中竹俊彦

リンパ球を追う(シリーズ300-B)リンパ球の世界(III−B) リンパ球をどうみるか 8.具体的な事実(顆粒と核小体)の例

リンパ球の世界(III‐B)

 B.リンパ球をどうみるか

8.リンパ球の具体的な事実(顆粒と核小体)の例

                          杏林大学 保健学部 臨床血液学 中竹 俊彦

 具体的事実の第1例として、細胞質の顆粒の有無はその存在が明確な物体なので、みえること自体が特徴であり、表現方法には問題がなさそうです。しかし、顆粒が存在しないか、または存在するのにみえないときは、一般には「認められない」と記述するので、二通りの意味があり得るのです。

 読者はこれを「顆粒は認められない=存在しない」という解釈で、誤解する恐れが非常に強いのです。誤解の例は、成熟好中球の一次顆粒(これも電顕用語)の存否です。

 前骨髄球の初期に産生されたアズール顆粒(一次顆粒)は、成熟好中球になる間に顆粒自体も成熟して、普通染色ではアズールという色素とは結合しなくなり染まらないのです。つまり、成熟好中球には一次顆粒は存在しているが認められないのです。

 そこで血液学教科書では「成熟好中球にはアズール顆粒(一次顆粒)は認められない」と記述されています。それを初学者は、一次顆粒は成熟好中球には存在しない、という誤解をしやすいのです。

 では、異型リンパ球に明瞭なアズール顆粒の存在を指摘するとき、Tリンパ球の活性化像であるという定義に合うのでしょうか。これは「アズール顆粒をもつリンパ球の活性化」であり、Tリンパ球という確定はできません。

 具体的事実の第2例として、核小体の有無の表現は、リンパ球の形態では最重要問題になります。新生リンパ球は前述のように、成熟したリンパ球です。教科書的な表現では、成熟リンパ球はセルサイクルでいう休止期(静止期)の細胞であり、合成期(S期におけるRNA合成)以外には核小体はないと理解されていました。

 つまり、リンパ球には一般的には核小体はみられないものであると理解されていたのです。教科書にも例外的な表現として「末梢血のリンパ球に核小体をもつものがある」という記述はあります。これは普通染色標本でリンパ球に核小体がみえた細胞にだけ「認められる(もつ)ものがある」とし、その他多くのリンパ球には「みえなかった」ことを意味しています。したがって、全てのリンパ球の核小体の存否を記述したのではなく、みえた事実か、みえなかったかを客観的に表現しているだけです。

 以上、私は教科書の著者が「みえている事実」を客観的に正しく記述してきた状況を解説してきましたが、では、末梢血リンパ球の電顕による観察結果は上記と比べてどうでしょうか。

 電顕所見の記述では、「大リンパ球」の標本をみた表現では、クロマチンの量については、「核のクロマチンは少ない」となっていると思います。その表現の意味は、リンパ球の核を「超薄切片標本」にしたときは「核のクロマチンは少ない」と記述しているのです。また、小リンパ球はクロマチンが濃縮して塊状なので、断面ではクロマチンが多いという表現にもなりかねません。しかし実際には、その超薄切片標本の透過電顕像所見の説明にすぎないのです。

 電顕で核小体については「末梢血のリンパ球には核小体が1個あると明記されているのが普通でしょう。したがって、核のクロマチンの状態や量、核小体に関する表現の違いは、読者が核の立体構造やクロマチンの構造および変化していく状態をイメージし、その電顕像を念頭において解釈することが重要だと思います。

 電顕像の説明のように光顕像と異なり、対象の見方や手段が変われば、血液学教科書と異なる明解な記述になるのですが、私達はその違いをリンパ球の形態学では今後、どのように考えていけば合理的でしょうか。

 私たちはリンパ球において「核小体の存在、数の増加、大型化」とは、そのリンパ球にとってどんな意味があると理解するのが妥当でしょうか?

 これらの点も血液学教科書で記述されることが少なかっただけに、「リンパ球の核小体の問題点」として、本稿では大事に取り上げる事項の一つです。

 体裁

 B5版(本文 305頁)

 目次(序論・1〜24まで9頁)

 索引(欧文A〜Z 2頁、和文索引19頁 合計21頁)

  (頒布いたします)

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