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当院のドクター紹介

杏林の眼科を角膜移植でも全国トップクラスにすることが目標です

今月のドクター紹介は、眼科の山田昌和教授の紹介です。
学生時代の思い出や眼科の魅力などを伺いました。

山田昌和
名前 山田昌和 (やまだまさかず)
血液型 A型
趣味 スポーツ観戦:スポーツなら何でも観ますが、学生時代にサッカーをやっていたこともあり、サッカー観戦が特に好きです。
読書:ジャンルは問わず本をよく読みます。好きな作家は村上春樹や大江健三郎、坂口安吾。「ブレードランナー」で有名なSF作家のフィリップ・K・ディックもすごく好きです。
専門 角結膜疾患
所属 眼科 教授
プロフィール 1961年 福井県に生まれる
1986年 慶應義塾大学医学部眼科研修医、専修医
1993年 米国Duke大学アイセンター研究員
1995年 慶應義塾大学眼科助手
1997年 慶應義塾大学眼科専任講師
2003年 国立病院機構東京医療センター 感覚器センター部長
2013年 杏林大学医学部眼科学教授


■ ご出身はどちらですか?
 出身は福井県越前市です。織物が盛んなところで、実家は布団のシーツや蚊帳などを作る工場を経営していました。実家が建っていたのは商店街のある街道沿いで、神社もあり、神社の門前町という感じでした。
 日本海側なのでとても雪が多いです。冬は晴れの日がなく、12月から3月までは曇りか雪の日しかないような所です。お正月に駅伝やサッカーをテレビで放送しているのを見て、どうして開催出来るのだろうかと不思議でした。そもそも、冬に青空が見えていること自体がすごく不思議で、いつもどうなっているんだろうと思っていましたね。
 雪がとても多いので、冬はよく2階から出入りしていました。小さい頃は、家の前の雪かきは子どもの仕事だったので毎日のようにやっていましたが、今はもう体力的に無理ですね。
 また、福井のあたりに降る雪はベタベタッとした雪で、パウダースノーではないんです。実家のあたりはスキー場が全然ないので、ウィンタースポーツも出来ず、どちらかというと、雪は生活を苦しめるだけのものという感じでした。

  ※クリックすると大きいサイズの画像が表示されます。

1963年、豪雪が降った時の写真。商店街のアーケード看板に届くほど雪が降りました。人が乗っているのは2階の屋根です。

 

同じく、豪雪が降った時に撮った写真です。 3歳くらいの可愛い頃ですね。

■ なぜ医師を目指したのですか?
 私は実家の工場を継ぐ予定だったのですが、時代が進むにつれて蚊帳などを使う人がどんどんいなくなってきてしまい、高校生の時に父が会社を畳んでしまったんです。将来は何でも好きなことをしていいよという感じになり、逆に困ってしまいました。ただ、技術や専門的な知識が必要な仕事をしたいと思っていたので、大学受験の時には、医学部以外に理工学部などを受験していました。その時は特に医師でなくても良かったんです。
 転機があったのはその後で、東京の大学を受験するために田舎から出て、親戚の家にしばらく滞在していた時、その間に母親が乳がんの手術を受けて入院していたんです。母親は受験生の私に心配をかけないためにその事をずっと内緒にしていて、私は受験が終わって帰るまで全く知りませんでした。その事を知った時初めて、医学部に受かっていたら良いなと思いましたね。結果は合格でした。もし受かってなくても、1年浪人してでも入ろうと思ったと思います。幸いにも、母親は今も元気にしていますよ。

■ 眼科を専門にしたのはなぜですか?
 学生の時、クラス内で各科目を分担してノート係というのを作っていて、その時の私の担当科目が眼科だったんです。そのため、眼科だけは必ずノートを取りに全部の講義に出席していたので、どの科目よりも詳しくなりました。また、その時の教授が植村恭夫先生というとても素晴らしい先生で、その先生のところで学びたいと思ったのも眼科を選んだキッカケですね。
 眼ってとても綺麗なんです。健康な方の角膜や水晶体を検査の機械などで見るととてもキラキラしているんです。また小さいながら角膜、虹彩、水晶体、網膜、脈絡膜など色んな組織が整然と詰まっていて、手術をする時にこれらの綺麗な組織を見ながら出来るのがとても気持ちが良いですね。眼は臓器の中でも、小さなところに様々な組織、様々な機能が詰まっていてとても密度が高いんです。こういったものを見ながら診断したり治療したりするのはとても楽しいですね。

■ 先生は慶應義塾大学出身ですね。学生時代の一番の思い出を聞かせてください。
 医学部の6年間をもう一度やり直せるなら、もっと遊んで、もっと勉強したかったです。今の杏林の医学部の学生さんを見ると、本当によく勉強しているし、卒業後の研修希望先を探すためにいろんな病院や大学見学に行っています。私が学生の頃は、学生のうちから色々勉強していろんな病院を見て・・・などということは一切頭に無く、卒業後は慶應の医学部付属病院でどこかの医局に入ることしか考えていませんでした。今は色んな情報が入ってきますし、色んな病院や大学に自由に行けるようになりましたが、その代わり、自分の好きなところに行くためにはたくさん勉強しないといけません。そういう意味では、当時は楽だったと思いますが、現在の環境で学べたならもっと面白かったと思います。
 部活はサッカー部に入っていました。サッカーは中学生の時からやっていて、始めた頃のポジションはMFだったのですが、学生の時は身長が比較的高かったので、GKをやっていました。練習は週3回で、日曜日は試合に出ていましたし、講義を休んで練習に出ていたこともありましたね。毎年、医歯薬リーグの試合に出場していて、4年生でキャプテンなどを担当する学年になった時、5部リーグまであるうちの2部にいたのを3部に落としてしまい、5年生の時には4部にまで落としてしまいました。今までは1部か2部にしかいたことがなかったので、先輩たちにすごく怒られました。そのため、本来なら引退するはずの6年生になっても部活をやめられなくなってしまいました。ただ、なんとか6年生の時に3部に戻ることができて、とてもホッとしたのが一番の思い出ですね。結局、6年生の夏までずっと部活をやっていました。

5年生の時に撮影したサッカー部の集合写真です。私は、前列の左から3人目です。部活で骨折を経験した友人の多くは整形外科医になっています。

 

■ 先生はアメリカに留学されていますね。
 ノースカロライナ州ダーラムにあるデューク大学のアイセンターに、1993年から2年ほど研究員として行っていました。 ここでは角膜の脂質代謝の研究をしていて、毎日実験室でネズミなどの動物を相手にしているか、培養細胞と格闘しているかのどちらかでしたね。研究留学だったので、臨床は週に半日だけ角膜の外来を見学に行く程度でした。
 研究生活で一番大変だったのは、二ヶ月近く研究に行き詰まってしまったことですね。今までうまくいっていたことがなぜかうまくいかなくなり、原因が全く分からないまま研究が進まなくなってしまったんです。その時期は本当に辛かったですね。その時は、今までうまくいっていたのだからと思って何回も同じことを繰り返しているうちにようやく原因が分かりました。原因はとても単純なことだったんですが・・・。その時に思ったのは、日本にいるときは研究と臨床の両方をやっていたので、一つのことばかりずっとやっているよりは、複数のことをやっている方が心の逃げ道があって良いなということでした。
 研究をやっていて、iPS細胞の山中伸弥教授のように、ものすごく大きなことを発見できる人は滅多にいません。しかし、例えば実験をしていてうまくいかなくなった時、原因となる様々な可能性を考え、それをまた実験して原因を探るなど、論理的・科学的な考え方、展開の方法を研究することで学ぶことが出来るんです。私はこの経験が臨床でも生きてくると思っています。最近は、臨床が優先されていて、研究は重視されなくなってきました。確かに、研究の内容は直接医療に影響を与えることは多くありませんが、その人の考え方を変える役割はあると思っています。私も診療をしていて、研究の真似事をしていた時の経験が生きているなと思うことがよくあるので、若い先生たちにも研究をするチャンスがあれば、ぜひ経験を積んでほしいと思います。

アメリカ留学中に、網膜硝子体手術の大家であるマカマー先生のお宅にお邪魔した時の写真です。私の左側にいるのが平形明人教授夫妻とお嬢さんです。

 

■ 医師になって嬉しかったことや苦労したことは何ですか?
 眼は治療した結果や手術した経過が、見えるようになった、痛くなくなったなどという形で患者さんにも明確に分かります。患者さんに「見えるようになりました!ありがとうございます!」と言われた時が一番嬉しいですね。特に白内障の手術は、患者さんの目に見える成果が出やすいので、若い頃は特に白内障の手術に満足感を感じていました。
 私は親戚に医師がいるわけではなく、この世界について何も知らずに医師になりました。この世界には何代にも続いて医師をしている家柄の人が多くいて、その中にあるしきたりなどに戸惑ったことはたくさんありましたね。詳しい内容は言いませんが。

■ 先生は2013年4月に杏林に赴任されましたね。杏林大学病院について思うことを教えて下さい。
 杏林大学病院の眼科は全国的、世界的にも有名で、医局にも慶應大出身の先生がたくさんいます。そういう意味では、引っ込み思案の私にとって馴染みやすく、溶け込みやすいなと思いました。また、周りの方にもたいへん良くしていただいたので、すごく助かりました。
 病院にはこのくらいの地域の患者さんを引き受けますという範囲、医療圏があるのですが、杏林大学病院はこの医療圏がとても広いです。こちらに来てすぐの頃、山梨県から救急の患者さんが来た時、周りの先生方に「よくあることですよ」と言われて驚いたことがありました。都内には多くの病院がありますが、杏林が引き受けている地域の広さや人口は非常に多いので責任重大ですね。でも、臨床を発展させていくにはとても良い環境だと思います。

■ 先生が今後、力を入れて行いたいことを教えてください。
 杏林の眼科を角膜移植でも全国でトップクラスにすることが目標です。日本では角膜を提供してくださる献眼者(ドナー)は少なく、杏林大学病院のアイバンクでも年に一ケタしかいません。そのため、移植を必要とする患者さんに長期間待ってもらっている状態が続いていました。その対策として、2013年の秋からアメリカのアイバンクから角膜を輸入して移植ができる環境を整えたので、最近ようやく角膜移植がスムーズにできるようになってきました。しかし、杏林大学病院は医療圏がとても広く、角膜移植を必要とする患者さんはもっとたくさんいると思いますので、今よりもっと良い角膜移植の医療を提供していきたいですね。

■ 患者さんへメッセージをお願いします。
 近年高齢化社会が進み、寿命が延びてきていますが、その中で大事なことは寿命が延びることだけでなく「健康寿命」が延びるということなんです。健康寿命とは、自分で生活が楽しめるくらいの健康を保った寿命のことで、そのために一番大事なことは「見る・聞く・歩く」です。その中でも「見る」ことは特に重要だと思っているので、眼は特に大事にしていただきたいです。例えば、眼の健康診断を定期的に受けることで、糖尿病や緑内障などが原因で将来的に失明してしまう人を3~4割減らすことができます。50歳を過ぎてからで良いので、5年に一度は眼の検査を受けてもらいたいです。


座右の銘

「見るまえに跳べ」
 大江健三郎の小説のタイトルです。本来は「跳ぶまえに見よ」という言葉が先にあって、転ばぬ先の杖と近い意味の言葉なんですが、それをわざと逆にしたそうです。これは、思い切ってやれという意味で、私自身引っ込み思案で決断力に欠ける部分があるので、敢えていつもそういう気持ちでいようと思っています。決断に悩んだ時はいつもこの言葉を思い出しますね。もちろん、診療するときは別で、慎重にならなければいけないと思っています。

山田先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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