病院について当院のドクター紹介

子供の頃、いつでも誰でもどんな病気でも治せるお医者さんになりたいと思っていました。

10月のドクター紹介は、心臓血管外科の窪田 博教授の紹介です。
甲府と横浜で過ごした幼少期や、留学先のフランスでの思い出を伺いました。(2011.10当時)

窪田 博
名前 窪田 博 (くぼた ひろし)
生年月日・血液型 昭和36年11月9日・O型
趣味 音楽/ピアノ:子供の頃にピアノを習っていました。ドビュッシーやショパンが好きで、ドビュッシーのアラベスクは今でも暗譜で弾くことができます。音楽は家族で好きで、妻は歌を子供はバイオリンを弾きます。娘は温泉に行くときもバイオリンを背負っていく程です。
専門 冠動脈疾患、弁膜症、大動脈疾患、肺塞栓症の外科治療、成人先天性心疾患の外科治療、心臓腫瘍の外科治療、不整脈(特に心房細動)の外科治療、その他成人心臓大血管外科治療全般
所属 心臓血管外科  教授
プロフィール 昭和36年 山梨県甲府市に生まれる。昭和61年 筑波大学医学専門学群卒業後、東京大学第2外科系研修医、東京警察病院外科レジデントを経て東京大学胸部外科医局に入局。旭中央病院心臓外科主任医員、クレルモンフェラン大学(フランス)心臓外科高度専門インターン、東京大学心臓外科医局長、講師を経て、平成14年 杏林大学心臓血管外科講師、平成15年 助教授(准教授)、平成23年主任教授に就任し、現在に至る。 <資格等>日本外科学会専門医、指導医、日本心臓血管外科学会専門医、アジア心臓外科学会国際会員、万国外科学会、ヨーロッパ心臓胸部外科学会会員、など

■ 小さな頃はどのようなお子さんでしたか?
 11歳まで山梨県甲府市で育ちました。 小さな頃はとにかく元気な子供でした。近所に仲良し3人組がいて野球や川遊び、サイクリングをしたりと、ただただ遊んでいました。夏になると近所にあった御崎神社には採っても採ってもカブト虫がやってきて、高い所の虫も採れるよう、物干し竿の先に虫取り網を取り付けた自作の道具を作って毎晩虫採りに行きました。
 また、甲府の夜空はそれこそ降るような星空でしたので、高学年になってからは星に夢中になりました。山梨県立文化センターに星の先生がいらして、星座やギリシャ神話のお話をよく伺いに行きました。星の写真を撮るのも好きで、皆既月食の時には月の満ち欠けを1枚の写真に収めることに成功しました。深夜毛布にくるまりながら、露出と絞りを自分で調整して撮影したその写真を、先生はずっと文化センターに飾ってくださりとてもうれしかった思い出があります。
 昔から熱中性気味の所があり、一つのことに夢中になるとそのことばかりしていました。モーターに興味を持った時は、自分でドリルを作って裏の河原で泥を掘ってみたり、家の中にケーブルを引いてケーブルカーを作ってみたりと、そのようなことばかりしていました。あるもので何か面白いモノが作れないかと常に考えている子供でした。父は農林水産省に奉職していたので、転勤に伴い小学6年生からは横浜で過ごしました。

4歳の頃。飼い猫のミーケと。

6年生からは横浜の野毛山で過ごしました。港の夜景が綺麗に見える場所で、近くの野毛山動物園には良く遊びに行きました。

■ 子供の頃の将来の夢は。
 このインタビューを受けるにあたって小学校の文集を読み返したのですが、そこには既に「将来は医師になりたい」と書いてありました。そう思うようになったきっかけは、小学校1年生の頃に読んだ野口英世の伝記が心に残ったことがあります。偶然にも生年月日が自分と同じだったことも重なり医師になりたいと思うようになりました。それから、もう一つの理由は、当時から患者さんのたらいまわし、という言葉がメディアを賑わせていました。これは最近のことのように言われていますが実は私の子供の頃からあったことなのです。そのニュースを見て、「どうして患者さんがいるのにお医者さんは断るんだろう」と子供心に思っていました。今となりましては様々な事情があるとわかりますが、当時は子供心にとても不思議に感じていました。それが強く心に残ったものですから、将来はいつでも誰でもどんな病気でも治せるお医者さんになりたいという夢を、野口英世の伝記を読んだ頃に思いました。

■ 趣味で挙げられたピアノは小さなころから習われていたのですか?
 姉は子供の頃からピアノの道を志望していましたので、私は物心ついたころから常にピアノの音の側で育ちました。その影響で、小学1年生の頃に両親にせがみ姉と同じ先生に習わせてもらいました。最初のレッスンのときは、うれしさと緊張感が入り混じって、学校から走って帰ったのを今でもよく覚えています。音楽は今でも本当に好きですが、当時から音楽の道でやっていくことは厳しい世界だとわかっていました。ピアノは中学2年生まで習い、その後はピアノの経験をもとに様々な音楽活動をしましたが、小さな頃、ピアノの先生に教えていただいた「ガッチリ弾き」はその後の音楽活動に限らず様々な面において役に立っています。 先生はどの曲でもリズムも強さも変えないで、まずは右手を弾いて、次に左手を弾いて、最後に両手で合わせて弾いてと、ガッチリ弾きこんでから曲想を付けていくのだということを叩きこんでくださいました。とても弾けないと思っていた曲でも、ガッチリ弾きで少しずつやっていくと、ある日弾けるようになっているという経験が後にとても大きな影響を与えたように思います。それが今でも、仕事や全てにおいて役に立っています。

9歳の頃の発表会です

 中学ではブラスバンドでコルネットを担当し、高校時代は校歌や合唱部の伴奏を担当しました。 また、大学では音楽部に入部して今度はジャンルを変えて友人とバンドを組み、キーボードを担当しました。月並な話ですが、ビートルズに影響を受けたのが、バンドを始めたきっかけでした。生ピアノ、エレピ(電子ピアノ)、シンセサイザーを曲によって弾き分けていました。作詞作曲をした曲が音楽コンクールで賞をいただきレコードを出させてもらったこともありました。どれもとてもいい思い出です。実は、私以外のメンバーは今でも集まり音楽活動をしています。私は残念ながら行かれなかったのですが、今年もライブをしていました。緊急の仕事が多いので友人と会う約束ができなくなったのが、医師になって辛いと感じることの一つです。

ライブハウスで。
発売されたばかりだったシンセサイザーも自分で買いました

 

■ それでは、学生時代は音楽活動を中心にした生活だったのですね。
 音楽だけでなく、高校からはバレーボール部にも所属しました。ピアノを弾く人は指の怪我をする可能性のあることは極力避けるものですが、私は気にせず、好きな時に好きなことをする、その代り責任は自分で持つという考えでした。バレーボールは、あまり上手ではありませんでしたが、気が遠くなるほどの厳しい練習に耐えたことで根性が養われました。

神奈川県立光陵高校に進学。高校では応援団にも所属しました。

  大学でもバレーボールを続け、キャプテンも務めました。私は筑波大学医学部に進学しましたが、筑波大のバレー部は強いチームで、在籍中に東医体で優勝、準優勝を経験しました。試合で杏林大学の体育館にも何度も来たことがあります。音楽サークルと掛け持ちでしたが、ほぼ毎日練習し合宿にも参加しました。忙しい日々でしたが、予定を組み合わせて充実した生活を送っていました。

昭和59年、東医体で優勝しました。
前列一番右が私です

大学での試合。
スパイクを打っているのが私です

■ 大学を卒業されて専門を選ぶ際、心臓外科を専門にされたのはなぜですか?
 もともと外科には興味があったのですが、6年次の授業で人の心にも興味を持ち精神科に進むことも考えるようになりました。卒業時になっても進路を決めかねていて、学部長に相談したところ「この時期に診療内容が全く異なる2科で悩むのはありえない」と、半ば怒られるように言われてしまいました。最終的に、筑波大学の心臓血管外科で教授を務められていた堀 原一 教授にご相談したところ、東京大学の外科系の研修を受けてはどうかとご紹介いただき、覚悟を決めて筑波大学を出ました。
 東大ではまず、麻酔科、一般外科、小児外科の研修を受け、その後胸部外科(心臓外科)を回りました。その心臓外科の研修を受けた時、出会ったときは重症だった患者さんが、手術を受けて元気な姿で帰られることに大変感動しました。何とも表現できないダイナミックさがあり、それに惹かれて心臓外科を選びました。精神科には進みませんでしたが、人の気持ちや心を考えることは、患者さんやご家族と接する外科においても様々な場合に必要ですので、学んだことは決して無駄ではありませんでした。

外勤に出た東京警察病院で

■ 心臓外科医になり一番心に残っている出来事は。
 卒後5年目頃ですが、ある若年の女性が重傷疾患で入院していました。その方はベンタール手術という難しい手術が予定されていて、手術前に医局でカンファランスをしている際、私が気になる症状について話すとそれを発端に激論の場となりました。結局、途中で私の準備不足が露呈して集中砲火を受け、最後は先輩にフォローしてもらい何とかその場は落ち着いたのですが、外科のカンファランスでは度々そのような場があり、砲火を受けた人は数日立ち直れないほど落ち込むことがあります。私も随分気落ちしました。そのときに、何気なく患者さんのもとへ行き、患者さんの普段の生活や悩み、世間話など治療とまったく関係のない話をしたところ、次第に心が癒されていくのを感じました。カンファランスで話していた難しい話は、その場では全く関係なくて、カンファランスの医学的なことと患者さんとはやはり別だということを改めて感じました。その方を通じて、私は患者さんと病気との接し方を学ばせていただきました。
 また、その患者さんの手術では、初めて第一助手を務めさせてもらい、手術自体もとても上手くいきました。患者さんは無事に退院され、毎年お手紙をいただいているのですが、2年前に無事に仕事を退職されたとのご報告をいただきとてもうれしく思いました。色々な意味ですごく心に残っている方です。

東京大学医局長室、左:浅野憲一教授(故)、右:古瀬彰教授のお写真の前で

■ フランスにご留学されていると伺いました。
 フランスのクレルモンフェラン大学心臓血管外科のリベロール教授のもとに高度専門インターンとして臨床留学をしました。フランスでは大使館で語学などの審査を経て手続きをすれば日本の医師免許が有効でしたので、現地で手術の執刀もさせていただきました(現在は審査が厳しくなり、臨床留学は大変難しくなっています)。
 当時、心臓外科で大変高名なカルパンティエ先生という方がフランスにおられ、先生は独創的な手術手法を多く発表されていました。そのオリジナリティの豊かさに惹かれ、フランスの臨床に興味を持ちました。
 けれど、東大の心臓外科ではそれまでフランスの大学とのパイプがありませんでしたので、受入れ先から自分で探すことになりました。いろいろと調べ20施設に手紙を送ったところ、5件から受入れを快諾する旨の返信がありました。うち2件はなんと高度専門インターンで、ポジションを与えるとの内容でした。給与をいただけるというのは生活しやすいということもありますが、それ以上に私はそれだけ責任が生じると考えます。責任が生じるということは、やるべきことをやれば、やりたいことをとことんやらせてもらえるチャンスがあるということです。現地では、大動脈弁置換、バイパス手術、大動脈手術の術者や、心臓移植の助手もやらせていただきました。移植する心臓をマルセイユまで専用のジェット機で摘出しに行き、マルセイユ空港からはパトカーの先導で病院へ向いました。そしてすぐにクレルモンフェランに戻ると、すでに手術室ではレシピエントの開胸が済ませてあり、すぐに移植手術が始まる・・・そんなこともありました。

リベロール教授と

これは私が最初に携わった手術を終えた後です。指導医の先生やスタッフにお礼の意味を含めて食事会を開きます(日本ではモートルと言います)。ワインの国フランスは、患者さんの病状が許せば病室でもワインが提供されていました。

東京大学高本教授、リベロール教授、妻とノートルダムデュポール教会で

■ クレルモンフェランでの思い出を教えてください。
 クレルモンフェランは、東西を地方自然公園に囲まれたピュイ・ド・ドーム山の麓にある自然豊かな街です。ミネラルウォーターのヴォルビックのラベルに山が描かれていますが、あれがピュイ・ド・ドーム山です。オーベルニュの歌というとても綺麗な声楽の歌があるのですが、それを聞くとそのままの景色が思い出されます。いま思うと、子供の頃に過ごした甲府に良く似ていた気がします。
 ヨーロッパの深い文化に触れられたことは、家族にとっても良い経験でした。特に、フランス歌曲が好きな家内は現地のピアニストとよくコンサートをしていました。帰国前のお別れの演奏会では、留学という素晴らしい夢の終わりに、という意味を込めて、教会で妻がフォーレの「夢のあとに」を歌い私が伴奏をしました。留学のお蔭で価値観や生き方が変わり、本当によい経験でした。

ピュイドドーム山の夕日のシルエット。(ヴォルビックのラベルとよく似ています。)とても美しい景色です。

娘と、シュノンソー城の前で。

クレルモンフェランの街並み。

■ 先生が杏林大学に思うことは。
 最初に杏林大学へ来たときはまだ古い病棟の時代でしたが、今や病棟のみならずICUや手術室まで新しくなりました。特にICUのレイアウトは医療者に使い易い工夫がされていて、とても良い環境です。シンプルなようで、しかし必要なものが揃っていて無駄がない、日本一の設備じゃないかと思います。
 また、スタッフの方々は温かくて、みんな明るく楽しく仕事をしていると感じます。横の連携が非常によくて、アットホームで、チームワークで大学を盛り上げていきたいという気合を感じます。
それに関連すると思うのですが、循環器内科と心臓血管外科で診療を行う急性大動脈解離の件数は、2010年下半期48件で、これはなんと東京都で第2に多い件数となります。
 この疾患は、まず循環器内科で患者さんを診察し、手術が必要となった患者さんは心臓血管外科で手術することになります。これは内科・外科が力を合わせた結果です。また、急性大動脈真性瘤の症例も都下2位の数を誇っており、当院は東京都CCU急性大動脈スーパーネットワークにおける緊急大動脈重点病院としての重責を担っています。これからも診療科の枠を超えて力を合わせて努力していきたいと思っています。

■ 最後になりますが、患者さんへのメッセージをお願いします。
 手術を受けるのは不安なことだと思います。ましてや心臓や血管にメスが入るのは、説明を受けてすぐに納得できることではないと思います。手術を受けるという決断に、我々は敬意を払います。 特に心臓外科は高いリスクと背中合わせです。我々は、できるだけの情報をありのままにお出しして、患者さんに理解していただくことに努めています。また、患者さんとご家族も、医師としっかりと向かい合って良い医療を共に作り上げるよう協力していただきたいと思います。



座右の銘

あるがままに

自分に言い聞かしている言葉です。例えば「見たこともない病気」が初めて自分の前に立ちはだかった時、それを自分の持っている知識で解決しようとすると、そう思った時点で「見たこともない病気」はどこかに行ってしまいます。素直にあるがままを受け入れる気持ちがあると、そこから新しい発見や場合よっては新しい病気が見つかるかもしれません。先入観を持たず、いつもニュートラルの心を持っていないとそのようなきっかけを失ってしまいます。また、何かの判断に迷った時も、原点に立ち返り雑念や無駄なことを排除していくと、意外に簡単に結論が出るものです。



窪田先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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