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当院のドクター紹介

人の役に立てるということは、お金には代えられない、自分のモチベーションになります。

今月のドクター紹介は、呼吸器・甲状腺外科の近藤晴彦教授の紹介です。
杏林へ赴任して半年の近藤教授に、これまでの経歴や当院の印象などを伺いました。

近藤 晴彦
名前 近藤 晴彦 (こんどう はるひこ)
血液型 AB型
趣味 尺八:最近本格的に習い始めました。
音楽:クラシックやジャズ、ポピュラー等、何でも聞きますが演歌はやや苦手です。
読書:最近は仕事に繋がるかなと思って新書を読んでいますが、昔は純文学やSF小説などを読んでいて、アイザック・アシモフが好きでした。
専門 胸部腫瘍学(肺がん)
所属 呼吸器・甲状腺外科 教授
プロフィール 昭和31年 大阪府大阪市に生まれる
昭和56年 東京大学医学部医学科卒業
昭和56年 東京大学医学部附属病院 第2外科系研修医
昭和57年 社会福祉法人三井記念病院外科レジデント
昭和61年 東京大学医学部附属病院胸部外科医員
昭和62年 国立がんセンター病院肺外科
平成14年 静岡県立静岡がんセンター呼吸器外科部長
平成24年4月 杏林大学医学部外科学 教授


■ 出身地や子供の頃のことを教えてください。
 出身は大阪市です。大阪市といっても私が住んでいたところは下町で、今は住宅街になっていますが、当時は工場が多く、工業地帯でした。小学校は都会の方にあって、愛日小学校という学校に通っていました。淀屋橋というところにあったのですが、元々なにわ商人の町でしたが、今はビル街になってしまい、母校も廃校になってしまいました。放課後は学校の近くで友だちと遊んだり、親友と一緒にカビを生やして顕微鏡で覗いてみたりしていました。どちらかと言うと走り回って遊ぶというより、本を読んだり、何かを観察したり、おとなしい感じでした。人前に出て話したりするのが好きではなくシャイだったのですが、小学生の頃、友人に「児童会長に立候補しろ」と言われて、「嫌だ」と言ったら「意気地なし」と返されて、カチンときた勢いで立候補してしまったということがありました。まんまと友人に乗せられてしまいました。

このベレー帽は気に入っていて、よくかぶっていたようです。(1歳8ヶ月)

正月に伊丹飛行場(?)で。(8歳)

■ 中学・高校生時代の思い出を教えてください。
 私は中学受験をして私立の中学校に入学しました。あまり受験したくなかったのですが、親友が受験すると言うので、じゃあ僕もという感じで受験しました。実は消化器・一般外科の正木忠彦教授と中学校から大学まで一緒でした。まさか同じところで仕事をするとは思ってもいませんでした。
 中・高生の時はバドミントン部に所属していて、熱心に取り組んでいました。中学生の時には神戸市の大会で2位になったことがあります。ただ参加人数も少なかったので本当に強かったかどうかはわかりません。部活の友人とは仲が良くて、今でもしょっちゅう会っています。

高校の修学旅行で九州へ行きました。前列左が私です。

バドミントン部の試合。甲南高校と対戦しました。

■ 先生は東京大学出身ですね。学生時代の一番の思い出は何ですか?
 大学の思い出と言えばやはり部活動ですね。サッカー部が月・金曜日、バドミントン部が火・木曜日、社会人バドミントン部にも水曜日時々参加したりと、ほとんど毎日スポーツをしていた時期もありました。さすがにサッカーとバドミントンの両方を続けるのは大変でしたので、サッカー部は4 年生の途中でやめて、バドミントン1本にしました。部活動は5年生までだったのですが、それ以降も練習に顔を出していました。医学部のバドミントン部は入学当初に入っていた全学のバドミントン部と比べてかなり緩かったので、私がキャプテンの時に「もう少し体育会系にしよう!」と言ってがらっと変えたんです。トレーニングをきつくしたり、勝負にこだわるようにしたりしました。東日本医科学生総合体育大会も参加しましたが、あまり自慢できるような成績は残せませんでした。
 勉強はあんまりしませんでした。外科医になろうと決めていたので、外科は卒業したらやるからその時に勉強すればいいやと思ってあまりしなかったし、それ以外は落第しない程度に勉強していました。

北アルプス・唐松岳に登山に行きました。(1975年、大学1年生)

■ 医師になろうと思ったきっかけは何ですか?
 大学を受験した時は基礎系の研究者になりたいと思っていました。臨床系に変わったきっかけの一つは父親が病気をしたことです。胸部外科にかかっていましたが、担当している患者の息子が医学部に入っているということで、主治医が説明というか、いろいろ教えてくれました。不勉強でも親の病気のことくらい勉強しようと思いますよね。その時に病院の先生とお話して、だんだん自分が臨床に向いているということに気づき始めました。研究で不特定多数の人に貢献するより、目の前にいる人を助けられる人間になりたい、というふうにだんだん気持ちが変わっていきました。

■ 今の専門を選んだ理由や卒業してからの経歴を教えてください。
 親が心臓病だったので最初は心臓外科医になりたいと思っていました。それが少しずつ呼吸器外科の方に興味が向き始めました。当時、東大は胸部外科といって、心臓と呼吸器が同じ診療科だったんです。
 大学を卒業してから三井記念病院という病院で外科のレジデントをしていました。心臓の手術を多くしている病院で、最初は心臓の勉強がしたいと思って研修していました。そこで私に初めて肺がん手術の指導をしてくれたのが呉屋朝幸先生(現・当院呼吸器・甲状腺外科教授)で、当時、呉屋先生は国立がんセンターで肺がん手術の勉強をして三井記念病院へ戻ってきたばかりでした。呉屋先生にご指導頂いて、肺の手術も面白いなと思いました。手術はどれも難しいですが、心臓の手術は人工心肺を回して、ダイナミックに血管を切ったりしますが、肺はそういうものを使わないで大きな血管を切らなければなりません。上手にできた時の達成感というのもあります。

 三井記念病院には4年間くらい在籍していて、その後、東京大学の胸部外科の医局に戻りました。東大の胸部外科は心臓がメインでしたが、私は肺を専門でやりたいと希望していました。大学に戻って1年ほど経ったある日、当時、国立がんセンターに勤務していた呉屋先生から、チーフレジデントとしてこちらに来ないかと声をかけていただきました。国立がんセンターは肺の手術件数も多いし、いろんな経験ができると思って、大学を飛び出して行くことにしました。ずっとやりたいと思っていた肺の勉強ができ、充実した日々を過ごしていて、1年間のつもりが気がついたら15年間も在籍していました。

市川平三郎先生(前列左から2人目)と。市川先生は当時、国立がんセンターの院長をされておられ、我々レジデントの面倒もよく見て下さいました。前列右端が私です。(1989年)

 このままずっと国立がんセンターにいてもいいかなと思っていたのですが、今からちょうど10年前に静岡がんセンターという新しい病院を作るので、立ち上げの準備から一緒にやらないかと病院長になられる鳶巣賢一先生から声をかけていただきました。新しい病院を一から作るというのは大変でしたが、とてもやりがいがありました。医師だけでなく、看護師や技師、事務の人たちと一緒に、患者さんのために一番いい方法はどれか、どのようなシステムを作ればよいかなど、毎日議論しながら準備を進めました。最新の医療設備や電子カルテを導入したり、本当に大変でしたが、とてもやりがいがあって面白かったです。

私の肺外科の恩師である末舛恵一先生(元国立がんセンター総長)と。(2003年、胸骨正中切開による肺癌手術の研究会で)

スペイン・テラッサで開催された国際肺癌ワークショップにて。前列左が私で、一番右は成毛韶夫先生、後列左から3人目(女性の後ろ)は呉屋先生です。(2003年)

三井記念病院レジデント時代からお世話になっている、私の外科医としての師である大谷五良先生(真ん中)の米寿の会にて。(2008年)

■ 先生は海外で研修をされていますが、行ってみていかがでしたか?
 国立がんセンターにいる時に、研究者を海外に派遣して研修させるというプロジェクトがあって、3ヶ月くらい研修に行きました。主にアメリカとドイツの病院で研修させていただきました。それに親友がスペインにいたので、ドイツに行く前に1週間くらい滞在しました。海外研修に行って、医療は国によって随分違うということが分かりましたし、日本の肺がんの手術は素晴らしいということも分かりました。医療のシステムも日本と海外の比較ができました。そういう意味で、世界的に見て日本の医療がどれくらいのレベルで、どんな位置にあるのか、よく分かりました。それに、世界的に優れた医師と知り合いになったりして人とのつながりも生まれました。すごくいい経験でした。長期間留学したら英語も流暢になって物怖じしなくなるのかもしれませんが、英語がペラペラしゃべれるかどうかが問題なのではなく、何をしゃべるかが重要であって、話の内容を持っているかどうかだと思います。もちろん英会話力はあった方がいいですが、目的として日本の立ち位置がわかる、視野が広くなる、というのが一番大きいのではないかと思います。

■ 杏林大学に赴任されたきっかけは何ですか?
 これもまたきっかけは呉屋先生なのです。ずっと単身赴任で静岡にいて、週末は東京の家に帰る生活を送っていたのですが、母親の体調が良くなくて杏林大学病院にお世話になることになったんです。それで家族に近いところで仕事ができた方がいいなと思っていたところ、呉屋先生から杏林で一緒に仕事をしないかと声をかけていただいたのです。私の人生のターニングポイントには呉屋先生が関与していることが多いですね。杏林大学病院には患者家族としてよく足を運んでいたので、病棟の様子や看護師さんや職員の雰囲気、地下の迷路みたいな建物もよくわかっていました。すごく明るくていいなという印象を受けていましたので、話がぽんぽんと進みました。

■ 先生から見て杏林大学病院はどのような印象ですか?
 赴任して半年ですが、例えばエレベーターなどで患者さんと一緒になった時や職員同士でも、みんな挨拶をしているところに非常にいい印象を持っています。病院全体の雰囲気がとてもいいと思います。医療はチームでやらなければなりません。患者さんもいろんな病気が多いから、ひとつの科で全部を診療できるわけではありません。それぞれの専門の人がその視点から患者さんを診て、主治医がそれをうまく舵取りする、というチーム医療が一番大事だと思うんですね。杏林ではこれからもチーム医療がどんどん広まっていくと思います。いろんな専門職が知恵を出し合っていくことが重要ですからね。
 静岡がんセンターは立ち上げからチーム医療を徹底していこうと決めていたので、とりわけチーム医療の意識が強いんですね。杏林でもさらにもっとチーム医療を推進できると思います。そういうことを含めて、これからの私の仕事なんだろうなと思います。あまり大それたことは言えませんが、この10年、一貫して進めてきたことなので力を入れていきたいと思います。チーム医療は知恵の出し合いの積み重ねだと思います。いいシステムは自然発生的にはできません。皆で協力して、患者さんを通じてよいシステムを作り上げていくことが大切だと思います。

■ 医師になって困ったことや嬉しかったことは何ですか?
 困ったことは何もないですね。やりがいがありますし、人の役に立てるというのはお金には代えられない、自分のモチベーションになります。仕事すればするほどそう思えるというのは嬉しいことですね。それにやっぱり患者さんの病気が良くなって喜ばれるというのが一番嬉しいですね。

■ 先生の趣味の尺八について教えてください。
 ピアノが子供の頃からずっと好きだったのですが、他の楽器で渋いものに挑戦したいなと探していたんです。それで尺八にたどり着きました。尺八については全く知識もないし難しいとは思ったのですが、とりあえず使ってみないとわからないと思って、展示即売会に行きました。そこでお店の方に「何をやりたいのですか?」と聞かれたのですが、特に深く考えずに買いに来たので「さあ?」という感じでした。「吹き方を教えてもらって練習したらできるようになりますか?」と聞いたのですが、「そんなの絶対に無理です」と言われてしまいました。それでもプロの尺八奏者の方に安くて良さそうなものを選んでもらって、吹き方を教えていただきました。とりあえず音を出す練習だけでも続けようと、1年半くらい練習しました。そしてついに今年の5月に師匠に弟子入りしまして、値段も高いちゃんとした良い尺八も買いました。虚無僧(こむそう)尺八をやろうと練習しています。まだ人にお聞かせできるほどではありませんが。

尺八の練習中。メリハリ(めり・かり)というのは尺八用語ですが、初心者の私には、まだまだメリハリのある演奏は難しいです。

■ 患者さんへメッセージをお願いします。
 分からないことはなんでも聞いてください。分かるまで、納得できるまで聞いてもらいたいと思います。そこから信頼関係ができてきますから。患者さんの中には遠慮して病気のことや今後のことを聞けない人もいるし、医師の中には何でも聞いてください、という態度で接しない人がいることも確かです。これでは信頼関係を構築することは難しいですね。患者さんは信頼できない人に体を預けることはできないと思います。



座右の銘

一期一会

 ご縁はその都度その都度大事にして、人にあこぎなことをする奴だなどと思われることのないように生きていきたいと思います。
 「人間至る処青山有り(じんかん、いたるところせいざんあり)」とか「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」なんていう言葉も好きです。



近藤先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

取材担当
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