教授
齋藤 智志
(SAITOU, Satoshi)

経歴
1995年3月 学習院大学人文科学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得後退学
1992年4月~2006年3月 帝京技術科学大学、東京家政大学、学習院大学、東京電機大学、電気通信大学、杏林大学、学習院女子大学、慶應義塾大学で非常勤講師
2006年4月 郡山女子大学短期大学部助教授
2009年4月 郡山女子大学短期大学部教授
2012年4月 杏林大学外国語学部教授(現在に至る)

先生の専門は何ですか?

大学時代は近現代のドイツ哲学を研究していました。その後、研究領域を教育思想にまで広げ、現在に至っています。哲学分野では、特に19世紀の「生の哲学」と呼ばれる動向に連なる哲学者であるアルトゥール・ショーペンハウアーやヴィルヘルム・ディルタイといった人を研究しています。最近では、ディルタイが神学者シュライアーマッハーの思想的生涯を描いた哲学的伝記『シュライアーマッハーの生涯』を翻訳し、解説を書きました。1300頁ほどの大著で、訳し終わるまでに10年以上かかりました。教育思想の分野では、特に「道徳教育の可能性」を探求しています。

なぜ、その専門に興味を持ったのですか?

生きることにはしばしば苦しみと不安が伴います。それでも私たちは生きてゆこうとします。なぜなのでしょうか? 高校生だった私は、こうした漠然とした、しかし自分にとっては無視しえない問いにけりをつけないかぎり、その先の将来を考えることはできませんでした。そして、そんな問いを学問的に考えることが許される空間が大学の哲学科にはあると知って、迷わず哲学科を選びました。私が「生の哲学」に興味を持ったのは、そうした問題意識があったからです。そして哲学を学ぶなかで、人間は本当に自由なのか、自律的なのか、ということが問題として浮上してきました。それは具体的な場面で言えば、例えば「教育によって人間を道徳的にすることはいかにして可能なのか」という問いと接続します。これは教育を考えるうえで本質的な問いであると思っています。

先生の専門分野の「こんなところが面白い」を教えてください。

「哲学とはどのような営みか?」と聞かれたら、私はこう答えたいと思います。「哲学とは、あらゆる事柄を平等に問いに付すことである。そして、答えが出ないことに耐えながら問い続けることである。」一般に問う意味があると承認されているような問いだけではなく、問うても無意味である、問うまでもなくあたり前である、と考えられているような問いも、哲学は平等に問いに付します。哲学にとって、問うに値しない問いなどありません。また、哲学の問う問いは、あらかじめ模範解答が用意されていて、正しい手続きを踏めば必ずその解答に到達できることが約束されているような問いでもありません。哲学は、解答が出るとは限らない問いを、しかし(ここが大事ですが)独りよがりにはならずに、あくまでも客観的・学問的に問い続けます。こうした哲学に没頭しているとき、私はたしかに自由な感じがします。哲学以上に面白いことがこの世にあるとは私には思えません。

そして、「教育によって人間を道徳的にすることはいかにして可能なのか」という問いは、すぐれて哲学的な問いです。ただ徳目を伝達すれば、それだけで子どもたちは道徳的になるのでしょうか。そんなことはないはずです。では、大人が強制すればよいのでしょうか。しかし、それで表面的に徳目に従ったとしても、それはおよそ自律的な行為とは言えません。しかし道徳教育は、子どもたちが自律的に道徳的行為をすることを目指しているはずです。では、どうすればよいのでしょうか。誰もが納得できる答えは容易に見つかりません。だからこそ、これは問うべき問題だと私は思います。こういう問題、面白くありませんか?

大学で専門的に学ぶことでどんな未来が?

私は主に教職課程の科目を担当していますので、将来教師になりたいと考えている人を念頭に述べたいと思います。本学科の授業で英語の力を大いに向上させ、教職科目を通して教師一般に必要な力量を身に着ければ、中学校や高等学校の英語教師になる道が開かれます。しかしこれは、教師としてスタートラインに立てるということ以上のものではありません。重要なのは、教師としてキャリアを出発させた後です。長く教師生活を続けていれば、さまざまな問題に直面することは避けられないでしょう。そういう時に立ち返るべきは、「なぜ自分は教師になったのか」、「自分が考えるよい教育とは何だったのか」といった、教師としての自分の原点のはずです。そしてこれは、誰かに模範解答を教えてもらえるようなものではありません。私はさまざまな教職科目を通して、暗に、あるいは明示的に、一貫して「この原点を考え抜け」というメッセージを発しているつもりです。学問を通して自分の原点を考え抜くこと――これこそが大学で学ぶ意義なのではないでしょうか。それができる人にとって、大学生活は最高に有益で贅沢な時間になるはずです。私の大学時代がそうであったように。

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