第3回レポート
第5の不思議
「本がある」を否定文にしなさい,という問題があれば,だれでも
   「本がない」
と答えます。まちがっても
   「本があらない」
などとはしません。

 しかし,「本を読む/取る/写す」など,他の動詞では,みな
   「本を読まない/取らない/写さない」
となりますから,「ある」の否定形は「あらない」が正しいということになりそうです。
 では,なぜ「あらない」ではなく,「ない」が正しいことになるのでしょうか。

 「ない」というのはいったい何なのでしょうか。……「ない」は「ある」の否定形ではないようです。だとすれば,「ない」は「ある」の反対語なのでしょうか。

 確かに,古語では「あり」の否定形は「あらず」で,「なし」は反対語なのでした。
 「あらず」の「ず」という否定の助動詞は,奈良時代には,関西で使用されていたものです。そのころ関東では「なふ」という別の否定の助動詞が使われていました。関東ではこの「なふ」の連体形の「なへ」が「なえ」と発音されるようになり,江戸時代に「ない」になりました。

 政治の中心が関西から関東に移るに伴い,動詞の否定の形も「ず」から「ない」に変わりました。したがって,「ある」の否定形も「あらず」から「あらない」に変わったわけです。
 一方,反対語である形容詞の「なし」も「ない」に変わりました。
    [否定形] あらず → あらない
    [反対語] なし  → ない

 では,否定形と反対語の表す意味はどういう関係にあるのでしょうか。たとえば,「開く」という動詞で考えてみましょう。否定形は「開かない」で,反対語は「閉める」です。「開かない」と「閉める」では,全然ちがうことを意味しています。
   開く    [否定形]「開かない」 ≠ [反対語]「閉める」
 「大きい」という形容詞ではどうでしょうか。
   大きい  [否定形]「大きくない」 ≠ [反対語]「小さい」
やはり,「大きくない」と「小さい」とは意味的に同じではありません。つまり,普通は,否定形と反対語とは意味が異なるものなのです。

 では,「ある」の場合もそうなのでしょうか。
   ある   [否定形]「あらない」……非存在を表す。
         [反対語]「ない」……非存在を表す。
ということは,「ある」の場合は特殊だということになります。否定形も反対語も意味がまったく同じなのです。
 意味がまったく同じなのであれば,どちらを使ってもよいわけで,どちらを使ってもよいというのであれば,できるだけ短い方を使おうというのが言語の一般的傾向です。
第1の不思議で,「であります」がどんどん短くなって「です」になった,ということをみました。)
 それで,長い「あらない」を使う場合でも,短い「ない」の方が好んで使われるようになったわけです。

 ということは,現在,「ある」の否定形(あらない)は存在していないわけです。私たちは「ある」の否定形のつもりで,実は反対語を借用していたのでした。アルの否定形はナイわけです。


 ところで,「ある」の丁寧形「あります」になると,事情が異なります。
   あります  [否定形]「ありません」
          [反対語]「ないです」
 このように,否定形と反対語の両方があります。これは,両者がまったく同じではないからで,両方存在する意義があるからです。わたしたちはこの両者を使い分けています。かなり丁寧に言うときは否定形「ありません」を使い,少し丁寧に言うときには反対語「ないです」を使っています。

 では,「ございます」の場合はどうでしょうか。……「ある」の場合とは逆で,反対語がありません。否定形だけを使っています。
   ございます [否定形]「ございません」
           [反対語]「ござないです」

 最後に,以上をまとめて,表にしてみましょう。

否定形 反対語
ある あらない ない
あります ありません ないです
ございます ございません ござないです


アルの否定はなぜナイか,おわかりいただけたでしょうか。



 このテーマについては『日本語構造伝達文法』の第30章,第31章をご覧いただければ幸いです。歴史的な変化のことなど,構造図を用いてもう少し詳しく扱っています。




「ある」の否定は,なぜ「あらない」ではないの?