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私の『使える英語』 和光真理江

近年、多くの英会話教室が「使える英会話」を身に付けることを宣伝している。大学受験において必要とされる、細かい英文法などに対する批判が社会一般にある。しかし彼らの主張する「使える英語」とは一体どの様な英語なのだろうか。私にとって「使える英語」とはさまざまな意味を持つ。

実は私は帰国子女である。六歳から八歳の二年間をカリフォルニアで、高校の一年間をニューヨークで過ごした。

初めてアメリカに行った時、私は殆ど英語を話せず、現地校での授業の内容はおろか、友達との会話すら全く分からなかった。お喋りな私が一言も話せなかった為、悔しくてたまらず、毎日夜遅くまで母と共に英語を勉強した。その為一年目の末には、日常会話や授業が全て分かるくらい英語が話せる様になった。私は子供ながらに非常に嬉しかった。退屈だった毎日の授業が理解出来る様になり、友達が沢山作れたのだから。

しかし私の英語との闘いはその二年間で終わる様なものではなかった。子供は英語を覚えるのも早いが、忘れるのも早いと一般的に言われていた。私は、苦労して覚えた英語をそう簡単に忘れるわけにはいかなかった。将来きっと英語は「使える」と信じ、CWAJが開催していた帰国子女用のサークルに参加したり、学校の提供する英語教室に通ったりした。日本では英語を話せる機会が少なかった為、このような機会は私にとって楽しい一時であった。

それのみならず、出来るだけテレビは英語の番組を見て、音楽は全て洋楽を聴いた。

中学において私の学校は週に五回英語のクラスを設けていた。そこでは、私の知らない、いわゆる「受験英語」というジャンルの英語が待ち構えていた。学校の英語は難しい語彙や正しい文法、塾では英作文や英文和訳の連続であった。英語を得意とする私でもくじけそうになったある日、とある先生がこのようにいった。

「最近、『使える英会話』が賞賛され、受験英語が蔑ろにされていますが、あの『使える英会話』とは海外旅行でちょっと使える様なものですよ。君達、そんな英語が使いたいわけじゃないでしょう。実際国際社会にでた時に使える英語はあんなに甘いものではない。だからくじけずがんばりなさい。」

私はその言葉に感動した。なぜなら私が今まで得意としていたのは海外旅行や友達との会話ごときの簡単な「使える英語」だったのだ。国際社会にでた時、文法的な誤りのある言葉でプレゼンテーションをする人に、一目置く人はいないだろう。英語は話せるが、その英語を正しい日本語に訳せない人をどうして会社が雇いたくなるだろうか。

そういわれた次の一年間を私は、再びアメリカで過ごした。日常会話ができることはとても便利で、友達もすぐ作ることができた。しかしそれ以上に、高校生活で必要だったのは、中学の英語勉強で学んだ英語の読解力、単語力、そして正しい文法だった。やはりアメリカの高校でも上級のクラスを受講するには、日本でいう受験英語のような難易度の高い英語を読み書きできる能力が要求された。その時私は身をもって実感したのだ。結局自分が一目置ける人間であると、国際社会で認められるには、一見使えない様に思われる、細かすぎるほど正確な英語が必要なのだと。

しかし、いわゆる「受験英語」が持つ短所はなんであろう。確かに英会話教室が主張するように、あまり話す能力を養成しないのだ。それでは世界の人々と会話をする事も出来なく、自分が対応する人々の言葉を聞き取る事も出来ないではないか。だから私は受験英語も英会話教室の英語も両方同じくらい必要であり、どちらかが少しでもかけてしまえば、それこそ、使えない無駄な英語になってしまうと思う。

従って私は今、正確な英作文と和訳を学ぶ一方で、正しい話し方と発音も維持しようとしている。また、自ら洋画をみて、洋楽を聴き、タイムなどの雑誌を読み、近代頻繁に使われる英語をも学ぼうとしている。

現代の日本人に必要なのは、自分にとって「使える英語」とは何かを見極める力であると思う。私は国際関係に興味があるのだが、そのような職業につくには、正しい英語を読む事、書く事、話す事の全てが必要とされると思う。その証拠に、新渡戸稲造や緒方貞子の英語は驚くほど正確で美しいし、彼等の日本語も同じくらい素晴らしい。私は彼等の様な職に就きたいから、彼等が獲得した様な英語を勉強しているのだ。それはただ文を読み、書くだけでもなく、流暢な英語が話せるだけでもなく、両方出来る様になることである。それが私の「使える英語」だ。

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