「日本語を勉強したい!」という希望をもっている「日本語を母語としない人」に「日本語を教える」ことを「日本語教育」といいます。そして、その日本語を教える人のことを「日本語教師」といいます。
ちなみに「日本語を母語としている人」に日本語を教えることは、ふつう「国語教育」といいます。 そして「国語教育」にたずさわる先生は「国語(科)教師」とよばれます。この「日本語」と「国語」の使いわけは、この業界ではとても厳密に区別
されています(…と、おもいます)。 |
「日本語教育」の研究、には大きく2つの分野があります。
一つは言語としての「日本語」を研究する分野です。つまり、日本語の文の構造とか、語彙の分類とか、ことばの使いかた、
などを研究する分野で、これは「日本語学」といいます。
この「日本語学」にとても近い分野に「国語学」があります。こちらは「国語」の文の構造とか、語彙の分類…をする学問ですが、 研究対象とする「日本語」と「国語」は、本来、同じものなので「日本語学」と「国語学」は、ほとんど重なりあっています。
しいてちがいをあげれば「日本語学」が対象とする「日本語」は、ほとんど現在話されている「現代日本語」にかぎられるのに対し、 「国語学」が対象とする「日本語」は、「古事記」「日本書紀」の時代から現代にいたるまでのすべての時代の「日本語」です。
つまり、日本語の時代的な変遷をつねに意識しながら研究をすすめる、というのが「国語学」の特徴だといえます。
いっぽう、「日本語学」では日本語以外の言語と日本語を比較対照しながら研究をすすめることがめずらしくありませんが、
このような「対照言語学」的な研究は、「国語学」ではあまり多くないとおもいます。
以上をまとめると「日本語学」は、 「現代日本語を他の言語とも対照しながら研究する」(共時的な研究)が中心であるのにたいし、 「国語学」は
「日本語の歴史的な変遷をつねに意識しながら研究をすすめる」(通 時的な研究)という違いがあるといえます。
「日本語学」の研究分野
(1)日本語の発音 (音声学・音韻論)
(2)日本語の文の構造 (構造論・文法)
(3)日本語の語彙 (語彙論・品詞)
(4)語彙と文の意味について (意味論)
(5)ことばの使いかた (語用論) |
「日本語教育」のもう一つの研究分野は、「日本語の教えかた」そのものについての研究です。つまり、こちらは狭い意味での「日本語教育学」ということができます。
この「日本語教育学」は、「国語学」という伝統のあるモデルがあった「日本語学」とはちがい、模倣すべきモデルがほとんどありませんでした。
「外国語教育」という点では 「漢文教育」や「英語(フランス語・ドイツ語)教育」と共通 しているはずなのですが、「漢文教育」はいうまでもなく、日本の「英語教育」は、
長い間、ネイティブの教師による直接教授をほとんど導入せず、大学(高校)入学試験のための教科として独特の発展(?)をしていたので、あまり参考には
ならなかったようです。(ただし、アメリカ合衆国やカナダで、ネイティブによるESLの授業にふれ、ここから日本語教育に入ってきた「日本語教育学」の専門家は数多くいます)
そんなわけで、この分野の研究は、まだそれほどしっかりとした「体系」ができているとはいえません。だいたい、日本語学習者がいまのように急増したのは
1980年代にはいってからです(注)。だから「日本語教育学」という分野は、まだごく新しい分野なのです。 そんなわけで、いまのところ「日本語教育学」の枠組みには、はっきりしていない部分があるのですが、いちおうつぎのようなことが研究されています。
(1)日本語教育の手順や進めかた…つまり、カリキュラムやシラバスについての研究
(2)教科書や教材、教具の編集・制作についての研究
(3)評価やその方法…つまりテストですね…についての研究
(4)教授法…どうやって教えるか…にかんする研究
(5)日本語教育の歴史的研究、言語教育政策にかんする研究 |
以上、述べてきたことが「日本語学」「日本語教育」の研究分野です。日本語教育を研究しています、といった場合、 以上の分野のどれかを研究している、ということになるのです。…で、わたしがいま、いちばん興味をもっていることは
「どうやったら理想の日本語教師になることができるか、その技術をまとめよう」と、いうことなのです。 うーん、どうも上の分類にはあてはまらないぞ…。
注:第二次世界大戦の前にも、台湾・朝鮮半島・ミクロネシアを中心に多くの「日本語学習者」がいましたが、彼らが自発的に日本語の学習を希望したとはいえないのでここではふれません。
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「日本語教師」は、2つのタイプ(?)にわけることができます。それは「日本語を母語としない日本語教師」と「日本語を母語とする日本語教師」です。
ふつう「外国人」が日本語教師になったときは前者の日本語教師になり、「日本人」が日本語教師になった場合は、後者の日本語教師になるわけです。
…ただし、国籍なんてかなり便宜的なものですから、やはり「母語話者」「非母語話者」として話をします。
この2つの日本語教師のあいだには、たいへんに深くて広い溝があります。
つまり、前者は「日本語をいっしょうけんめいに勉強し、努力して日本語教師になった人」であるのにたいし、後者は「日本語を一度も(意識して)勉強したことが
ないくせになんとなく日本語教師になっちゃった人」であるという溝です。
前者には、とくに問題はありません。これはごくふつうのことです。高校の世界史の先生も、大学の物理学の先生も、中学校の音楽の先生も、それぞれ自分が
高校・大学・中学のときには、学生(生徒)として世界史や物理や音楽を学んできて、それをもとに授業をしているのですから。
ところが、後者はちょっとちがいます。つまり、日本語を母語とする日本語教師は、いちども日本語の授業をうけたことがないのです。その内容や構造について教わったことはありません。つまり日本語を分析的に考えたことがありません。ただし、それを総体として「使う」ことは(とてもよく)できます。…これはたとえてみれば、
「生まれてから一度も算数を勉強したことがないけれども、電卓を使うことだけはできる人が、電卓をもっていない人に四則演算をおしえる」のとおなじことなのです。
…これは、ちょっと問題だとおもいませんか?
「電卓教師」の場合、問題解決は簡単です。電卓をとりあげて、もういちど算数の勉強をやりなおさせればいいだけです。ところが「日本語を母語とする日本語教師」の場合、母語をとりあげるのは不可能です。そんなわけで、世の中には「自分だけ電卓をもって、電卓をもっていない学習者に電卓の使いかたをおしえようとしている自称日本語教師」がたくさんいるのです(注)。
ところで、日本語母語話者が日本語教師をはじめたばかりのころは、ほとんどすべてが、「電卓日本語教師」なのですが、時間がたち、経験をつむとともに、電卓をもたない学習者の立場にたって授業をすすめることができる「よい教師」があらわれてきます。いまのところ、この「よい教師」の養成にはこれといった方法論がなく、なれるかなれないかは個人の資質しだい、という状況です。そこで、わたしがいま、考えているのはこのような「電卓日本語教師」を、意識的に「理想の日本語教師」にすることができないか、ということなのです。いくつかの訓練を組みあわせて、自分が「電卓をもっている。学習者はもっていない」ということを実感できれば、もっと組織的・効率的に優秀な日本語教師を養成することができるのではないかとおもい、いま、実験をしているところです。
もちろん、「教員」という仕事にむくかどうかには、性格や才能、といった要素がかなり深く関与しているとわたしは考えているので、「だれでも日本語教師になれる!」とまでいう気持ちはありませんが。
注:もちろん、おなじタイプの英語教師やフランス語教師…も、ものすごくたくさんいます。
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