大学ホーム外国語学部一般の方論文・翻訳コンテスト第4回論文「映画の魅力、本の魅力」

論文・翻訳コンテスト

映画の魅力、本の魅力 久山 貴暉

 本の魅力は「ミステリー性」、映画の魅力は「臨場感+ミステリー性」。簡潔に自分はそう考えている。なぜ本の魅力と映画の魅力に重なるものがあるのかと言うと、私は映画の元をただせば本であると考えているからである。
 よく耳にする本の魅力というのは「世界を自由に想像できる」だ。実際、私も本を読んでいてそう思う。映像がなく文字だけという、閑静な印象を受けるが、そうではない。逆に想像=創造できる世界は、何にも縛られることなく、いくらでも広がっていく。日本語の書き言葉には平仮名やカタカナ、漢字の三つがある。それぞれに印象の柔らかさや硬さ、緊迫感に違いがある。平仮名の中にも一つ一つに微妙な違いがある。以上の言葉がつながり合ってあらゆる単語・熟語をなし、それらがまた一つとなって文章となる。このことを頭において、伝えたいことを言い表すのにたくさんの表現方法の中から一つを選び出す。この連続で本が出来上がっていく。作者の伝えたいことはこの様にして形作られ、本という完成品となる。これからは作者の伝えたいことを作者の「メッセージ」と呼ぶ。
 私は元から読書は好きだった。しかし、小・中学生の頃はまだ文字を読むだけで作者の意図や文体の変化、文章の傾向など細かい事はほとんど気にしていなかった。けれど高校入学後、国語の「羅生門」の授業で本の本当の魅力を知った。文章中に施された言葉の仕掛けに、そこかしこに散りばめられた心象風景。この時、作者の計り知れない「メッセージ」に初めて触れた。例えばキリギリスであったり烏であったり、時には主人公の癖であったり・・・。作者の人生や書かれた頃の時代背景も「メッセージ」に近づく大きなヒントとなる。無駄なものが何一つ無く、全てが本の部品でありかつ想像の材料なのだ。いわば、本自体が精密機械なのである。ここで、私が始めに言っていた本の魅力である「ミステリー性」を理解してもらいたい。先程書いたように、本の文章の中には推理ドラマのようなヒントが、作者の手によって言葉という形で巧妙に隠されている。つまり本の中には、作者が読者に「メッセージ」を読み取ってもらうために仕組んだヒントがあちこちに書かれているのだ。しかも、本は読んだ時の読者の感情・環境・年齢により読み取る「メッセージ」も大きく異なってくる。これも本の魅力の一つだと言えよう。
 しかし、文字だけではどうしても想像できない世界に「メッセージ」が隠されていることもあるだろう。その様な時に読者を導いてくれるのが映画ではないだろうか。本はあらゆるとらえ方ができるのに対し、映画はある程度縛られたとらえ方しかできない。けれど映画というのは本とは異なり、ヒントが言葉と絵で表現されている。ここに、本と映画の違いがある。映画は、作者が鑑賞者に伝えたいことのヒントを文字から絵に変換して表現しているのがほとんどなのだ。他にも、文字では言い表せない微妙な「雰囲気・緊張感・情景の変化」を見事に表してくれる。これが映画独特の臨場感を醸し出している。元々映画は、原本の作者と映像を撮る監督が作るものである。本では文字のヒントだけで、読者は「メッセージ」を読み取らなければいけない。しかし映画の場合は、作者のヒントを監督が自分なりの絵に置き換えたヒントで鑑賞者が「メッセージ」を読み取る。だから、本とは違ったヒントで作者の「メッセージ」を伝えるのが映画だと思う。最近はアクションやスケールの大きな映画が多いが、どれも元はと言えば文字の書き込まれた本(原本)から始まったものなのだ。つまり、映画は文字が絵になり、より臨場感が加わった〈本〉なのだ。少し違うのは、本と映画では働かせる感覚が異なるということだ。分かりやすく言うと、本は文字を読むための視覚、映画は音声と映像を読み取るための聴覚と視覚を働かせるという点である。
 今まで長々と自分の思うことを書いてきたが、言いたいことはただ一つ。本も映画も、文字や映像から作者の「メッセージ」を読み取ることができれば、すなわち「ミステリー性」を実感することができれば、十二分に堪能できるということだ。ただし、これは勉強ではないのだから、どんな結論に至ったとしても、その「メッセージ」はそれぞれの読者だけが持つ宝だということは覚えておいてほしい。
 最近は漫画や小説を基にして映画を作る傾向がある。何でもかんでも本を映画化したらいいというものではないと思う。本として出版されたものには本であるべき理由がある。本でないと「メッセージ」が伝わらない理由がある。だから、本として世に出てきたからには本としての存在理由があり、映画なら映画でないと読者には伝わらないものがきっとあるはずなのだ。

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