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在学生の活動

タイの薬物依存治療センターでの意識調査

国際医療協力専攻 山岸 勝子

私は国際協力研究科を1年経過したところでモロッコに来ました。日本国内で国際協力を支援しようと大学院の卒業を目指していました。1年という期間と「モロッコの人は優秀だからちょっと背中を押してあげれば…」と言う言葉がすべての始まりでした。

プロジェクト名はJICA(国際協力機構)の「モロッコ村落妊産婦ケア改善プロジェクト」、3年目の今年が最 終年です。モロッコはアフリカに位置していますがJICAでは中東として扱われ、もう途上国卒業間近な国です。それでも都市部と地方の格差があり、妊産婦 死亡率も出生10万人あたり都市部で125、地方で307(1997年保健省調査)、国全体は230です。2004年から4人の長期専門家が投入されて、 地方の一人勤務の助産師さんの能力向上を目的に、日本の継続教育を参考に「継続教育モデル」が確立されました。

任 地は世界遺産で有名なフェズから30分のセフロという町です。保健省のセフロ支局が職場です。私の業務は地域保健でIEC(インフォメーション・エデュ ケーション・コミュニケーション)を保健支局職員が住民に行うよう支援すること、業務調整(会計と事務一般)です。2006年11月に赴任しました。

フランス語もアラブ語も理解できない妊産婦さんに接するのはモロッコの助産師です。地方に勤務する若い助産師が自信を持って仕事をするようになったことは嬉しいです。

*上の写真はセフロの眺めと筆者 *下の写真は青空巡回診療で女性へのIECの様子

実際の現場では大学院の地域保健の講義を受けていたことが役に立ちました。さまざまな保健の住民参加について発表し合い、日本の戦後の様子やヘルスプロモーションについても知識を得ていたからです。

日本の母親学級のセミナーを開き、地方の分娩施設付き保健センターで母親学級を始めました。また保健センター から10km以上の住民が4万人いるので巡回診療の充実を図りました。業務対象地域はセフロだけでなく55km離れたイフラン(風光明媚な観光地で、一部 で農業従事者が多い)と2つのパイロット県が設けられていたのです。離れているので効率よく情報を収集したいのですが、モロッコの人はのんびりしているの で、「明日ね」や「次回で」と黙っていたら永遠に待たされます。常に攻めの姿勢でとモロッコ人の背中をちょっとではなく、全体を押してきました。

こちらの人は家族の絆が強くお互いを大事にします。仕事は16:30で終了。支局のドアに鍵がかけられて私は いつも閉じ込められていました。今は諦めて私も早く帰っています。特にラマダン中は(イスラム教国なので断食があります)15時でぴったり誰もいなくなり ます。また太陽が沈んだ18:30の朝食(夕方ですが朝食と言います)時は夜中のように静まりかえり町は無人になります。首都のラバトに行ったときも同じ で、タクシー一台通りません。レストランも閉まり食事ができませんでした。

セフロにも青年海外協力隊の若い人たちがいます。さくらんぼ祭りに周辺の隊員が集まりました。セフロはさくらんぼの産地で、私も一生分のさくらんぼを食べました。

*和太鼓に合わせて踊る協力隊員

協 力隊の彼らも普段は任地でアラブ語とフランス語に奮闘し、暑さ寒さに耐えています。それだけでなく、モロッコ人は「自信屋さんが多く」めったに「ごめんな さい」を言わない性格にも耐えながら頑張っているようです。私が耐えたのは体の痒みです。年のせいではなく、若い人も乾燥(湿度33%、気温30度という 日もありました)の洗礼を受けるのです。今はオリーブオイルが体の隅々に染みわたり大丈夫です。その土地のものを食べることは重要です。日本食を持ってき ましたが、ほとんど食べませんでした。特にモロッコの地方の市場の野菜は自然の味で(化学肥料を使わない)おいしいです。私はモロッコ料理のクスクスとハ リラというスープだったら毎日でも食べられます。

帰国後は大学院に復学します。卒業後は大学院とモロッコ、セネガル(以前に協力隊員でセネガルに2年いました)経験を生かして私にできる国際協力に係っていきたいと思います。具体的には国際協力を市民の立場で地道に活動しているNGOを支えることができたらと思います。

*この写真は日本に行った帰国研修員が日本の母子手帳を参考に作成された「女性の健康手帳」 *モロッコの王妃の広報支援で全国に広まり女性の思春期から更年期までカバーするところが日本の母子手帳と違う

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