようと言っているようにしか受け止めてもらえなかったんですね。正直に話していても信じてもらえませんでした。おそらく今後、若い先生の中には私と同じような状況になる人もいると思います。執刀医は私でしたが、一緒に手術に入ってくれた医師や診療科長、手術部長もいるのですから、難しいケースは全部ひとりでかたをつけようと思わずに、経験のある上の医師に話してもらうとか、早い段階で色んな人の知恵を借りることをしてほしいですね。あの頃はひとりでなんでもできると思っていたし、自信もあったのですが、そう甘いものではありませんでした。このことが困ったことというか、辛かったことですね。

99年10月に三鷹医師会の先生方と一緒に末梢血管についての勉強会をしたときの集合写真です(外段左から2番目)。

04年のローマでの国際脈管学会で(左から3番目)。私の左隣に心臓血管外科の細井温先生も写っています。

今年3月に第一内科の有村義宏教授が実行委員長を務めた「アジア太平洋 血管炎・ANCA国際会議」でポスター発表しました。

■ 患者さんへのメッセージをお願いします。
 高度ですが、親しみやすい医療を心がけていますので、心配なこと・お困りのことがあれば気軽にご相談下さい。普通は親しい人には「今度遊びにいらっしゃいね」とか言えるじゃないですか。医療の現場になるとそれが言えないですね。「また病気になれって言っているのか?」と思われてしまいますから。



座右の銘

神は細部に宿る

 重松先生に言われたことで心に残っている言葉です。ミース・ファン・デル・ローエという有名な建築家の言葉のようですが、簡単に言うと「小さなことの積み重ねで素晴らしいことができあがる」ということです。難しい手術や治療がうまくいくためには、ちょっとした細かい気配りとか配慮が細部に行き届いて、そういうことを積み重ねて、結果として難しい大きな手術がうまくいくということです。ただ、一番重要なことは全体の調和だと言っています。細かいところを一か所だけこだわってもいけないし、全体の中で細かいことの積み重ねで素晴らしいことができるということです。この言葉は、細部をおろそかにしている若い医師を見た時に思いだして注意しますね。



布川先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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