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小学校での英語教育について 河野淳一

現在高校一年生の私達こそ、公立小学校で英語の授業を受けた初めの世代らしい。本格的な英語学習は無論中学生からだったが、小学生の頃外国人のゲストティーチャーがやって来て、「お楽しみ会」のように歌やゲームで遊んだ記憶がある。八才違いで小学二年生の弟は英語の授業も盛んらしく、appleだのorangeだのを本格的な発音をしては自慢気だ。複数形のsについてまで講釈たれる程だから授業内容もはるかに充実しているのだろう。

調べてみると、小学校の英語教育は二〇〇二年に導入された『総合的な学習の時間』の中で認められ、現在九割以上の小学校で実施されている。グローバル化が進む21世紀は、様々な分野で世界的に活躍する日本人が増えると同時に、外国から日本への移住者も増えるだろうと予測される。そのため国際理解教育の一環として英語教育が重要だと考えられたのだろう。今や「小学生から英語」はごく当たり前になっている。

英語の修得に関して、英語教育の開始を中学から小学校に前倒しすることには多くのメリットがある。第一に、中学での本格的な英語学習の前に「楽しい英語学習」を体験することで、中学英語への拒否反応が減ることだ。既にあったとはいえごく僅かな回数しか小学校で英語を習っていない私は、中学で大いに戸惑い、独特な発音や抑揚に得も言われぬ嫌悪を覚えた。はっきり言おう。高校生になった今でも英語は苦手だ。第二のメリットは、英語の音に敏感になることだ。例えば楽器の演奏家は幼少から音楽に親しむ環境にあることが多い。その環境下で彼等は聴力を鍛え、音楽的センスを磨く。聴覚に関して、年齢が低いことが有利に働くのは間違いない。第三に英語でコミュニケーションする楽しさを覚えることだ。小学英語は音声指導に重点を置き、ゲーム等を取り入れて会話を楽しむ学習形態である。日本人が苦手な英会話を克服するのに役立ちそうだ。

が、こうしてメリットを挙げながらも私には心に引っかかることがある。総合学習の導入期だったのだろう、小学生の私達は学校の裏庭の片隅にビオトープを作った。池を掘り魚を放し、草木を植え虫達が棲みつくのを待った。卒業する頃迄にはトンボやカマキリの産卵に出合うこともできた。ところが、同じ小学校に通う弟はそのビオトープを知らない。今はもう池も埋められ跡形もなくなってしまったのだ。推測だが、僕達のビオトープは弟達の英語にすり替えられたのだろう。勿論、仕方ないことなのだ、授業時間は無限ではないのだから。

僕の小さなわだかまりを後押しするかのように、小学校では英語より先に学ぶべきものが他にあるのではないかという議論も多い。藤原正彦氏は『国家の品格』(二〇〇五、新潮社)の中で、真の国際人になるため日本人に必要なのは国語教育であり、日本の歴史・伝統文化、活字・読書文化を復活せよと述べた。更に公立小学校で英語の修得に時間を費すことは無駄どころか有害だと言い切っている。表現する手段でしかない英語よりも、まず表現する内容の充実に学校は取り組めというわけだ。藤原氏に限らず、最近英語よりも国語教育の徹底をと主張する有識者が多いようだ。

確かに英語は表現の手段である。しかし、学校の英語教育が、手段の修得でしかないとは僕には思えない。特に小学校においては、それ以外のところにこそ大きな意味があるように思える。

「センス」という言葉がある。「音楽センス」や「野球センス」というのと同様に、21世紀にあるべき国際人にも「センス」があると思うのだ。世界を知識だけで理解するのではなく、この情緒的な感性を磨くことが実はとても大事なのではないだろうか。そのために、異言語・異文化の象徴である英語を目に見えるところに、手の届くところに置いてやるようなやり方で学習させるのは効果的だ。これは幼い小学生だからこそだ。その意味で、小学校での英語教育が果たす役割はとても大きいに違いない。

残念ながら、しかし当然ながら、小学校の授業は時間的に有限であるから、「英語ではなく国語や日本の歴史・文化を」といった選択の議論がおこる。しかし、国際人として豊かなセンスを育むことは、国語や日本史などの深い理解をも導くに違いない。今後は「英語か他の何か」ではなく「英語と他の何に取り組むか」という議論に移行するべきだ。その候補に、私の心のビオトープも入れてもらえるとうれしいのだが。

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