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1.Samuel Johnson を中心とする18世紀イギリス文学全般

18世紀というと、皆さんはどんなことを思い浮かべますか?日本ではちょうど江戸時代中期、鎖国によって徳川幕府の政治体制がいちおう安定し、国内経済が著しく発展した時代です。日本国内のさまざまな文化が発達したのもこの江戸時代ですが、地球のちょうど反対側、ヨ−ロッパの西端に位 置するイギリスでも、その後の世界を大きく揺り動かすような出来事が進展していました。17世紀に2度の大きな革命を体験したイギリスは、18世紀に入ると、ト−リ−党とホイッグ党という二大政党による議会 政治が本格化します。言うまでもなくこれが、今日、日本でも採用されている議会制民主主義の始まりです。また、国内経済と、特に植民地との海外貿易が著しく発達したり 、近代的な形態を備えた諸産業や金融制度が世界に先駆けて確立してくるのも18世紀イギリスの特徴です。経済学の方では、古典中の古典とされているアダム・スミスの『国富論』は、このような時代を背景としています。(こうして実力を蓄えたイギリスは、19世紀になると、世界中に植民地を拡大し、結果として「( 世界の主要な)7つの海を支配する」とまで言われるようになります。実はこのことこそ、今日、英語がいちおう、「国際共通語」的な存在になっているそもそもの歴史的な原因なのです。)そんなイギリス18世紀の文学は、ちょうど私たちが、あたかも当然のことであるかのように考えているさまざまの文化的社会的な事柄の出発点が、実際にはどのようなものであったのかをはっきりと浮かび上がらせてくれます。新聞・雑誌などのメディアを通 じて情報が伝達されるジャ−ナリズムが然り。日本の憲法でも保証されている「言論の自由」という制度が然り。書店に行けばいくらでも手に入る「小説(ノヴェル)」という文学ジャンルが確立したのもこの18世紀イギリスでのことですし、そもそも英単語のスペリングが現在の形に固定されてくるのも18世紀のことでした。私が特に専門にしている Samuel Johnson はほとんど独力で『英語辞典』を編纂しますが、彼のこの『英語辞典』が、後の本格的な「英語辞典」の歴史の出発点になるのです。18世紀イギリス文学を通 じて見えてくるものは、まさに今日私たちがそれとは気づかずにいるさまざまな文化的社会現象を人類が初めて採り入れたことの本当の理由とか、きっかけとか苦悩といったものです。『ガリバー旅行記』や『ロビンソン・クルーソー』といった18世紀のイギリス文学作品は、日本の学生の皆さんでも読んだことのある人が多いでしょう。まずはそのあたりからでも、私の研究室やゼミナールを覗いてみてください。
2.書物の印刷・出版の歴史

「本なんて値段が高いし、読むのも面倒だから、普段はあまり縁がない」と感じている学生の皆さんも多いかも知れません。でも、書物の印刷と出版の歴史は、最近、本を買ったり読んだりしたか否かの問題だけでは、到底気づきません。そもそも、私たち人間が何らかの情報を伝えるために書かれた文字を使うというところに本の歴史の始まりがあるからです。最近急速に発展しつつあるコンピ・−タ−社会は、一見冊子体の書物に取って代わるもののように見えますが、「書き言葉」による情報伝達という書物本来の根本的な意味に立ち返って考えてみると、むしろそれは、「書き物文化」を著しく加速するもののように思えます。テキスト・ファイルにせよ、電子メ−ルにせよ、結局は「書き言葉」を基礎にした情報のやり取りなのですから。象徴的なのは、よくコンピュ−タ−で画面上のテキストを追っていくことを「スクロ−ルする」と言いますよね。この「スクロ−ル (scroll) 」とは、もともと巻物という意味の英単語なのです。実際、コンピュ−タ−で「スクロール」するのと、「スクロール(巻物)」を読むのとでは、使う機材こそだいぶ違いますが、人間の行動には差はありません。)書かれた文字・言葉の歴史を追っていくと、人間の知的活動のさまざまな側面が見えてきます。中世と呼ばれた時代に一般的であった「写本文献」、ドイツのグ−テンベルクの発明による活版印刷の意義、印刷術の向上を背景とする印刷物(書物のみならず政治パンフレットや新聞・雑誌なども含む)の急速な流布、文字が読めなければ情報に乗り遅れてしまうということで必死に文字の読み書きを習う小学校教育の発達と識字率の変遷、流布しては困る情報を閉ざした政治的権力者による発禁処分や抑圧などなど、書物の歴史を繙くと、実に面白い話題がたくさんあります。さらに、横書きの文書を読むのと縦書きの文書を読むのとでは、当然目の動きが異なるわけで、その辺のメカニズムは医学の分野にも接近しますし、文字の認知能力の解明には心理学なども必要になってきます。このように実に多様な「書き言葉」の世界を探究していくのも、私の研究分野の一つです。

3.比較文学・比較文化論の事例研究

私の比較文学・比較文化研究は、基本的に、文学作品の翻訳・翻案のプロセスを研究しようとするものです。事例研究が中心ですから、一つだけ例を示しましょう。 1817年、バイロンというイギリス・ロマン派の詩人がスイスやイタリアを放浪しながら『マンフレッド』という3幕からなる劇詩を書き上げました。この作品は、後にバイロンの傑作として、さまざまなジャンルの芸術家に影響を与えています。音楽の好きな人は、チャイコフスキ−の有名な「マンフレッド交響曲」を思い浮かべるでしょうし、ヨ−ロッパ絵画の好きな人は、フォ−ド・マドックス・ブラウンという19世紀イギリスの画家の作品を連想するかもしれません。ドイツの詩人ハイネも、バイロンの作品に影響を受けたそのような芸術家の一人でした。彼はただちに、バイロンの原作の一部をドイツ語に翻訳します。完成したのは1821年。それから約半世紀後、はるばる日本からドイツに留学した、ある官費留学生が、実はこのハイネの翻訳に魅力を感じてこれを和語と漢語(漢詩)の両方に翻訳して出版しています。翻訳が掲載されたのは『於母影』という訳詩集で、出版されたのは1889年。といえば、もうこの官費留学生が誰であるかはお分かりでしょう。森鴎外です。ところでバイロン、ハイネ、鴎外の三者の作品を並べてみると、いろいろと面白い事柄が浮かび上がってきます。例えば、バイロンの原作は、基本的にブランク・ヴァ−スという弱強5詩脚の無韻詩で書かれています。(少し難しいかもしれませんが古英語の詩のリズムは、基本的に単語の音節とその読みの強弱のリズムによって決まってきます。弱強5詩脚というのは、弱強のリズムが1行に5個(つまり1行の音節数は10個jあるということで、無韻詩というのは、例えばカプレットのような脚韻(2行毎に行末の音を一致させること)を踏んでいない形式を指しています。かのシェイクスピア劇のほとんども、このブランク・ヴァ−スという形式で書かれています。)英語とドイツ語は、基本的にこうした詩の形式を移し変えるのには好都合で、ハイネもほぼ原作の形式を踏襲しています。ところが、鴎外はどうでしょう。鴎外は、しっかりと英語とドイツ語の詩の形式の本質を理解していました。しかし、我が日本語の詩歌は、「五・七・五・七・七」などというのが一般的で、これは音のリズムではなく、文字の数によって構成されていますね。これではどうやっても移し変えられない。(詩は、それぞれの言語の本質を示すものであるがゆえに翻訳不可能だとよく言われる一つの理由はこうした点にあるわけです。)しかし鴎外は、ある実験的な工夫をしています。それはどういうことか…こういったことを綿密に検討していくことが、私の比較文学・比較文化研究なのです。文化や文学の比較と言えば、いろいろな事柄がテーマとして考えられるでしょう。服装や音楽、文学作品の主題や舞台などなど、いくらでも対象は見つけられますし、相違点と共通点を列挙するだけならいくらでもできます。でも、そこからもう一歩踏み込んで、特に言葉を軸に考えてみよう、というのが、私の関心のありかたです。


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