「異文化理解とコミュニケーション」っていうのは、なんとなくわかったようでわからない分野ですね。「自然地理学」とか「歴史学」などという正統派学問とはちがって、こういう新興の研究分野は、なんとなく、いいかげんな感じがします。だから、わたしもふつうの場所(?)で「ご専門は?」などと聞かれたときには、すでに確立された研究分野である「日本語教育」とか「日本語学」とか答えることにしています。
ただ、杏林大学の本田ゼミのテーマとしては、この「異文化理解とコミュニケーション」というテーマを一貫してかかげてきました。それには、こんな理由があるからです。
はじめてあった人に、「日本語教師をしています」というと、「外国語は何ヶ国語ぐらいできるんですか?」とか「英語がお上手なんでしょうね?」といったことをかならず聞かれます。たとえば、わたしは以前、中国やポーランドで仕事をしていましたから、その話をすると「何語で教えていたんですか?」とか「大学時代の専攻は中国語ですか?」とか「ポーランド語はどこで勉強したんですか?」という質問がかならずもどってくるわけです。しかし、わたしは中国にいくまで、中国語は全然知りませんでした。だいたい、わたしは中学・高校ついでに大学と英語の成績が極端に悪いので何度も卒業が危ぶまれたほどの人間なのです!(べつにいばることじゃないけど…)
では、あなたは日本語をおしえるときには、何語をつかっているのですか、ということになるのですが、わたしは日本語をつかって日本語をおしえているのです。べつにわたしが特殊な日本語教師である、というわけではありません。じつはネイティブの日本語教師の90%以上が「日本語で日本語をおしえている」のです。だから、日本語教師業界のパーティでも(?)、「あなたは何語でおしえているんですか?」「わたしはスワヒリ語でおしえています。あなたは?」「わたしはグルジア語です」…なんて会話がかわされることは、絶対にありえないのです。
しかし、かんがえてみるとこれは不思議な話です。…「日本語がわからない人に、日本語で日本語がおしえられるんですか?」…うーん、でも、現実におしえられるし、そのほうが、能率がいいのです。わたしは今では中国語がかなりできるようになってきましたし、中国を旅するときは中国語で中国人と話をしますが、日本で中国人に日本語をおしえるときはもちろんのこと、中国で中国人に日本語をおしえるときも、中国語はほとんどつかいません。そのほうがずっと「おしえやすいし、学習者もわかりやすい」からなのです。
なぜかというと、「ことばはコミュニケーションの一部を担っているにすぎない」からなのです。わたしたちは、外国人とコミュニケートしようとするときに、まず「ことばがつうじるか・つうじないか」ということをかんがえますが、じっさいには人間はことばをこえた部分で、かなりのコミュニケーションをしています。おなじことばを話す人たちどうしの日常会話レベルでは、文法的にも内容的にもそうとう破格の会話がかわされていることが多いのですが、わたしたちはそれに気がついていないだけなのです。それでも会話がつうじるのは、ふたりが共通
のテーマとそれについての背景的な知識をじゅうぶんに了解し、さらに話すときの相手のしぐさや表情を敏感によみとっているからなのです(注1)。
日本語教師が教室でやっていることは、この日常会話の延長にすぎません。まずはじめに「導入」として、その日のテーマを提示します。その背景的知識となるのは、昨日まで学んできたことがら(既習項目)です。また、人間の言語行動は民族によってそれほど大きくかわるわけではないので、その学習者の母語が背景的知識となることも少なくありません。教室全体で、ひとつのテーマを確認できたら、あとは、ことばによらないコミュニケーション能力を最大限に生かしながら、日本語を補助的につかって、日本語を学んでゆくわけです。
つまり、日本語教師を志望する学生は…ま、日本語教師ではなくても、人との関係(コミュニケーション)が重要な職業につくものは、この「ことばによらないコミュニケーション能力」を訓練していく必要があるのです。しかし、「外国語学部」の学生はここに弱点をもっている人が多いのです。つまり、日本の外国語の学習は「なるべく正確に、正しい外国語を習得する」という点に異常に偏重していく傾向があります(注2)。つまり、英語の習得にかんして、「破格の英文でもコミュニケーションがとれればそれでよし」とするタイプと「文法的にまちがった英文を話して笑われるぐらいなら首をつって死んだほうがまし」とするタイプがいるとすると、外国語学部の学生は、英語が上手で、よい成績をあげている優秀な学生が多いだけに、後者の数が多くなる傾向が強いのです。
そこで、わたしのゼミでは、人ときちんとコミュニケーションをするための訓練を、プレゼンテーションをくりかえすことによってしてゆきます。このときに重要なのは、まなざしとか表情とかあるいはジャスチャーです。人の前で魅力的なプレゼンテーションができるようになれば、内容なんてあとからついてくる、というのがわたしの基本方針なのです。
(注1) これはあくまで日常会話レベルの話です。たとえばもっと高度な話や、抽象的な話の場合はことばの重要性がずっと大きくなるのはいうまでもありません。「書かれた文章」では、もちろんことばの重要度が100%ちかくをしめることになります。
(注2) 杏林大学の授業がそうだというのではなく、あくまで中学校−高校の外国語教育の一般 的傾向をいっています。また、大学レベル以上の言語教育では「書かれたもの」を読みこなし、また「書くこと」が最も重要ですが、この場合は、正確さがなにより重視されることはいうまでもありません。
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わたしにはこんな経験があります。 あるとき、英語がものすごくヘタなわたしと、英語がものすごく上手なある先生がいっしょに仕事をしました。場所は英語圏には属さないある国です。その仕事は、その国の日本語教育事情について調査をし、報告書をまとめる仕事だったのですが、予定の期間をすぎて合流したわたしは、相手の調査がほとんどすすんでいないことに愕然としました。調査をはじめる前には、おそらく語学力に数段勝る相手のほうがずっと大きな成果
をあげるだろうとおもっていたのですが、実際にはその逆だったのです。
このとき英語の上手な先生がおもうような成果をあげられなかった理由を、わたしはつぎのように分析しています。 一つは、その先生の英語があまりにも上手だったことです。非英語圏では(日本も同様ですが)英語がヘタなことに、強いコンプレックスをもっている人が少なくありません。とくに「知識人」とよばれるような階層の人にはその傾向が強いのです。あまりにも上手な英語でインタビューを迫られた人のなかには「まちがった英文を話して笑われるぐらいなら首をつって死んだほうがまし」とかんがえてろくに返事もできなかった人がかなり多かったのではないでしょうか。
もう一つは、その先生が(失礼ながら)その国にかんする背景的知識をほとんどもっていらっしゃらなかったことです。その国にはかなり特殊な宗教的な状況と歴史的背景があったのですが、そのようなことにかんする意識がまったくなかったのです。そのような背景的知識は、直接、調査項目には関与してこないので関係ないだろうと考えがちなのですが、まず、人間と人間との信頼関係をつくらなくては調査はできません。そのとき、相手の宗教や社会習慣を理解しているかどうかで、人間としての信頼性がずいぶんかわってくるのです。
そんな、わけでわたしのゼミでは、文化人類学者がいままで分析し分類してきた人類の文化の構造を、学生がまとめ、それを発表することにしています。人間のつくってきた文化は多様性にとんでいますが、それを「好き、嫌い」ではなく、理性的に理解できるようになるのが、わたしのゼミの目標です。
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