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当院のドクター紹介

医療はあらゆる面で昔と現在は違う。そういう進歩に自分が貢献できるというのは嬉しい。

今月のドクター紹介は、脳神経外科の永根基雄教授の紹介です。
子供の頃の様子や医療への思いなどを伺いました。

永根 基雄
名前 永根 基雄 (ながね もとお)
血液型 O型
趣味 スポーツ:とにかくスポーツが大好きで、観戦するのも実践するのも好きです。新聞はまずスポーツ欄から広げます。
読書:特にミステリーが好きで、宮部みゆき・恩田陸・東野圭吾の本をよく読みます。
専門 悪性脳腫瘍
所属 脳神経外科 教授
プロフィール 昭和34年 北海道札幌市に生まれる
昭和59年 東京大学医学部卒業
昭和59年 東京大学医学部附属病院脳神経外科研修医
昭和60年 亀田総合病院脳神経外科医員
昭和63年 都立墨東病院脳神経外科及び救命救急センター医員
平成3年 国立がん研究センター中央病院脳神経外科医員
平成7年 米国Ludwig Institute for Cancer Research (San Diego branch), postdoctoral fellow
平成12年 杏林大学医学部脳神経外科学講師
平成17年 同助教授
平成19年 同准教授
平成24年 同臨床教授


■ ご出身はどちらですか?
 全国区なんです。生まれたのは北海道の札幌市ですが、2才で帯広に引っ越し、その後、九州・熊本、北陸・金沢、東京・新宿、四国・松山、そしてまた東京・杉並、世田谷と引っ越しばかりしていました。父の仕事の関係で、だいたい2・3年で転勤になり、その度に引っ越していたんです。道産子なんですが北海道のことは全然覚えていなくて、物心がついたのは熊本にいた頃からですね。
 転校ばかりで友達とすぐに別れるのは寂しかったですが、新しい所に行ってしまえば、その日からすぐに友達を作って一緒に楽しく遊んでいました。引っ越し先は割と特色ある土地だったので、それぞれの地域で全く違う雰囲気があり、面白かったですよ。

■ 子供の頃はどんなお子さんでしたか?
 今もそうですが、スポーツ大好き人間で、スポーツ無しでは生きていけない!と思っていました。走ったり、跳んだりするのが好きで、野球やサッカーはもちろん、バスケットボールもやっていました。バスケは中学から大学まで10年間ずっと続けていて、アメリカに留学している時もNBAのプレーを見るのが楽しみの一つでした。それに小学生の時は陸上部に入っていて、松山市の大会ではリレーの他に幅跳びの選手としても出場しました。中学・高校ではそれぞれの学校内で走り幅跳びの校内記録を作りました。若かりし頃の栄光ですね。
 スポーツは実践するだけでなく、関連する記事を読むことも好きで、子供の頃から新聞というとまずスポーツ欄から広げて熟読していました。特に相撲が好きで、相撲の歴史や大横綱が載っている本などを読み込んでいて、相撲博士と呼ばれていました。もう一つはオリンピックです。何年のオリンピックでこの競技で誰がメダルを取ったかとかを覚えて、こういう話を自慢げにしていたので皆におかしな奴だと思われていたんでしょうね。どんなスポーツも好きなので、一通りスポーツの話題には入っていけますよ。

■ わりとのめり込む性格なんですね
 そうですね。スポーツ以外にも、ギターが好きで中学生の時に始めました。あんまり上手くなりませんでしたが、小学校5年生くらいの時に兄がサイモン&ガーファンクルのレコードを買ってきて、それ以来、音楽にのめり込みました。中学生の頃はビートルズが好きで、その音楽性に魅かれました。ラジオでアメリカントップ40といってアメリカのヒットチャートを紹介する番組が毎週土曜日に3時間くらい放送されていたのですが、中学3年生くらいから3年間、毎週それを聞いてリストにしていました。それくらい好きでした。その後も、スティーヴィー・ワンダーやジョン・デンバー、大学生の時はジャズやクラシックもよく聞きました。最近、娘が合唱団に入りまして、合唱の素晴らしさに感銘を受けました。今ではそれを聞くのもとても楽しみです。ラジオの英語会話なんかも結構聞き続けましたね。

■ 先生は東京大学出身ですね。学生時代の思い出を聞かせて下さい。
 大学時代はボート部に所属していて、年間3~4カ月は合宿をしていました。なぜボート部に入ったかというと、大学以外ではあまりできないスポーツだったからです。明治時代から大学スポーツといえばボートというくらい代表的なもので、東大のボート部は昔からとても強くて有名で、私が入学したときも全国チャンピオンでした。大学でしかできないスポーツで体を鍛えて、将来の医師としての体力をつけるという思いでボート部に入りました。もうひとつの理由は先輩である当科主任教授の塩川芳昭先生に引っ張られたからです。ボート部は4年生が最終学年で、私はキャプテンをしていました。その時の東日本医科学生総合体育大会でフォアという4人乗りの競技で優勝しました。
 それと、バスケットボール部に3年生から6年生まで入っていて、ポジションはセンターでした。高校まではひ弱でガラスのエースなどとも言われていましたが、大学ではボート部の筋トレが厳しかったおかげで筋力がつき、力で押すプレイも多かったですね。当時は懸垂30回をらくらくできました。大会での成績は今ひとつでしたが…。
大学時代もスポーツ三昧でしたね

東医体(ボート部)で優勝した時の記念写真。写真部の同級生がパネルにしてくれました。左下が私です。

こちらはバスケ部の写真。白のユニフォームが私で、対戦相手の黒のユニフォームは慶應義塾大学です。

■ なぜ医師を目指したのですか?
 幼稚園の時から理系で機械いじりをする人になりたいと思っていました。高校では物理が好きで数学も得意でした。しかし、物理の先生が難しいことを教える人で、ある日、授業で「波動方程式」を説明されたのですが、これがとても難しくて…。でもクラスの中に二人だけ完全に理解して先生とディスカッションしている人がいて、「この人たちにはかなわないな」と思い、物理の道は諦めました。
 ちょうどその頃、高校2年生の時に父が脳腫瘍で亡くなりました。そのこともあって、医師と言う職業が自分の中で大きいものになって行きました。そして部活を引退してから、本格的に受験勉強に取り組みました。人生は何が起こるかわからないものですね。

■ 専門を脳外科にしたのはお父様のご病気があったからですか?
 そうですね、その他にも理由はいくつかあります。アメリカのドラマで「ベン・ケーシー」という番組があって、主人公のベン・ケーシーは脳外科医で、非常にカッコよかったんです。それに、叔父に医師がいまして、脳外科医なんです。人情味にあふれる、現代の赤ひげ先生のような患者さんに慕われる医師で、父の病気も診てくれました。私の憧れです。なので、自分が医師になる時は脳外科医しか頭にありませんでした。脳は人の心があるところだと思いますし、非常に未知の領域でもあります。そこに触れられるのは脳外科医だけなんです。脳ってとても綺麗なんですよ。人間の極限のところに関わることができるというのは一つの魅力、やりがいですね。

■ 脳外科の中でも特に悪性腫瘍を専門にしたのはなぜですか?
 医師になって7年目に脳神経外科の専門医を取りました。それまでは脳卒中や外傷を診ていました。脳腫瘍に興味があったので、国立がんセンターに赴任したのですが、そこでカルチャーショックを受けました。それまでの脳外科人生と全く違う世界がそこにありました。ひとつは最新のマッキントッシュのコンピューターを導入していて、しかも一人2台も使っていたのです。その頃はまだマウスが一般的でなく、その利便性に衝撃を受けました。もうひとつは、周りの医師の使っている言葉や単語が、自分が使っていた脳外科の言葉と全く違っていて、そこでは遺伝子レベルの話が当たり前にされていました。とても進んでいたんですね。ここで一気に私の脳外科人生は悪性脳腫瘍のがん遺伝子の研究に方向性が固まりました。その当時、遺伝子のことが次々に解明されていった時代で、遺伝子研究のおもしろさにどんどん魅かれていきました。

■ 先生はアメリカへ留学されていますね。
 アメリカ西海岸のカリフォルニア州サイディエゴのLudwig Institute for Cancer Researchという世界に当時は10ヶ所の支所があったがん研究所に留学しました。留学先に前任でいらした西川亮先生(現埼玉医科大学国際医療センター教授)から行ってみないかと言われたのがきっかけです。その頃私は国立がんセンターに勤めていてそろそろ大学に戻ろうかなと思っていた時で、西川先生から話を聞いて、よさそうだなと思ったので行くことにしました。西川先生は私にとって最も重要な先輩の一人です。大学の先輩だったのですが、業務を引き継ぐ時に初めて関わりました。それからはずっと同じ領域・同じ専門で、師匠であり、かつ友人であり、私の「師友(しゆう)」です。
 留学先では脳腫瘍の基礎研究をしていて、約5年間行かせてもらいました。仕事が順調で結果を残すことができたので、私にとって大きな知的財産になりました。私がこうして教授にさせていただいたのも、こうした経験があったからだと思います。西海岸はとてもアカデミックなところで、大きな研究所があったり、ノーベル賞を取った人が何人もいたり、知的レベルの高いところでした。それに気候的にもとても過ごし易く環境が良かったので、なるべくここにいたいなと思っていました。

留学先の研究所です。1995年に留学した初期の頃。

NBAのChicago Bulls、Michael Jordanの試合を初めて観に行ったときの写真。

■ 先生の医療への想いを教えて下さい。
 医療の進歩を感じたことが2つあります。ひとつは悔しさ、もうひとつは感謝です。
 父は脳腫瘍で亡くなったのですが、父が発病した頃は、今では当たり前のCTスキャンがまだなかった時代だったんです。ずっと診断がつかないまま闘病していました。今はすぐに診断できて、どういう遺伝子の異常があってどういう治療法がよく効くかということが分かってきて、昔に比べたら手術や抗がん剤治療を含めて、圧倒的に治療成績は良くなっています。その当時だったから診断もなかなかつかずに手術して初めて脳腫瘍だとわかったし、治療法も今と違っていました。今だったら、いい状態をもっと長く保てたかも知れません。35年前と現在の医療水準はずいぶん違います。
 もうひとつは、私自身、2年前に大病いたしまして、その病気の状態は昭和の前半だったら命を落としていたんですね。ですが、今なら新しい治療法もあって、こうして治るんです。今、私がこうして普通に仕事をして日常生活を送れるのは医療の進歩があったからなんです。その進歩に大変感謝しております。
 この2つの出来事が、私が感じた医療の進歩です。あらゆる面で昔と現在は違う。そういう進歩に自分が貢献できるというのはとても嬉しいことだと思っております。

私と同じ悪性脳腫瘍を専門としている小林啓一先生(博士)と病棟で撮りました。当科の大黒柱です。後ろの白板には「Neuro -oncologist」のステッカーが貼られています。私はダイエット前なので少し太っています。

■ 医師になって嬉しかったこと・困ったことを教えて下さい。
 困ったことはあまりないですね…。嬉しいことは、自分が関わったことで患者さんが病気から回復して元気になった時、患者さんと共に一生懸命考えて治療して、それに対して患者さんやご家族が喜んで下さったり、感謝してくれたりする時、とても嬉しく思います。脳腫瘍はなかなか治りにくいものも多いのですが、それでも患者さんに一番いいと思う治療法を丁寧に説明して、患者さんが一緒に頑張ってくれると、良かったなと心から思います。説明は細かく丁寧にすることをモットーにしていて、時間をかけて患者さんと向き合っています。これは小林啓一先生をはじめ、一緒に働いている医師達もしっかりやってくれています。
 それと自分のしている研究を発表できた時です。これがこうなっているのか!と新しいことが分かって、それを論文として世の中に出すと、自分が科学の進歩に貢献したと証拠が残るんです。さらに論文を英語で書くと世界中の人が読んでくれます。これができた時は嬉しいなと思って、また研究をするモチベーションが高まります。これは自己満足も含まれていますが、それだけでなく人類の進歩に繋がっているというところがいいですね。

■ 患者さんへのメッセージをお願いします。
 私達が専門で診ている疾患は悪性の脳腫瘍で、症例数としてはあまり多くない疾患です。なので、本当に病気を分かっている専門家も少ないのが現状です。患者さんには是非、率直に色んなことを質問していただいて、情報を共有して一緒に治療していきたいと思っています。勇気を持って積極的に治療に関わって下さい。



座右の銘

沈思黙考(ちんしもっこう)、爆漕(ばくそう)

 人間、考える時はじっくり考えなければなりません。特に私達が取り組んでいることは科学で、科学は理屈があって結果が決まってくるので、わからないことが出てきた時に、「これは一体どういうことだ」と考えなければならない。そうやって科学的思考を繰り返して、こうすればいいと決まったら今度はそれを実行するのみです。実行しないと結果がわからないですからね。爆漕とは造語で、ひたすら漕ぐ・やるときは思い切りやる、という意味です。



永根先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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