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東アジアに対する日本の貢献

教授 青木 健

日本は戦後独立して戦後復興期、1960年代の高度成長期を経て1970年代に発生した2つの石油危機を克服し、1980年前後からJapan as No.1と称されるようになる(日本はあたかも世界で一番のようにみえるという意味であるが、一(Japan is No.1)とは似て非であることに、留意しなければいけない)。この間、日本は戦後賠償やODA供与などを通じて、東南アジア諸国を中心に東アジア諸国の経済発展のために支援をしてきた。そして1985年に、日本と東アジア諸国さらに両者の関係を決定的に大きく変える、歴史的転換点となる事態が発生する。19859月、米国ワシントンで開催された中央銀行総裁・蔵相会議(G5)における、円高ドル安に向けた為替レート調整である。円の対ドルレートは、19859月の237円から1年後には155円に、さら1998年には128円となり、大幅に円の価値が高まった。これを契機に、日本企業は猛烈な勢いで生産拠点を海外にシフトさせるに至る。

それによって、日本は日本の経済的ダイナミズムを伝播し、東アジア諸国を世界の舞台に登場させ、世界経済におけるプレゼンスを大きく高めることに貢献した。しかし、「喪われた10年」を現在も更新中の日本は、活力を喪い低迷を続けている。日本は自身の再生のため東アジアとの連携を強め、今度は東アジアから活力の導入を目指すべきである。

Japan as No.1

1980年代中葉以降、日本企業は怒涛の如く東アジアに進出した。これにより、日本企業は東アジア経済に大きく貢献した。1は、1997年アジア通貨危機が発生するまで高度成長をもたらした。第2は、日本企業特に製造業企業は極めて輸出志向性が強く、ホスト国の輸出拡大に寄与した。世界輸出に占めるアジアのシェアは、1985年の93%から2000年には200%に上昇した。第3の貢献は、工業化と産業構造の高度化である。輸出を牽引したのは工業品である。東アジア諸国の輸出工業化率、つまり総輸出に占める工業品の割合は軒並み上昇した。特にASEAN諸国のうち、シンガポール、タイ、マレーシアのそれは急上昇し、いずれも2000年には70%以上となった。この背後には、当然生産の工業化率の高まりがある。日本の対外直接投資が、製造業さらにそのうち電気機械を中心とする機械比率に比重を高めるにつれて、東アジア諸国の産業と輸出構造が一層高度化する。

日本は経済超大国の様相をみせ、それまでの輸出や援助に加え直接投資、技術、製品輸入、市場の開放、人の往来などへと一層チャネル数を増やすと同時に、そのパイプを太くして、経済的ダイナミズムを海外に伝播させる度合いをさらに強化した。日本は、米国が戦後世界経済に果してきたと同様な役割、つまり資本財技術、資金の供与国であると同時にそれらを導入した国で生産された製品の吸収国としての立場を、とりわけ東アジア諸国に対して担いつつあった。「世界の中の日本」として、当時日本は米国経済を凌駕するような勢いをみせ、米国から学ぶものは何もないと豪語した識者も少なくなかった。

以上のような事態が進行する過程で、次のような変化が生じていた。第1に東アジア全体の世界向け貿易規模は、輸出で1979年以降、輸入で1970年以降、米国向け輸出では1980年以降いずれも日本を上回り、1980年代中葉以降一層凌駕するように至る。2000年の東アジアの対米輸出規模は、日本の約2倍である。2の変化は、産業と輸出構造の高度化をもたらした電気機械を中心とする機械が、世界的なIT(情報技術)革命の進行と技術パラダイムの転換を反映して、情報と通信機能をもつIT財へと変貌するようになる。2000年東アジアのIT財の輸出規模は5730億ドルで、これは世界全体の37%を占め米国の17%や日本の12%を大きく上回り、東アジアは世界のIT財生産と輸出基地との地位を確立した。東アジア諸国のIT財最大の輸出先は米国である。米国は世界的なIT革命の最先端にあり、1990年代に入りその歩みを一段と加速させ、そのIT財の供給先を東アジアに求めた。東アジア諸国はその需要に効果的に対応し、同諸国全体の輸出規模は日本を一段と凌駕するようになる。

Japan was as No.1

そうした状況の中で、東アジアは順調な発展軌道に乗ったかにみえた。しかし、経済発展が余りにも急激すぎた東アジア諸国は実力以上に経済を膨張させ、バブル化した経済を破裂させてしまった。1997に発生したアジア通貨危機である。このきっかけは、東アジア諸国の日本を大きく上回る米国向け輸出の鈍化であった。その後、米国景気の回復で、米国向け輸出の拡大で、東アジア経済は1998年にV字型景気回復を果したものの、一転2000後半に入ると米国発のIT不況で、再び減速を余儀なくされる。危機に陥った東アジア諸国に対し、日本は400億ドル規模の金融支援を実施したものの、「喪われた10年」を現在も更新中である日本は輸入を増加させ、東アジア諸国の輸出を拡大させることができなかった。それどころか、米国向け輸出を拡大させていた時期に、東アジア諸国は輸入も増加させたが、日本は同諸国向けに輸出を拡大させ、日本の景気の下支えをしてもらった。日本と東アジア諸国との間の関係は、一変したのである。これは、日本は、輸出入とも東アジアに対する依存度を強める一方、東アジア諸国の対日貿易依存度は低下傾向のあるという、非対称の構造変化が進行していることを反映したものである。かって「世界の中の日本」と称されていた日本と東アジア諸国との関係は、「日本とアジア」を経て「アジアの中の日本」へと、アジアに包摂される日本に変わりつつある。日本はJapan was as No.1(日本はあたかも世界のNo.1とみなされることも過ぎ去った)となってしまった。

日本は依然迷走から脱出できないでいる。日本社会は、外国人から「ヘッドレス・チキン」と、呼ばれているという。鶏は頭を切られても、しばらくの間あちこち走り回わる。日本社会はそれと同様、走り回る体力を持つが、指令塔不在で目指すべき方向を見失っている。また日本は、問題の所在が解り、何をなすべきか皆知っているのにもかかわらず、誰もが無為に過ごしているともみられれている。これは「日本病」(Japan Desease)と呼ばれている。

世界経済のグローバル化や中国の台頭など、世界経済の環境変化が進行し、これに呼応してASEAN・中国FTA(自由貿易協定)締結に向けた動きやASEAN内部改革などがみられる。日本の政治`済構造の内部改革は、遅々として進んでいない。日本の少子・高齢化の到来は目前である。このままでは日本の衰退は必至である。日本は東アジアの活力を導入して、日本再生のデザインとプログラムを、早急に策定する必要がある。日本は再生の余力を有していると確信するが、残された時間は少ない。