大学ホーム外国語学部一般の方論文・翻訳コンテスト第4回中国語課題 → 日本語

論文・翻訳コンテスト

中国語課題 → 日本語訳 葉 ヨ

 15年前のことであるが、当時私は生粋の農民として、東北の高密という村のやせた田畑で労働に励んでおり、その田畑を非常に恨んでいた。その田畑は私の先祖の人々の血や汗を吸い上げ、私の命までも消耗させてきたからだ。私たちは天に背を向け、黒い田畑と向き合い、一生懸命働いても得るものはほんのわずかだった。私たちは夏には酷暑の中でもがき、冬には厳寒の中で震えた。目に入るものすべてが嫌だった。低くぼろぼろの草ぶき屋根の家、干上がった川の流れ、狡猾な村の幹部…そのころ私は、もしもこの土地を離れることがあれば、二度と戻ってはこないだろうと思っていた。だから、兵士たちを運ぶトラックに乗ることになり、いっしょに軍隊に入る若者たちが涙を流して見送る者たちに別れを惜しんでいたとき、私はふり返りもしなかった。鳥が鳥かごから飛び出して行くように感じ、あそこには捨てられないものは何もないのだと思った。トラックができるだけ早くそして遠くへ行けばいい、地の果てへでも行ってしまえばいいと思った。だからトラックが高密から150キロの兵営地で止まり、連隊長が目的地に着いたぞと言ったときはとてもがっかりした。しかし、3年後に再び故郷の田畑を踏みしめながら歩いたときに、私はとても感情が高ぶっていた。土ぼこりにまみれて目を赤くはらした母が麦打ち場から纏足の足をひきずりながら私を迎えに出てきてくれたときは、熱いものがこみあげて顔中涙だらけになった。そのとき、故郷から人は離れられないのだと感じた。生まれ育ち、先祖たちの魂も骨も埋まっているその田畑を、愛そうが恨もうが逃れることはできないのだ。

 1980年、私は文学を創作し始めた。書き始めたときは海の中の島を舞台にした小説を書くつもりだったが、頭の中に浮かぶのは、みな故郷の場面だった。故郷の土地、故郷の川、故郷の作物である大豆とか高粱とかなのだ。耳元で聞こえるのは故郷の方言で、目の前で動くのは故郷の人々だ。そのころ、私は小説を書くときに故郷の記憶から絶えず養分をもらっているのだとはっきりと意識していなかった。数年間はずっと故郷を避けて、波とか山々とか兵営とかのことを書いていた。しかし、実は知らず知らずのうちに少しずつ故郷のことを書いていたのだ。1984年の冬になり、「白い犬とブランコ」という題の小説の中で、初めて「東北の高密村」という文字を書いて、初めてこれは故郷なのだと意識したのだった。

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