病院について当院のドクター紹介

ただ治療するだけではない。生活拡大につながるケアを大切にしています。

ドクター紹介の10人目は、日本の大学病院では初となるアイセンターの立ち上げに尽力した平形 明人教授の紹介です。(2008年12月当時)

平形 明人
名前 平形 明人 (ひらかた あきと)
年齢・血液型 52歳(昭和31年7月6日生まれ)・B型
趣味 スポーツ(特にテニス、剣道)
専門 網膜硝子体疾患
外来日 火曜日の午前・午後
金曜日の午後(糖尿病網膜症特殊外来<完全予約制>)
所属 眼科(アイセンター)教授
プロフィール 1956年群馬県渋川市に生まれる。
1982年慶應義塾大学医学部卒業後、慶應義塾大学病院、国立東京第2病院、国立栃木病院(医長)などを経て、米国Duke大学アイセンターに留学、1992年杏林大学医学部講師、1997年助教授、2005年教授、2008年主任教授となる。また、日本眼科学会評議員、日本網膜硝子体学会理事などを務める。

小さな頃は、どのように過ごされていましたか?
 生まれは群馬県渋川市です。渋川市というのは温泉で有名な伊香保のふもと町で、私の祖父はその町で内科医を、父が眼科医をしていました。生まれた頃から田舎の実地医家を行っている環境で育ちましたので、自然と患者さんと接する医療のやりがいを感じていました。なので、医者になろうと思ったのは自然な流れでした。
私の祖父は明治生まれの開業医ですから、当時は医療のことに関わらず、町の人の相談役で、いろいろな話にのっていたようです。そのような様子を伺っていたので、コミュニケーションを大切にする実地医家の気質が身についていると思います。

それでは、小さな頃から医師になろうと決めていらしたのですね。
 けれど、私が無事に医学部に入れたのは、祖母と両親のおかげなんです。
私は男ばかりの3人兄弟の真ん中でした。趣味でも挙げましたが昔からスポーツが好きで、ソフトボールやサッカーをしたり、仲間を集めて遊んでばかりいました。
そんな様子を見て、「このままではいけない。このままでは勉強せずに遊び人の3兄弟に育ってしまう。」と思った祖母と両親が、私が小学校高学年になった年に、なんと祖母が孫の3兄弟を連れて渋川市を出て、県庁所在地である前橋に引っ越したのです。田舎町とは違う環境にして、規則正しい生活を送らせることで、勉強もさせようと思ったようです。

私が小学校2年生くらいの時の写真です。ピアノの椅子に座っているのが兄です。兄は実家の平形医院を継ぎました。右側が弟で、慶應病院内科で准教授をしています。

お祖母様との生活は、どのようなものだっだのですか?
 祖母は明治の女性ですから、規律を重んじて質素倹約をモットーとしていました。祖母は毎朝4時過ぎには起床して、掃除、朝食の準備をすると、孫3人に声をかけて散歩に出かけるのです。強制はされませんが、祖母が早足で歩いて行くので我々は仕方なしに追いかけながら、今でいうジョギングをすることになります。
ジョギングから帰るとNHKラジオの基礎英語・英会話を聞いてから、讃美歌を歌い、聖句と祈りをして朝食でした。そして登校です。朝食前に一仕事する習慣でした。祖母は怒らないし、強制もしませんでした。けれど、寝ていてさぼっていると、恥ずかしい感じになりました。

 祖母は英会話や書道、絵画などもする人でした。明治時代のクリスチャンの女学校に在籍していた頃の宣教師の影響だったと思うのですが、そんな祖母からは何かを信じることの大切さや規律を守ることがよい人間を作ると自然に教えられました。 今思うと、とても幸せな環境でした。そのおかげで、3兄弟とも勉強も多少は励むようになり、私は兄を手本に、弟も兄2人に続くように、それぞれプレッシャーはあったと思いますが、みんな続いて慶應医学部に入学できました。きっと祖母がいなければ大学まで出られなかったと思います。
 その祖母は106歳まで長生きして、私たちが成人するのを見守ってくれました。

大学時代のことを教えてください。
 大学ではテニスと剣道をしていました。
 もともと剣道は小学校入学時代から祖母が礼儀作法を身に着けさせるために習わせたものでしたので、祖母を思い出させるもののひとつです。慶應の剣道部は、他学部と合同で練習をする機会などもあり、医学部を超えて剣道というスポーツを通して広く素晴らしい先輩や友人達との出会いがありました。また剣道は困ったときに気合を入れることを教えてくれました。
大学時代は、とても楽しい思い出ばかりです。好きなスポーツや早慶戦の応援に熱中しました。テニスや剣道部の仲間との合宿や小旅行、ポリクリを始めとする学生実習などの課外活動はどれも楽しい思い出です。

大学6年生の時、剣道部での写真。

ポリクリ(学生実習)の時の仲間。 (故 加藤 元一 名誉教授像の前で)


これは友人との思い出ではないのですが、一番思い出に残っている旅行は、1人でのアメリカ旅行のことです。緊張しながらも、いろいろその間に考えるものがありますよね。宣教師の紹介でシカゴで初めて出会った開業医一家にお世話になったり、大学の先輩を頼ってシンシナティ医科大学で一日授業を受けたりしました。ニューヨークに滞在したときは、父の知人の家でお世話になったのですが、その方に「NYマンハッタンはAny kind of people lives, and anything happensと言われる。君が一人で歩いていたら、必ず誰かに道を聞かれるよ」といわれました。外国人の私にそんなことがあるのか、と思いながらマンハッタン中を一人で歩き回っていたのですが、本当に2~3人から道を尋ねられました。

眼科医になろうと決めた理由は。
第1にはまず、父が眼科医だったことです。それから、当時の慶應の眼科は植村恭夫先生が教授をされていました。植村教授は人格者としても有名な大教授で、学生からも大変人気がありました。植村教授は医学部長を務めていたとき、他学部の先生たちからも人気があって、慶應医学部長としては初めて慶應義塾の理事を務めた方で、そんなすごい先生の弟子になれるならば入局するしかない、と思ったのが大きな理由です。当時は眼科というのはマイナーな診療科で、毎年数名しか入局しなかったのですが、私の代は10人も入局しました。そのことからも、いかに植村教授がすばらしい方かわかると思います。

それから、私が専門にしている網膜硝子体の手術が当時ようやく安定して患者さんに行える域に達してきた時代であったことです。ポリクリで硝子体手術の顕微鏡を覗かせてもらった時に、目の中の混濁を手術で取っていくと、視神経が現れて、そこを通る血管がよく見えるようになり、血球の動くのも見れるのです。そして術後には患者さんが「よく見えるようになった」と喜ばれました。神経や血管を直接観察して、目に見える効果が表れ、患者さんも喜びを実感してくれる。そんな手術法の提供が始まって間もない時期でしたので、これからは手術をするなら眼科だと思いました。

留学先ではどのような経験をされましたか。
 植村恭夫先生は、私が眼科を志した恩師ですが、私をこれまでに教育して下さった恩師は今年2月にお亡くなりになった杏林大学医学部の樋田哲夫名誉教授です。慶應の眼科に入局してからずっとお世話になりました。いろいろなところで、私に進むべき道を作ってくださいました。 留学をすることになったのも、樋田教授の紹介によるものでした。樋田先生もご専門は網膜硝子体疾患で、アメリカのデューク大学に留学されていました。その大学には、網膜硝子体手術の父といわれるMachemer教授がおり、世界の硝子体手術の指導者たちが集まるところでした。樋田教授から「デューク大学に行くといい」と推薦していただき、3年間アメリカで学びました。
留学先では、樋田先生のおっしゃるとおり、有名な専門家が集まっていて、眼病理の研究をしながら、優秀な方々と家族ぐるみで知り合いになれて、大変有意義な生活を送りました。 そこで出会った方々は、みんな人柄のいい人ばかりで、今でも仲良くしています。国際学会などで再会できるのがとても楽しみなことなんです。

それから、眼科診療のスタイルについても、学ぶことが多くありました。
杏林大学病院では、眼科はアイセンターと名称がついています。これは、ディーク大学アイセンターを目標に作りました。 眼科というのは、とても細分化された診療科なのです。網膜剥離などの網膜硝子体疾患、斜視などを扱う小児眼科、角膜移植、白内障、緑内障、ぶどう膜炎、神経眼科など、さまざまな専門領域があり、それぞれ専門的な知識と治療技術が必要。とても一人のトップがすべてをマスターして指導することはできません。良性から悪性疾患まで、しかも子供から老人まで、患者さんはたくさんいらっしゃいます。そこで、眼科というひとつの組織ではあるけれど、それぞれの専門性を確立、充実させて、相互にコミュニケーションをとるアイセンターを組織しました。 米国には殆どの大学病院にアイセンターがあります。

留学先から帰国して、当時の主任教授の藤原先生や樋田先生と相談して立ち上げたのが、杏林大学病院のアイセンターです。

デューク大学のProia病理・ 生化学教授一家と。

硝子体手術の父といわれるMachemer教授と。

杏林アイセンターの特徴であるロービジョンクリニックについて教えてください。
手術をして治すだけではなく、術後にちゃんとした眼鏡や補助具を処方したり、歩行訓練をして、患者さんの生活が拡大するような手段を提供したり助言をすることが、患者さんの行動の拡大にもつながります。いくら網膜剥離を治しても、腫瘍を治療しても、患者さんの生活範囲が治療前と変わりなければ治療した甲斐がありません。

杏林大学病院のロービジョンクリニックは、基本的には患者さんのためにあります。低視力の方や失明された方に残存視機能や他の感覚器をうまく使っていただくための、補助具の使い方や道具の紹介、訓練施設の紹介や歩行指導やリハビリを行っています。
たとえば、低視力の方が本や新聞を読む際に、文字や写真を大きく表示できる拡大読書機の紹介や実際の使い方などをアドバイスしています。患者さんができるだけ生活圏を広げて、その生活に慣れて喜ばれることが、医師としてもとてもやりがいを感じます。これが眼科医というより臨床医の基本だと思います。

このクリニックは研修医や医学生のためにもなっています。
眼科医は単なる治療屋ではありません。傷が治った後、生活状況はどうかお話を伺って、生活に必要な物のアドバイスや道具の紹介を行います。杏林の研修医は、このようなロービジョンクリニックの様子や依頼の仕方を自然に身につけ、ただ治療をするだけでなく、患者さんの生活拡大につながる治療後のケアを勧んで行うように成長しています。ロービジョンクリニックのある杏林アイセンターならではの教育になっていると思います。教育病院や重篤な疾患を治療する眼科には、ロービジョン部門は絶対に必要と感じます。

どんな経緯でロービジョンクリニックを導入したのですか?
正直なところ、ロービジョンクリニックは直接的には医療収入につながりません。保険点数もなく、時間もかかります。しかし、先ほどお話したように、患者さんの生活拡大はとても重要なことです。アイセンターの立ち上げと共に、藤原教授、樋田教授と松田博青理事長へロービジョンクリニックの開設を要望したところ、採算が合わないにも関わらず、松田理事長は患者さんのためになる医療の必要性をご理解いただき開設を許可してくださいました。大変感謝しています。

これは、私が医師になってから思ったことですが、私がまだ5歳の頃、私の父の医院に日本で初めて誕生した盲導犬「チャンピィ」の主人となる方が療養していました。その方の娘さんが私と同じ位の年でしたので、ご家族の方とも親しくさせてもらいました。そのときは何も思いませんでしたが、目の見えない方の手を引いたり、歩行練習をしたり、手すりなどの設備を整えたりしていました。今思うとそれはリハビリにつながるのだと思うのですが、そのときの経験が、眼科医になった今とても貴重であると感じます。その経験が今のロービジョンクリニックの私の原点になっていると思います。

それでは、患者さんへのメッセージをお願いします。
医療は、医師と患者さんの協力で行われるものです。お互いに相談しながら、治療を受けていただきたいと思います。残念ながら、病気は進行具合などによって、必ずしも完治するものではありませんし、治療できないものもあります。治療をして、完治しないことに苦しまれる方も多くいらっしゃいます。けれど、「見え方にゆがみが残ったけれど、前よりも見え方がずいぶん明るくなった」と前向きに病気を受け入れて生活圏拡大に努めていかれる方もたくさんいらっしゃいます。医師と患者さんとで、どちらか一方に寄りかかるのではなく、お互いに責任をもち相談し合ってよい医療を作っていかれればと思います。

座右の銘

流水不濁
忙人不老

留学前に、恩師である植村恭夫教授が書いてくださった言葉です。ずっと部屋に飾ってあり、この言葉を掲げています。
それから、これは座右の銘ではありませんが、祖母の影響で「人生で信仰・希望・愛が大切である。このうち一番大切なのは愛である。」というキリスト教の教えを大切にしています。

思い出の写真

本年10月日本臨床眼科学会を主催して無事終了した際の医局員との集合写真です。
3年前、樋田教授の主宰による眼科では最大の日本臨床眼科学会の開催が決まり、その開催の8ヶ月前に樋田教授は急逝されました。
樋田教授の思いを継いだ医局員が一丸となって学会を主催し、この学会では全国で1万2千人いる眼科医のうち、なんと8千百人もの過去最高の参加者がありました。
樋田教授の学会を成功させようという医局員全員の心がひとつになってここまでがんばれたのだと思います。
学会が無事に終了したことと、過去最高の参加数という快挙を樋田教授に報告することができました。
開催日である10月23日は、樋田教授の還暦のお誕生日でもありました。偶然にも運命的なものを感じました。

網膜剥離手術を確立したGonin教授を記念した「Gonin Club」に、樋田教授の推薦で初めて発表させていただいた1998年のエジンバラでの写真です。樋田教授(中央)と、網膜の電気生理学で世界的に有名な名古屋大学の三宅養三教授(右側)とご一緒しました。


平形先生の診療科詳細は、右のリンクをご参照ください。

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