Vol.5 チップス先生さようなら

学年末になって、四年生たちが卒業していく季節。今年は就職氷河期。毎年そのように言われるけれど、今年は確かに20年以上大学にいて、最も厳しいのではないかと思う。それでも彼らは思い思いに大学を出て、ある者は会社へ、ある者はフリーターに、またある者は大学院へと散って行く。今まで彼らと過ごした時間が終わる。四月になればまた新しい顔が現れる。それはまた楽しみでもあるが、しかし、数年にせよ、卒業生たちと培ってきた関係が、式をさかいにこれで終わってしまうというのは寂しいことだ。

「チップス先生さようなら」という小説がある。イギリスの私立小学校を舞台にした短編で、二度も映画になったから、それを見たという人も多いかもしれない。私はとても不思議な題名だと思っていた。なぜ「さようなら」なのか、どうして「こんにちは」ではないのか、わからなかった。

あるとき、この季節、はっきりと分かった。あれは「こんにちは」ではいけなかったのだ。「さようなら」でなければいけなかったのだと。

卒業生たちは私に「さようなら」を言って出て行く。わたしも彼らに「さようなら」を言う。それでなければいけない。いつまでも「さようなら」を言えないようでは困る。彼らの「さようなら」は、これから社会に出て行く喜びの言葉である。教師の「さようなら」は彼らの門出を祝う祝福の言葉である。

「さようなら」を言えるのは、悲しむべきことではなく、むしろ喜ぶべきことなのだ。「さようなら」と言ってくれる子どもたちは、教師にとっては、ありがたいことなのだ。

彼らは私の研究室を去っていく。私は取り残される。彼らにはいずれにせよ、新しい世界が待っているだろう。どのような出会いがあり、どのような世界を見ることが出来るのか、新しい空間と新しい時間。それはとても刺激的であり、学生時代のことなど忘れてしまうような日々であるだろう。

しかし教師には、場所も時間も変わらない。そこには彼らが不在であることを感じさせる研究室だけが残ってしまう。見送られる人よりも、見送る人のほうが寂しさを感じてしまう。相手が去って、もういない空間や時間を生きていかなければならない。見送られた側は、新しい空間と時間で、過去を思い出す暇のない生活をすごすことになる。

教師は「さようなら」を喜んで言えなければいけない。因果な仕事でもある。

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