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Story of Shinyu Matsuda

三思して而るのち行え
断じて行えば鬼神もこれを避く

 本学の創立者である松田進勇は台湾の出身です。穏やかな田園風景が広がる長閑な土地に生まれ育った一人の人間が、大戦前夜の激動する時代に異国の地に渡り、医師になり、病院を開設し、そして総合大学を創立するに至りました。自らの信念に従って果敢に挑戦を続け、理想を現実のものにしたのです。
 松田がいかに困難を乗り越え、目標を達成して行ったのか、その足跡を辿ることは、変化の激しい今の時代を生きる私たちにも一つの指針を与えてくれるのではないでしょうか。

松田進勇先生の写真

杏林学園創立者 松田進勇

  • 略歴
  • 1904年 台湾で出生
  • 1923年 台南州斗六郡で国民学校の訓導(教師)となる
  • 1932年 日本大学医学科を卒業
  • 1945年 松田病院を開院(東京・杉並区)
  • 1954年 三鷹新川病院を開院
  • 1966年 学校法人杏林学園を創立
  • 1970年 杏林大学医学部を開設
  • 1979年 杏林大学保健学部を開設
  • 1984年 杏林大学社会科学部を開設
  • 1985年 勲二等瑞宝章を授与
  • 1988年 杏林大学外国語学部を開設
  • 1988年 心不全のため死去 享年83歳
小学校訓導時代の松田

小学校訓導時代の松田

医学研究に取り組む松田

医学研究に取り組む松田

  • 台南師範学校の学生たち

    台南師範学校の学生たち

  • 台南師範学校の本館だった赤崁楼

    台南師範学校の本館だった赤崁楼

 杏林学園を創立した松田は、1904年に台湾の台南州で誕生。律儀で義侠心に富み、教育熱心な父のもとで成長し、小学校に入ると教育という魅力的な世界を知って「教師」を夢見るようになった。それを知った周囲の人々は、松田の夢を先取りするように、彼のことを「校長」と呼んでいた。上級学校に入ると、そこには生徒のために自発的に補習授業を行う熱心な青年教師がいた。その教師との出会いによって、教師への憧れは確信へと変わり、難関の師範学校に無事合格。そこでも尊敬できる教師たちとの出会いを通じて、自ら決めた進路を天職と自覚し、幼年期の夢を現実のものにしていった。
 晴れて「訓導」(教師)となった松田は自身の給与や時間を惜しげもなく教え子のために使った。ポケットにナイフを忍ばせていた不良少年を親から預かり、4か月以上にわたって寝食を共にして更生させたこともあった。時には同僚から揶揄されながらも、「厳しさと優しさが子供を育てる」という自身の信念に基づいて子供たちと向き合った。
 そうした教員生活の中で、松田は貧しくひ弱な子供たちを前にして、「誰もが人間らしく生きるためにはどうしたらよいのか」という根源的なテーマに直面。「健康と福祉」が人間社会を豊かにする。そう考えた松田は医師になることを決意した。

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松田病院前にて家族と

松田病院前の松田と家族

 訓導の時代、開業医の家に間借りしていた松田は、開業医が貧しい人からも相当な金額の治療費を取っているのを見て疑問を感じていた。
 「医師とはいったい何だろう?」松田は医師になるため東京へ。当時の日本大学医学科に入学し、ここでも大きな影響を受ける恩師に巡り合った。「人命を預かる医師を養成するには、専門的な学問と同様に、あるいはそれ以上に人間教育の面に力を入れるべきだ」という考えを持っていた額田豊博士だった。
 医学と共に人間学を学んだ松田が、医師として働き始めた頃、勤務していた病院に男性患者が受診に来たことがあった。ちょうど昼の休診時間帯だったが、「仕事があって午後まで待てない」という男性の事情を汲み、松田は看護師には休憩を取らせたうえで自ら診察した。ところが、この対応に対して、上長から「時間外に来た人をいちいち診ていては周りの迷惑になる」「患者に“さん”付けする必要はない」という言葉が投げかけられた。松田はこれに納得がいかず病院を退職。自ら信じる医師を体現するために開業することを決めた。終戦間際の1945年7月のことだった。
 戦後の荒廃と混乱のさなか、松田は開業の準備に奔走し、遂に杉並区に松田病院を開院するに至った。医人道を実践する松田病院の姿勢は評判となり、患者数は順調に増加。小さな個人病院は、総合病院の三鷹新川病院へと発展を遂げていった。

  • 三鷹新川病院

    開院直後(1954年頃)の三鷹新川病院

  • 杏林短期大学

    学園創立と同時に開設された杏林短期大学

 日本大学医学科を卒業したあと、松田は家庭の事情で一度故郷の台湾に戻り、医師として勤務していた時代があった。その後、松田は再び日本の大学で医学を学び、医師として身を立てようと、家族とともに渡航することになった。
 しかし、時は太平洋戦争真っただ中の1943年。何とか日本に渡る船に乗ることはできたものの、魚雷攻撃を受ける可能性が十分にあった。海に投げ出された場合に備えて自動車のタイヤチューブを予め用意し、家族に「船が沈没しそうな時にはこれを使って何とか助かってくれ。私はこの論文を守らなければいけない」と言って、自分はタイヤチューブの代わりに論文を大事に抱きかかえていたそうだ。
 のちにわかったことだが、松田と家族が乗った船の前後2隻が沈没。彼が日本に再びやって来られたのは奇跡的な出来事だったのだ。

  • 船上で家族にタイヤを渡し、論文を抱える松田進勇
    船上で家族にタイヤチューブを渡し、
    論文を抱える松田
  • 前後の2隻の船は沈没
    前後の2隻の船は沈没

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医学部開設当時の校舎

医学部開設当時の校舎

  • 入学式で挨拶する松田

    入学式で挨拶する松田

  • 医学部の許可を伝える新聞記事

    朝日新聞社の承諾を得て転載しています。
    【承諾番号:26-00411】
    朝日新聞社/朝日新聞出版に無断で転載することは禁じられています。

    1970年3月15日 読売新聞

 松田とそのほかの医師、看護師、職員らの献身的な努力の結果、三鷹新川病院は開院から10年で東京でもトップクラスの総合病院に躍進。ようやく病院経営が安定して関係者が安堵していた矢先、松田は新たなチャレンジを宣言した。
 「君たちの苦労はよくわかっているつもりだ。しかし、僕もここで立ち止まるわけにはいかない」。訓導を辞した後も心の中に生き続けていた教育に対する情熱が沸き上がり、松田は大学医学部の開設に向け、まずは短期大学の開設に動き出したのだ。かつての教育者としてだけでなく、外科医としても医師をサポートする優秀な臨床検査技師を養成したいという熱意が短大開設の背景にはあった。
 松田が医学部開設に期していたのは「上医の養成」だった。上医とは技術と人格を兼ね備えた医師の理想像だ。患者の命を預かる者として、人間的にも優れ、信頼に足る存在でなければならないと、松田は常に考えていた。特に、実地臨床医の養成を重視していたのは、本人が臨床医として長年多くの患者に接してきたからだろう。
 医学部開設という夢を果たした松田は、1970年に行われた第1回入学式の開学宣言で、こんな言葉を残している。「教育こそは本当に人類が永年に生き続けるための根本であり、生命であると考えています」。

 「無医大の県をなくし、各県に最低1医大を配置する」1969年の夏に当時の総理大臣、田中角栄が打ち出した選挙公約が、実は杏林大学医学部誕生のきっかけとなった。この公約を受けて、当時の文部省が国立秋田大学に医学部の増設を決定。その話を聞きつけた松田を含む3つの私大の理事長が「私大にも医学部を認可すべし」と手を挙げた。
 しかし、申請の期限となっていた12月中旬までは数か月しかなかった。必要な書類は、設置理由を記したもののほか、財産目録、第1回卒業生を出すまでの予算書、校舎の図面と登記簿謄本、各科目の教授や助教授、助手の経歴書と実印印鑑証明書付きの就任承諾書など。それらを各50部ずつ印刷製本して積み上げると天井に届くほどだったそうだ。もちろん、書類の作成だけではない。建物や人員などに関して様々な基準をクリアする必要があった。それを申請から認可までわずか数か月という、今では考えられないスピードで乗り越え、遂に医学部開設を実現。松田をはじめ周囲にいた関係者の熱意と実行力は驚異的なものだった。

  • 一県一医大構想を掲げる田中角栄
    一県一医大構想を掲げる田中角栄首相
  • 天井まで届くような資料を用意し、わずか半年で認可を取得
    わずか数ヶ月で膨大な資料を
    用意して認可を取得

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眞善美

本部棟(三鷹キャンパス)に刻まれた建学の精神

 医学部開設は確かに松田の宿願ではあったものの、その先を見据えていた頭の中には当時から総合大学化という構想があり、その歩みを止めることはなかった。
 1970年、広大な山地の中に、当時の文部省が定めた大学設置基準を満たすため、約13万㎡の校地を用意し八王子キャンパスを開設。周りは樹木が鬱蒼としていてほとんど何もなく、舗装されていない山道を上がった先に校舎があった。開設後も校舎はまだ整備途中で、体育の授業はグラウンドの石拾いから始まるような状態だったが、学生と教職員が一体となって大学というものをつくっていった。
 その後、1979年には保健学部、1984年には社会科学部(現・総合政策学部)を開設。社会科学部の新設に関しては、経・法・政・商の分野を包括した学際的な学部として当時の文部省に申請をしたため、科目編成や専任者の採用も含めて、認可までかなりの調整が必要であった。また、初めての文科系学部ということで入試方法なども一から考案しなければならず、学生募集に関しても期待と不安が交錯していた。
 結果としては、千人を超える出願者があったことで、ここまで走り続けてきた関係者はようやく安堵したそうだ。
 さらに1988年には外国語学部を開設。既設の社会科学部の教育棟に接続し、相互に教室を利用できるようにし、事務管理も一本化。教職員も学生も、新しいものを創造し発展していくという活気を感じながら、現在の4学部3大学院研究科を有する総合大学へと成長していった。
 松田は、科学技術の進歩によって世の中が複雑で不透明なものとなっていく中で、自然科学の過剰な台頭に危機感を抱いていた。人間の“力”の向上を図る自然科学と、人間の“心”の向上を図る人文社会科学。人間社会の健全な発展には、“力”と“心”の両方が必要であり、互いに抑制し合い、刺激し合いながら歩調を合わせて進歩してくことが望ましいと考えていたのだ。
 その思想は、社会科学部開設時に松田自身が書いた学部案内にも表れている。
 「本学はすでに医学部、保健学部をつくり、自然科学の研究と教育にあたってきましたが、人類の福祉に貢献するために科学のもう一つの柱となる社会科学の部門を加えることは自然科学と社会科学の調和ある接点を探究し、もって今日の社会の深奥に知的な光をあてるものであります」。
 医学教育の中だけでも『眞善美の探究』はできる。しかし、松田が教育の場に戻った真の目的は人間の育成であり、職業を超越した根源的な全人教育にある。総合大学化は、より広く、より完璧な『眞善美の探究』を目指す松田の挑戦だったと言える。

  • 1970年医学部八王子校舎

    1970年医学部八王子校舎

  • 1980年ごろ八王子キャンパス

    1980年ごろ八王子キャンパス

  • 進勇先生 夢

    1984年4月、社会科学部のオリエンテーションで
    特別講義を行う松田。
    これから始まる学生生活にあたって心構えを説いた。

  • 八王子広場

    中庭で歓談する学生たち(奥の建物は食堂「ガーデン丘」)

  • 井の頭キャンパスで談笑する学生たち

    2016年に開設された井の頭キャンパスで談笑する学生たち