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第4回論文部門「メールの日本語」講評 教授 金田一秀穂

 私たちが、何かコミュニケーションをしようと思うと、その言葉だけでなく、伝わってしまうものがある。例えば、その言葉を誰が発したのか、ということが、否応なしに伝わってしまう。

 会っていれば、当然分かる。会っていなくても、その声で分かってしまう。振り込め詐欺のように、巧妙に仕組まれていれば、分からないもののようであるけれど、しかし、冷静な判断力があれば、声はその人と結びついていて、当人を特定できる。

 手紙は、その筆跡で分かってしまう。書かれた文字から、誰が書いたのか、知ることが出来る。

 さらに、誰かということを越えて、その人がどんな気持ちでその言葉を伝えているかが分かってしまう。声の調子や筆跡の乱れなどで、はっきりと言えないけれど、気分のようなものが伝わってくる。嬉しそうだとか、真面目なのだとか、怒っているのだとか、そのようなことが、言葉にかぶさって伝わってくる。

 人間が行ってきた伝統的な言葉の伝え合いでは、こうした、言葉以外のものが常に含まれていた。伝わるのは言葉の意味だけではなかった。しかし、人はいろいろなものを作り出してきて、便利になったのはいいのだが、本来的に伝わっていたものが、少しずつ消えていった。

 まず、文字が出来て、誰が、という部分が、はっきりしなくなった。手紙を使うようになって、それが何時発せられた言葉なのかが、わかりにくくなった。電話によって、振り込め詐欺が可能になった。そうして、メールの普及である。

 メールでもっとも困るのは、しかし、その匿名性なのである。誰からの言葉なのかが、特定できにくい。声の個性がない。文字に現れるほどの微妙な個性さえ、メールの活字上ではいっさい読めない。ゴシックの電気が並んでいるだけである。

 しかも、活字なので、伝わるのは言葉の意味だけで、その言葉が発せられたときの発信者の気分はすべて捨象されている。受信者は、その文字面を見るだけで、判断しなければならない。顔文字もないので、「気分」も伝わらない。

 そのようなことを考えさせてもらった。感謝。

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