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10月16日(水)に第52回アカデミア(外国語学部公開研究会)開催

10月16日(水)に第52回アカデミア(外国語学部公開研究会)が開催されました。

第52回アカデミア
2013年10月16日(水)於E104教室
発表者:楠家重敏教授
題目:イギリス外交官と
フランス外交官の日本語学習

(発表者による要約文)
「イギリス外交官とフランス外交官の日本語学習」

楠家重敏

1858年調印の日仏修好通商条約の第21条・第22条には駐日フランス公使館・領事館から幕府に送付する文書は5年を経過したのちはフランス語で書かれることが規定されている。その猶予期間にはフランス語文書に日本語のカタカナ文書が添付されることになっている。このカタカナ文書を作成したのは公使館に臨時に雇われた宣教師のジラールであった。ジラールが公使館を離れた1861年以降は、フランス語文書とともにこれを蘭訳した文書を幕府に送っていた。これを行っていたのは公使館の外交官であった。1864年にロッシュが公使に着任すると日本語文書を作成できる宣教師のカションを臨時に雇った。そして、1866年にカションが教会に戻ると、条約の猶予期間も過ぎているので、幕府への送付文書はフランス語だけになった。これは明治以降も続けられた。結局、フランス公使館では、臨時雇いの宣教師に任せきりで、日本語を読み書きできる外交官は育たなかった。
一方、イギリスは日英修好通商条約の第21条の規定に従って、調印後5年間は英語文書とその蘭訳を幕府に送付していた。駐日イギリス公使館は日本語学習の必要性をはじめから痛感していた。まず、アレキサンダー・シーボルトが日本語の口語をマスターし、ついでアーネスト・サトウが口語も文語も精通するようになった。イギリス公使館では日本語のできる外交官が数多く育ってきた。かくして、幕末において、イギリスとフランスの情報収集能力の差が明白となった。