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当院のドクター紹介

臨床医学と基礎医学をつなぐ研究を通じて、医療の更なる発展を目指します。

5月のドクター紹介は、検査部の渡邊 卓 教授の紹介です。
子供の頃から医師になろうと決めていた渡邉先生。脳外科医として臨床に従事する中で、手術だけではない、他の治療の必要性を感じ、外科医から研究者へ転身したお話を聞かせてくださいました。

渡邊 卓
名前 渡邊 卓 (わたなべ たかし)
血液型 O型
趣味 ピアノを弾くこと:小さな頃から大学時代までピアノを習っていました。ショパンやリストなどの曲が好きで、いまでも時々弾いています。
オペラ・音楽鑑賞:ピアノを弾くだけではなく、音楽を聴くことも好きです。時間があるとオペラやバレエのDVDを見ます。
専門 臨床検査医学
神経発生学
所属 検査部 教授
プロフィール 昭和28年京都市左京区に生まれる。
昭和53年6月 東京大学医学部附属病院 研修医 脳神経外科、昭和53年12月 日本赤十字社中央医療センター、昭和55年10月 東京大学医学部附属病院、昭和57年2月 国立がんセンター、昭和59年10月 東京都立荏原病院、昭和61年7月 東京大学医学部 脳神経外科助手、昭和62年1月 同上休職 ロンドン大学ユニバーシティーカレッジ生物学部 客員研究員(平成3年1月まで)、平成3年2月 東京大学医学部附属病院、平成3年9月 杏林大学医学部 講師(臨床病理学)、平成6年8月 杏林大学医学部 助教授(同上)
平成13年4月 杏林大学医学部臨床検査医学教授、同付属病院臨床検査部長

■ どのような子供時代を過ごされましたか?
私は京都市左京区の出身で、家は銀閣寺から歩いて10分ほどのところにありました。詩仙堂や修学院離宮なども近くにあり、とても静かで環境のよいところでした。大人になった今、京都の魅力というものをあらためて感じますが、子供の頃は、銀閣寺のすぐ裏にある大文字焼きの火が点火される大文字山を駆け巡ってよく遊んだものです。直ぐ近くには京都大学もありましたので、京大の構内やグラウンドも私の遊び場でした。

 今でも趣味として続けていますが、小さな頃からピアノを習っていました。最初は親に言われるままにといった感じでしたが、そのうち自分でも楽しさがわかるようになり、大学を卒業するまでレッスンを続けていました。大学時代は有名なピアニストの先生に教えていただき、音楽を通じて様々な経験をしたり、素晴らしい方々と出会うことができました。これはちょっとした自慢話ですが、音楽評論家でもあり、元東京芸大の声楽科の教授をされていた畑中良輔先生ともその関係で出会うことができ、先生が書かれた「音楽の友」という雑誌の記事の中で、私の事に少し触れていただいたこともあります。

 中学と高校生のときにはオーケストラ部に所属していました。残念ながらオーケストラにピアノはありませんので私はフルートを吹いていましたが、一度だけ中学2年生の頃に、オーケストラをバックにピアノコンチェルトをやらせていただきました。ハイドンのピアノ協奏曲でしたが、とてもよい経験をさせていただいたと思っています。

小学1年生の時。1歳年下の弟と庭先で取った写真です。左側が私です。

■ 子供の頃の将来の夢は?
 私は小さな頃から医師になりたいと思っていました。不思議なことに、特にこれといった理由もないのですが、物心がついた頃から、自分は医師になるのだと思うようになっていました。

 私の父はフランス文学者でした。家中本だらけで、アポリネールやボードレール、バロックやらシュールレアリスムといった言葉が飛び交うような家で、親戚も含め医師をしている人は周りに誰もいませんでした。特に体が弱く医師にお世話になったというわけでもありません。それなのになぜか、生まれつき医師になることを決めていたような感じでした。小学生の卒業文集にも将来は医師になると書いています。両親をはじめ、誰かから医師になれなどと一度も言われたこともなく、自分でもとても不思議に思います。風邪くらいでしか病院に行ったことはありませんが、医者にかかるのも嫌いではありませんでした。

 医師になると決めていたためかは分かりませんが、医学的なものにも興味がある子供でした。
京都大学の学園祭では、昔、医学部主催の解剖展が開かれていて、解剖の標本が見られることで大変人気があり行列が出来るほどでした。小学生の頃、私もとにかく解剖展を見に行きたくて、列に並んで見学し、医学部の学生さんに説明してもらったのを覚えています。

 高校生の頃は生物部に入部してショウジョウバエを使った実験をしていました。実際何を実験したのかは忘れてしまいましたが、ショウジョウバエを飼って餌を作って与えてと、世話をしていたことを覚えています。

■ お父様はフランス文学を専門にされていたとのことですが、先生はフランス文学に興味を持つことはありませんでしたか?
父はフランス文学の中でも1600〜1700年代のものなど、フランス人でも読めないほどの古いフランス語を読み研究をしていました。小さな頃は、そのような父の仕事を見て「フランス文学は一体世の中のために何の役に立っているのか」、「趣味の世界に生きているのではないか」などと反発心を抱いたこともありました。「それが何のためになるのか」と実際に父に言ったこともありました。私はずっと医師になりたいと思っていましたので、「人の役にたつ仕事をするべきである」と思っていたからです。しかし、父は「実際に役に立つとか立たないではなく、アカデミックな活動は社会の厚みになるのだ」というようなことをよく言っていました。
今になって父の言葉を考えてみると、確かにそれはとても大切なことである、と思えるようになりました。目の前の利益のみを追求し、その基準からはずれるものには価値を見出さないという傾向が支配しがちな現在の日本では、このような見方にも今一度思いを致すべきではないかと考えています。
 医学の分野に限らず、最近の日本では実用的なベンチャーにつながるような研究には多額の研究費が与えられますが、直接的な利益につながらないような分野は厳しい状態にあります。一方、フランスでは、哲学が一番重要な学問であると聞いたことがあります。私は、父への反発なのか、実践的な職業をめざしましたが、医師になってから基礎的な医学研究の素晴らしさや大切さを知りました。研究は、必ずしも直ちに実用的な効果につながるものばかりではありませんが、医療の発展のためには必要不可欠な分野です。私は、医学分野での理解ですけれど、父の言っていたことがよく分かると、最近思うようになりました。

■ 大学から東京に出てこられて、初めての下宿や東京での生活はいかがでしたか?
 大学に進学するときに、私は東京へ出ました。直ぐ近くに京都大学がありましたが、大学になってまで家から歩いて10分のところに通ってしまったら一生同じ場所で過ごすことになりかねません。これは大変だと思い、京都を逃げ出すために、東京大学に進学しました。また、学部は違いますが父が京都大学で働いていましたので、キャンパスで親と会う可能性のある大学に行くのは嫌だという気持ちもありました。私の家の近所には京大の学生がたくさん下宿していました。当時、学生たちが風呂桶を持って銭湯に行く様子を見たり、父の元によく遊びに来るのを見て、下宿に対する憧れのようなものもありました。

 上京した最初の一年は、西荻窪に住みました。憧れの下宿生活は、それはもう最高でした。下宿生はみんな大学や学部は全く違ったのですが、毎晩遅くまで騒いでいました。寮ではありませんでしたが、みんな部屋のドアを開け放って、それぞれの部屋を行ったり来たりしていました。この頃の友人とは、今でも親しくしています。
 私が下宿したところは、少し変わったところで、もともと病院だったところを下宿にしたものでした。病院を閉鎖した後に、病室を学生に貸し出していましたので、いくら改築したとはいえ、若干、不気味なところがありました。昭和の初め頃に建てられた古い洋館で、立派なつくりでしたが、真ん中に廊下があり両サイドに部屋が並んでいて、病院の名残を十分に残していました。ペンキが塗られた古くて大きな木のドアには真鋳の取手と擦りガラスの窓がはめられていて、重々しい音で閉まるので、かつて病室として使われていたイメージが容易に想像できました。

■ 医学生時代の思い出は?
医学部時代の思い出というと、またピアノの話になります。

 私の学年にたまたまピアノを弾くのが好きな学生が2、3人居ました。これらピアノ好きたちが集まって「東大の中にピアノを弾ける場所ができないか」と考えたのです。そこで、私たちはまず「鉄門ピアノの会」というクラブを立ち上げました(東大医学部は鉄門と呼ばれています)。そして、「鉄門だより」という医学部同窓会の新聞に、「学生が大学でピアノを練習できる場所とピアノを必要としています、ご寄付をお願いしたい」という記事を掲載しました。そうしたところ、先輩方がその思いに応えてくださり、多くのご寄付をいただき、タテ型ではありますが、中古1台と新品1台のピアノを買うことができたのです。大学にお願いして構内にピアノを置く部屋を割り当ててもらい、好きなときに好きな曲を弾くことができるようになりました。五月祭(東大の学園祭)のときにはピアノ喫茶をするなど、さまざまな活動をしました。そして、「鉄門ピアノの会」は私たちの代だけではなく、後輩も入部するようになり、最近でも、私の元に五月祭で行われる演奏会のお知らせが届きます。今でも活発に活動しているようです。

■ ピアノばかりの学生生活だったのですね。
そうかもしれません。私はピアノの会とは別に個人的に、ピアニストの三浦洋一先生に師事していました。残念ながら、昨年亡くなってしまわれましたが、三浦先生にはピアノや音楽のことだけではなく、あらゆることを教えていただきました。途中からは書生のように、ほとんど先生のご自宅に住まわせていただいている感じでした。

 先生のご自宅には大きなピアノが2台もあり、レコードもたくさんありました。三浦先生は演奏会のためしょっちゅう日本中を飛び回っておられましたので、不在のときは好きにピアノを弾いていいし、好きなようにレコードも聴いていいといわれていたので、素晴らしい環境で音楽を学ぶことができました。その代わりに、家事を少しだけ私が引き受けるようにしていました。

 東京で音楽会が行われる時には、かばん持ちとして同行させていただきました。演奏を聴いた後は、よくお食事などに誘っていただき、音楽界の著名な方々のお話しを末席で拝聴する機会を得ました。最初にお話をした畑中良輔先生ともそうした場でお会いできたのです。

 また、三浦先生は海外から来られる著明な声楽家と共演されることが多く、そのような演奏会は、テレビで放送されることがよくありました。一度だけ楽譜めくりをさせていただいた演奏がNHKテレビで放映され、そこに私が映ったことがありました。そのVTRをダビングしていただき、今でも大切にしています。

友人の結婚式で、ピアノ演奏をしました。

■ 先生は血液や生理機能を調べる検査部に所属されていますが、医学部を卒業した後どのような診療科を専門にされたのでしょうか?
実は、最初私は脳外科医でした。

なぜ脳外科医になったのかというと、話は小学生のときまでさかのぼります。小学校から中・高まで同じ学校に通った友人のお父様が脳外科医で、その方は京都大学の脳神経外科の初代教授でした。小学生だった私は脳外科といわれてもまだよくわかりませんでしたが、母親は「脳外科はとても大変な所らしいわよ」とよく言っていました。当時は、日本で脳外科手術が始まったばかりの頃でしたので、実際、壮絶な現場であったのだろうと思います。それを聞いて私は「それなら脳外科医になってみよう」と思ったのです。

 その小学生の時に感じたことがずっと頭にあったこと、そして脳というとても不思議な臓器を手術するということ、さらにその技術はこれから更に発展していくところだろう、という点に魅力を感じていたのだと思います。

そして大学卒業後、私は迷うことなく母校の脳神経外科に入局しました。

医師になって1年目、研修先の医局で。

■ それでは、どのようなことがきっかけで、脳外科医から研究者へと転身したのでしょうか。
 脳外科では素晴らしい指導者に恵まれ、私自身も手術を含めた脳外科の臨床が大好きで、非常に満足な状況でした。東大病院や広尾の日赤医療センター、築地の国立がんセンターなどの脳外科で研修を受け、毎日のように手術の日々でした。そのような日常の中で、ふと思うことが出てきました。

 患者さんの診療をしていて、手術だけでは治らない部分があることを強く感じたところでした。たとえば、脳腫瘍の患者さんがいらして、腫瘍など悪い部分を取り除くことができても、傷ついてしまった脳の働きは決して元に戻らないということです。それが脳という臓器の特殊性です。腫瘍をとっても、脳出血で血液をとっても、壊れた脳までは、従ってその部分の脳が担っていた機能は戻らない、そのことにあらためて気付かされたのです。また、脳腫瘍では、手術だけでは完全に治らない場合もあります。こういったところを、何とかしなければならないのではないかと、強く思うようになったのです。

そのようなことを感じ始めてから、自分は手術をするのではなく、そういった問題点を解決するための研究をしなければと思ったことが、脳外科医から転身する最初のきっかけとなりました。

■ 手術の中から思ったことがきっかけとなったのですね。
具体的に行動をおこしたのは、広尾日赤での研修が終わった後でした。 それまで研究に従事したことはなかったのですが、私の感じた違和感を解決するために、何か基礎的な医学の研究に触れてみたいと思いました。そして当時、急速に発展しつつあった免疫学を学んでみようと考え、東大免疫学教室の多田富雄先生の研究室に入り、実験の手伝いから始めさせていただきました。その後、脳外科医として再び臨床に従事して5年ほどたったとき、多田研究室でご指導いただいた順天堂大学の奥村康先生からイギリスに留学してはどうか、と声をかけていただいたのがきっかけで、海外留学することになりました。

 結局、奥村・多田両先生のご推薦を得て、免疫学で有名な業績を上げておられたロンドン大学University CollegeのMartin Raff先生の研究室にお世話になることになりました。当時、Raff先生は、丁度、研究の方向をスイッチさせて、脳の分化について新しく研究を始めるところでした。私が感じていた欠損した脳を戻すには、脳そのものの再生が必要です。再生させるには脳がどうして出来るのかというのをきっちり調べる必要があると感じていましたので、まさに私が研究したい分野であったのです。

■ イギリスでの研究生活はいかがでしたか?
 最初は2年くらいの予定でしたが、仕事が面白くて結局約4年半をイギリスで過ごしました。ロンドンはとても暮らしやすくてよいところでした。そして、イギリスは研究環境が大変整った国でもあります。

留学1年が経過した頃、運良く私の研究成果が科学雑誌の「ネイチャー」に掲載されました。その成果は、表紙にもなりましたが、イギリスのすごいところはその業績を汲み、サポートしてくれる仕組みがあるところです。その1枚の論文のおかげで、研究を始めて1年たらずの一介の外国人にすぎない私が、その後3年半、研究費と生活費をいただくことができたのです。
 イギリスにウエルカムという世界的に有名な製薬会社がありますが、その会社の利益は全てウエルカムトラストと呼ばれる財団に振り込まれ、その財団を通じて全額、医学の研究に還元されているというのです。正確な数字は覚えていませんが、その総額は、イギリス国家からの研究補助の額と遜色のない規模であったのではないでしょうか。こういうところが、イギリスの底力ではないかと思いました。そのおかげで、私は大変充実した研究生活を送ることが出来ました。

 留学について申し上げますと、脳外科時代に厳しく私を指導してくださった佐々木富雄先生のアドバイスを忠実に守ったおかげで、充実した留学生活を送れたと思っています。佐々木先生は、現在、九州大学の脳神経外科の教授になっておられますが、留学前に「留学をして実験が上手くいかず落ち込む人も多くいるけれど、そんな時は全て実験を止めて、とにかく旅行にでも出かけるんだ」と忠告してくださいました。

 私はその先生の言いつけをしっかり守り、実験に少し行き詰るとひたすら旅行に出かけるようにしました。おかげで、気が付いたらヨーロッパ中をくまなく車で旅していました。とても楽しかったです。けれど楽しいだけではなく、これは、非常に有効でした。思い悩んでいてもだめです。ぱっと忘れてとにかく出かける。そして切り替える。大変いいアドバイスを頂きました。

私の研究成果が表紙になったNatureの本誌です。

■ 帰国後は、どのような道を選ばれたのですか?
帰国後、脳外科の臨床に戻るかとても悩みました。

 イギリスのボスからは、忙しい脳外科医に戻ったら十分に研究ができないだろうから、研究に専念できる環境に身をおいたほうがいいと何度もアドバイスされていました。「脳外科は諦めろ」、「決心したか?」と毎日のように聞かれていました。

しかし、帰国後もまだ私は道を決めかねていました。
 多くの先生を訪ねて、いろいろ相談にのっていただきました。医局の先輩にも話を聞きました。そのような中で、ある会合で、かつて多田富雄先生の研究室で出会った中原一彦先生とお話しする機会がありました。中原先生は、その後、東大病院の検査部の教授を務められましたが、私が帰国した当時、ちょうど杏林大学の検査部教授として赴任されたところでした。

 中原先生に、今後どうしようかと考えているとお話しをしたところ、臨床に近く、なおかつ研究のできる杏林の検査部に来てみないかと声をかけていただいたのです。当時、杏林大学脳神経外科の初代教授を勤められた竹内一夫教授が、杏林の学長をしておられました。竹内先生は私の東大脳外科の大先輩でしたが、竹内先生にも御相談にのっていただき、結局、杏林大学に赴任することになりました。以来、杏林には20年近くお世話になることになったわけです。

 臨床は臨床でとても大切なものです。そして、患者さんの診察を通じて。その中から新たな事実を見出すことは、医学の進歩にとって重要です。しかし、それだけではなく、基礎的な研究も、医学の進歩のためには欠かせません。そのような中で臨床検査という分野は、臨床医学と基礎医学の接点に位置しているのではないかと考えています。そしてまた、医学関連の全ての領域がカバーされる分野です。例えば、私はこれまで、微生物の分野に直接携わった経験はありませんが、検査部にいることで、新たな病原菌を発見する機会にも恵まれました。ちなみに、この細菌は、杏林大学で発見されたことから、杏林菌と命名しました。おかげさまで、とてもよい環境で仕事をさせていただいていると思います。

■ 最後に、杏林大学に思うことを聞かせてください。
  杏林へ来て間がない頃は、まだ若かったということもありますが、自分の周囲のこと、とくに少しでもよい研究環境をつくり、少しでも研究成果をあげるということに必死で、大学全体のことを見渡す余裕はなかったような気がします。けれど、20年いる中で様々な経験をして、大学、医学部、病院が全体としてどのように動いているのかが、少し見えてきたように思います。

 この20年間に、杏林も大きく変わりました。病院を中心に建物も新しくなりましたが、何よりもいろいろな仕組みも見違えるように整備されてきたと思います。

 また最近は、意識の高い優秀な学生が増えています。私は学生さんの授業も担当させていただいていますが、大変うれしいことに、学生の中には、私の研究室へ来て研究の手伝いをさせて欲しいと、自発的に声をかけてくれる学生がいます。でも、そのような声がもっと多くあって欲しいと願っています。私たち教員も、そのような意欲ある学生を喜んで受け入れる用意があるということを、学生たちにもっとアピールする必要があると考えています。



渡邊先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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