講義抄録
「我が母校 杏林大学で過ごした21年」
医学部 呉屋朝幸
杏林大学に赴任して早くも21年がたちました。40年におよぶ医師としての経歴の半分以上を杏林大学に在籍し、私にとってまさに母校以上の母校となりました。杏林大学では存分に仕事をさせていただきましたので、定年退職するに当たり充実感と母校愛が私の心の中にあります。杏林大学で仕事をすることができたことは私にとって実に名誉なことで、この間、松田博青理事長をはじめ大学関係者の皆様には大変お世話になりました。いただいたご指導に対して、感謝の念に堪えません。
私は肺癌の診療を充実させるべく、国立がんセンターより1993年4月に赴任してきました。肺癌診療と臨床研究、そして何より若手外科医の教育を教室の目標と定め、当時、社会の関心を集め始めた臓器移植は私立大学にはなじまないと考え取り組まないこととし今日まで教室を運営してきました。
21年前は肺癌の診療実績は全くなかったので、文字通りゼロからの出発でした。肺癌診療体制を構築するには、まず「がん」の診療体制を構築・整備することが必要だと考えました。がんの診療にあたっては当然の如く「告知」は大前提ですが、当時は学内に「告知」の概念は普及していなくて、患者の望む「告知」をしたところ当時の病院幹部から注意を受けたことなどが懐かしく思い出されます。肺癌画像診断でもGGO病変の概念はなく、病理診断もWHO分類に基づいたものではなかったので各部門と大いに議論をさせていただきました。その後治験審査委員会、臨床試験管理室、癌化学療法病棟の設立に係わったことをとおして、さらに院内がんセンターの設置など学内の癌診療体制確立に貢献できたものと自負しています。
教室員の教育方針は、外科医である前に臨床医であること、呼吸器外科医である前に臨床外科医であること、呼吸器外科医である前にoncologistであること、病理学を必ず学ぶことを求めました。そして、病棟conference では若手外科医、医学生には臨床医学、外科学について厳しく教育しました。時には激しい議論の結果「靴」が空を飛んだこともありましたが、今から振り返ってみて、各教室員が成長した様を見るとその成果は大いにあったものと確信しています。当時は「Local and global」の理念の基に、OSLERRという標語を掲げていました。それは Observation, Science, Logic, Evidence, Reason, Record の頭文字をとり、カルテからではなくbed sideで自分の目で患者を診て科学的に考え、証拠に基づいて論理的思考を組み立てること、その上で人間性に基づいた理性が必要であり、結果を記録し論文に残すことの意味です。そして地域の医療に貢献し世界水準の成果を上げようということです。
教室の業績では呼吸器外科手術総数は1993年から現在までの約2800例に達し、肺癌外科切除例総数は約1400例となりました。2013年には年間肺癌外科切除例は135例で都内でも有数の規模となることが出来ました。関連病因の厚生連長岡中央病院と群馬県立がんセンターを併せると肺癌外科切除例数は年間300例を超え、国内でも有数の規模となりました。このような教室としての成長は教室員の協力・貢献によるところ大であり、教室員全員に感謝しています。特に呼吸器外科教室の創生期に在籍し尽力してくれた3人の先生方;輿石義彦先生(前国際医療福祉大学教授)、腫瘍学と癌化学療法を導入して頂いた宮 敏路先生(現 日本医大内科教授)、医療安全の考えを指導して頂いた相馬孝博先生(現 榊原記念病院副院長)にはこの場を借りて感謝の意を表します。また、当教室は日本肺癌学会、日本呼吸器外科学会、日本気管支内視鏡学会の肺癌登録合同委員会事務局を設置(1993年〜2008年)し、国内肺癌登録の元締めとしてデーターセンターの役割を果たし、我が国の肺癌臨床研究の進歩に貢献するとともに世界への情報発信に寄与することが出来たのも教室員の協力なしには出来なかったことです。
国内の学会主催では第62回手術手技研究会、第33回日本呼吸器内視鏡学会、第74回日本臨床外科学会、第2回日本臨床倫理学会を開催しましたが、特に第74回日本臨床外科学会開催にあたっては教室員のみならず、理事長、学長、副理事長、外科系各診療科そして地域医師会の先生方に全面的なご協力・ご指導を頂き成功裏に開催できました。外科系各診療科が一丸となったことで杏林大学の総合力を学内外に発揮できましたことを誇りに思うと同時に頂いたご指導・ご協力に対しあたらためて御礼申し上げます。
学内の外科診療体制については20年前には多くの大学が講座制の下に第一・第二外科として運営されていましたが、時代の流れとともにこれを臓器別体制にすることが求められ多くの大学が苦労する中で本学では第一外科の跡見 裕教授と相互協力し、いち早く新体制への移行と体制変革を円滑に進めることができ、今日の臓器別外科診療体制を確立できました。大学が社会の求めに対応し組織を再編成する柔軟性と対応力を示し今日の本学外科の発展と質に貢献できました。
副院長として地域との連携に関わり、多くを学ぶことが出来ました。2005年に三鷹市医師会理事を拝命し、医師会活動や地域の医師の活動を悉に見る機会を得て大学病院が地域医療に関わること、それに対応する体制を備えることがいかに重要なことか身をもって知る機会を得ました。このような活動を通して2009年からは地域の在宅医、歯科医、薬剤師、院内の看護師、訪問看護チームと協力して「在宅医療・緩和ケアカンファレンス」を組織し、地域の方々とコミュニケーションを持つことが出来たのも私にとっては財産です。杏林大学は学長を中心に“新しい都市型高齢化社会における地域と大学の統合知(地)の拠点”事業をスタートし、地域重視の立場を明確にしています。医療の面からも地域重視の姿勢を示すことはこの事業の趣旨にも沿い、意義のあることだと考えています。ご支援・ご指導を頂いた地域の関係者にもこの場を借りて感謝申し上げます。
最後に、人には愛する家族があり、帰属すべき国、土地、組織、文化があります。これは人としての生きる基盤です。その中で最も重要なものは「文化」です。杏林大学という組織は私にとって21年間過ごした肥沃な土地でありました。思う存分に仕事をさせていただき、大学の発展とともに自分でも成長できたと確信するので、思い残すことは何もありません。
杏林大学には「真、善、美の探究」という学園の理念があります。それは「真」、「善」、「美」を通しての「文化創造」へ通じるものであり、最終目標は「杏林大学の伝統と文化の創造」だと思います。これから杏林大学を支える皆様におかれましては私と同じように、この肥沃な土地で母校愛と帰属意識を持ち、「真、善、美の探究」という学園の理念を通して、まず地域のそして我が国の文化創造に寄与し、世界の文化に貢献してもらいたいと願うものです。